夏の夕方の甘い風が頬を撫でる。
実際は潮風だからどうにも髪が痛んでいけないのだけれど。
さらさらり、裸足の足に砂がこそばゆい。砂が入るのが嫌で靴は脱いでしまっていた。
置いてけぼりにされた靴がぽつりとあんなに遠い。

「歩くの早すぎねぇか?」
「大丈夫だよ、しいて言えば君を見上げると首が痛い」
「それは我慢しろよ」

 日が伸びてきて5時くらいでも明るくなった夏の夕暮れ。
目線を向ければ太陽が大我の髪のように紅い。去年と変わらない美しい光景にそっと息を吐いた。

「毎年ながら付き合わせてごめんね」
「別に、いいけどよ。毎年毎年飽きねぇのか?」
「うーん、君が来でもしないとまともに外に出ないからね。飽きるとかはないかな」

 私が外に出るのを嫌がる頭の固い連中があの館には多すぎる。
ここより少し高い所にある丘の上の閑静な邸宅は、私が療養するために用意されたとても静かな建物で、あそこでずっと眠っていると幽霊にでもなった気分になるのだ。
 後ろを振り返ると大きくて規則正しい足跡と小さく、片足だけ引きずった形跡のある足跡。
あの邸宅の人々は頭は固くて、心配性だから大我が夏にやってこないと私を外に出したがらない。
おかげで私はここらじゃ白いワンピースを着た真夏の亡霊扱いされている。
まったく、麗しき乙女になんたる仕打ち。

「メシはちゃんと食ってんのか?」
「まぁね」

 嘘である。ここ最近暑さにやられてかゼリーぐらいしか胃に入れていない。
大我が来るのを見通してなんとかまともな顔色にしたけど、相変わらずガタガタの体のままで、あながち幽霊扱いを否定できないところが辛い所である。
でも、この日を本当に楽しみにしてきたのだ。
私の唯一といってもいいほどの外出、夏のからりとした夕方の風を吸い込むのが生きていると実感する瞬間でもあった。
ひと夏の蝉より短い時間を訳もなく歩くために、海へと連れてきてもらうのが一等好きだった。

「ふえっくしゅん」
「風が出てきたな、もうそろそろ帰るか?」
「もうちょと、だめ?」
「仕方ねぇな。あ、そういや車椅子に上着置いてきてたよな」

 取ってくる、と言う大我にひらひらと手を振って白い砂浜に汚れの事なんか気にせず座る。
砂の何とも言えない温かさと感覚を楽しみながらぼんやりと海を眺めていると、太陽が地平線の彼方に沈み行くところで、楽しい時間の終わりを感じて寂しさを感じた。
意味もなく砂浜を撫ぜていると、手に硬めの感触。

「お、巻貝だ」

 海からのギフトは、珍しいほどに形が整い、淡いピンクがかかっていて可愛らしい物だった。
それをそっと、耳に当ててみると波の音。本当は自身から零れ落ちる音という事は知っている。
ただざわりざわりと揺れ動く音がどうしようもなく切なくて、貝殻にぽろりと言葉をこぼしてしまった。

「君はもう幸せになっていいよ」

 うっかりこぼしてしまった言葉、でもそれは紛れもなく本心で、ははっと乾いた笑いを浮かべた。
こんな貝殻に向かって言う言葉じゃなくて、本人に言うべき言葉だ。
本当、最低だ。嫌になる。時間は有限ではないという事を私が一番分かっているというのに。
つやりとした表面を弄んで、それからもうひとつ。

「どうか、どうか、私の大好きな人が私のいないところで幸せでありますように」

 こんな言葉を言ってみたけど、さっきよりも笑える。
これは呪いという名の祝福であり、ましてやこんなものに願うべきものでもない。
でも、そうだとしても、私は。

「わりぃ、待たせた」
「お帰りー」

 行きと同様また手をひらひらと振る。
大我は私の手の平にある巻貝を見て珍しそうに眉をあげた。

「それ巻貝か、けっこうキレイなヤツがとれるんだな」
「ねー」

 手を差し伸べてきた大我の手を取って立ち上がった。
大きくてあたたかい手の平にちくりと心が痛むのはもうずっとだ。
大我は砂を払い私に薄手の上着を羽織らせると、また手を差し出してきた。
もういいよ、十分だよ。そう言えたらなんていいか。
喉から張り付いて出てきてくれない言葉のかわりに例の巻貝をそっと乗せた。

「これ、海に投げて欲しいな」
「持って帰らねぇのか?」
「うん、だってまた来年連れてきてくれるでしょう?」
「それもそうか」

 大我はぶんっと腕を振りかぶってそれを夕陽へと投げる。
バスケをしている大我によって投げられた巻貝はしばらくした後にほんの少しの水音を立てた。
地平線へ向かって投げられたそれを海に沈めることが出来て少しほっとした。
海の底でずっと眠りについて、そしてもう二度と太陽に照らされることがない方がいい。
呪いが二度と光を浴びないように、私の気持ちを沈めるように。
 今度こそ大我の手を取って帰途につく。
来た時よりも心なしか遅い足、注がれる優しい瞳。
あぁ、本当に好き。こんなに優しい人を私は他に知らない。

「また、来年。楽しみにしてるね」
「おう!」

 にっと笑う姿がどうしようもなく眩しくて、目を伏せた。
また来年もこの海には幽霊が現れるのだろう。
いつか真夏の亡霊が消えるその日まで、ただあの貝殻だけが仄暗い言葉を抱え込んだまま、願い続けているのだろう。
どうか、どうか。貴方の思い出になりたくない私を許してほしい、と。