代替わりの時期はどうしたって忙しい。
 進学する大学が地方にある卒業生たちはどうしたってさっさといなくなってしまうし、たとえ大学がここの近くにあったとしても、新生活に向けて彼らは彼らで忙しいのだから、部活のことなど頼めるはずもない。
 特に、雑務をこなすのが仕事であるマネージャーという立場は、この時期選手達の三倍は忙しいのである。
「桃ちゃん、青峰のロッカー片付けられてないんだけど」
「えええ、あいつ! すみません、すぐ呼びます!」
「あー……いや、いいや。明日登校日だし。明日来てもらえば青峰の出席日数も増えるし」
「じゃあ明日は引きずってでも連れてきます」
「頼んだ」
 部室の掃除に励むわたしは新三年生。桃ちゃんは新二年生。高一にして既にわたしよりも余程大人っぽかった桃ちゃんを仮入部で見てから、丁度一年である。ああ、まさに光陰矢の如し。聞けば人間の体感時間というのは、十六歳にして人生の半分を終えるそうだ。ここからはもう一年の過ぎ去るスピードは単調増加するばかりだと思うと、なんとなく自分が歳をとった気がして、憂鬱になる。
「あ、先輩」
「んー?」
「これ、新しい部誌です。記名お願いします」
 差し出されたそれを受け取り、おっけー、と軽く返した。ここのバスケ部では部誌の後ろに部員全員の名前を書き入れることになっていた。部誌というのは代替わりとともに当然新調されるが、えんじ色の表紙に黒い紐綴じのそれは、去年のものとまったく同じデザインだった。
 開き、一番最後のページをたどる。監督の欄にはすでに原澤監督の名前が書かれていたが、主将、副主将の欄はまだ未記入だった。
 空欄を、指でなぞってみる。何も書かれていないその真っ白は、見目だけはまったく変わらないこの部誌、このバスケ部が、実は根本から変わってしまったことをわたしに教える。


「空欄って、自分が思うとるよりずっと採点者に与える印象悪いねんで」
 わたしの解答用紙をひらつかせながら、主将は呆れ顔で呟いた。どうでもいいが、その牛乳拭いた雑巾持つみたいなつまみ方をするのはやめてくれませんか? むう、と頬を膨らませれば主将の筋張った手がこちらに伸ばされ、頬をつまむ。つまむのが好きなんだろうか。
「記述欄が空欄ってめっちゃ目につくやん。採点者に嫌われたらしまいやで。取り返しつかへん」
「取り返しつかないんですか?」
「うん。大学教授なんてジジババばっかやし、字小さければ答案なんて見ずにポイ捨て」
「えええ」
「残念やけど、これ、ほんまのことや」
 空白に埋もれたわたしの解答用紙をぽいと机上において、彼は頬杖をつく。彼の目指す日本最高峰の大学の赤本は、小一時間程前この図書室に来てから閉じられたままだけれど、それの下にノートが潰されているのを見て、わたしはえいっと手を伸ばし、それを引っ張り出した。主将は不思議そうにわたしの行動を見守っている。わたしは構わずにノートを開き、まったく意味のわからない小難しい数式を流し読みした。にぶんのいちえむゆーとその数式を口に出してみると、酷い片言っぷりがお気に召したのか、けたけたと笑われる。不本意。
「物理ですか」
「うん。文系人間にはわけわからん?」
「わからないですけど、それあんたから言われるとむかつくんでやめてください。……これ、なんでuが二つあるんですか」
「それはvの筆記体やね」
「ブロック体で書いてください、文系に優しく」
「文系なら筆記体くらいお手のもんやろ?」
 そう言われて、わたしは再び自分の答案に目をやる。ちなみに先程からこの主将にからかわれているこのテストは先日の中間考査のものであるが、わたしの答案はものの見事にまるまるかっちりとしたブロック体である。でも、いざ筆記体で書いたら大学のジジババたちはやはり読めないと言って答案を捨てるかもしれないから、これでよいだろう。じゃあ主将は入試はちゃんとぜんぶ筆記体で書いてくださいね、と言うと、殴られた。拳で女の頭を打つな、この狐。
「ううんと、それで?」
「せやから、何かしら埋めた方がええて。ちょっと関係してそうな知識とか引っ張り出して無理やり書いて、自分考えてますよ、答える気ありますよって採点者にアピールせな」
「ふうん。でも、あんまりおかしなこと書いたら笑われそうじゃないですか」
「笑われても、頑張ってるって思ってくれたら自分の勝ちやで」
「ふうん……」
「あのな、ゼロってえらい変わった概念やと思わん?」
 は? とわたしは言った。
 このひとは頭が良すぎて突然話が飛ぶことが稀にあるけれど、にしたってこれは酷い切り替わり方だ。
「ゼロって、何かを数えようとして初めて生まれる概念やん? つまり、そこに数えられる何かがあることが最初から期待されてるってこと」
「日本語で構いませんよ」
「ネイティヴスピーカー」
「そうだったんですか? てっきり母語は狐の言葉だと思ってました」
「狐って言葉使えるん。知らんかった」
 主将は狐よりも余程狐らしい口元をにやりとさせて、わたしの揶揄を華麗に受け流す。
 どうやら突然切り出された意味のわからない話を解説する気はないらしく、かといって最早必要ないのだろう受験勉強を始める様子もないので、わたしは空欄とチェックマークだらけの化学の答案をつまみひらつかせながら、自分なりの答えをまとめてみる。彼によれば、答える気持ちを見せるのが何より大事らしいので。
「つまり、ゼロの発見が空欄を見たときの採点者の気持ちに似てるってことですか」
 主将はにやりとする。
「よう気付くな」
「何かがあることを期待されているのに、何もないってことですかね。最初からそう言ってください」
「そんないらつかんといて。ちょっとしたクイズやんか」
 わたしの答えの出来に満足したのか、ようやく彼はぱらぱらと赤本をめくり始めた。
 それでも、彼の言葉に従えば、空欄は何かがそこに存在するための枠まであちらから用意されている。
 それならば、まだその枠が漠然としているゼロの方がましなのかもしれないと思った。


「先輩?」
 桃ちゃんが不思議そうにわたしを見ていたので、ふっと我に返ったわたしは、なに、と聞いた。どうやらぼーっとしているわたしが気になっただけらしく、いいえ、なんでもないですと言う。
「そういえば、今吉さん、T大合格したんですよね。すごいですよね! 部活で全国準優勝まで行ってさらにあの大学に合格って、先生たちもすごく自慢げで」
「あー、ね。しゅ、……今吉さん、は、頭おかしいくらい頭良かったからなあ」
 主将、と言いかけた口を噤み、言い直す。もう主将は彼ではなくなってしまった。部誌の部長欄が空欄であることが、わたしにそれを自覚させる。
 こんな枠が、なければまだましだった。
 ゼロだったら、もっと漠然としていたら、わたしだってこんな痛烈に自覚しなくて済んだのに。なまじはっきりとした解答欄があるせいで、思い知ってしまう。彼はもうここにはいないのだと。
 わたしにとって、この欄に名前を書くべきなのは一人しかいなかったのに。
 答えを書くための枠まで用意されているのに、わたしの望む答えはもう二度と書き込まれない。
 彼が答案作成者でわたしがその採点者ならば、まさしくこの空欄は、わたしの気分を害するものだった。彼にはもう解答権は与えられていないし、わたしにだって採点権は与えられていないけれど、それでも。
 空欄って、自分が思うとるよりずっと採点者に与える印象悪いねんで。いつかの彼の声が蘇ってくる。
 だからわたしは、記憶の中で笑う彼に言ってやるのだ。もう問題は変わっている。採点基準だって変えられた。あなたの名前はもう、模範解答にはなれない、と。