※中学三年生

乾いた街に、もうそろそろ夜が来る。そんな事を考えながら制服のポケットに手を突っ込んで煙草を取り出し口にくわえた。いつだったか、先輩に進められて始めた煙草はおいしくもまずくもなくて。ただなんとなく、そんなやらされている感が拭えないものだったが、今となってはそれが口元にないと落ち着かないらしい。慣れた手つきで火を灯せば、ゆっくりと紫煙が白い線を描きながら空へゆらゆら立ち昇った。

「よう」

誰もいない公園のベンチに腰かけてぼんやりと遠くを見つめ、ふう、とそう息を吐き出したその瞬間。聞き慣れた声が鼓膜を揺らす。仕方なく、と言ったようにその声のする方へ顔を向けると不愉快だと隠す気なんて更々ないであろう目付きの悪い男と目が合った。しまった、と思った所でどうせ見られてしまったのだ。今更焦って消した所で大した意味はない。

「オイ タバコ」
「…努力はしてる」
「ってこの間も言ったよな」

咥えていた煙草を地面に落とし、親の仇とも言わんばかりに使い込んでボロボロになったローファーで踏みつけ火を消した。その一連を鋭い目で見ていた彼に、そう睨み付けられても、と思った事を素直に口にすると、今度はお前なあと心底呆れたように溜息を吐かれた。

「何してんの こんな時間に」
「まだ普通に出歩く時間だろうが」
「…否定はしない」
「親は」
「うーん」
「心配してんじゃねえのか」
「…はは、心配、ねェ」

お前仮にも女なんだぞ、なんて心配されてるのかされてないのか。大部分が黒くなっているその金髪は、なんだかとても中途半端で、まるで私のようで少しだけ笑えた。例えそれがもう二度と戻る事のない、居場所を求め燻っていた過去を抜け出し、前だけを見つめた証だとしても。

「あの人たちはきっと心配って概念がないから」

勉強は嫌いじゃなかった。それを表すかのように成績はいつだってトップクラスだったし、テストだって平均点を下回った事など一度もなかった。友達だってちゃんといた。例えそれが本音を言い合える仲じゃなかったとしても。品行だって頗る良かった。教師お気に入りの従順な生徒であろうと常に努力をした。それがいつからか、落ちこぼれの烙印を押されていたのだ。否、そうである事を私は望んだ。

「私はまだ、前になんて進めない」

初めはほんの些細な反抗だったような気がする。いつだって無関心な両親に心配して欲しくて、構って欲しくて、初めて夜の街に繰り出したあの日。そこで出会った鋭い目をしたあなた。きっとあの日の事は忘れる事などない。忘れる事なんてできやしない。

「女が一人で何やってんだ」
「あんたに関係ない」
「…言い方変えるわ、こんな所に一人で何やってんだ、優等生のみょうじ なまえ」
「……私の名前知ってるの」
「そりゃあお前有名だろ」

悪戯に成功したような笑みを見せる彼の名前を私も知っていた。倉持洋一。私が優等生として有名だと言うのなら、彼はその百八十度逆の意味で有名な人だった。話した事はない。マナーや校則や教師に縛られながら日々を送るのが私なら、その何にも囚われず日々を自由に生きる彼の姿は密かに私の憧れでもあった。あんな風に自由に生きる事ができたら。そう何度思った事だろう。だけれど私は知っている。自由に生きると言う事はそれに応じた力が必要だと言うことを。力のないものは校則や教師に縛られる事で平凡な日々を約束されているのだから。

「洋一なにその子、迷子?」
「オニーチャン達とあそぼーよ」
「ああ、ダメっすよ、こいつ俺のダチなんで」

夜の街は想像以上に綺麗で、怖くて飲み込まれてしまいそうだった。奇抜な髪の色にじゃらじゃらとしたピアス。一目でわかる危ない人達。彼らも珍しいものを見たと言わんばかりに近付いて来てニタニタと笑った。怖い。瞬間凍りつく腕が引かれ、目の前に大きな背中が私の視界を覆い尽くした。そんな私とは裏腹に彼らは倉持くんの名前を呼んで親しげに話しかけ、倉持くんも当たり前のように受け答えをする。

「なんだ洋一のダチか、どうしたよこんな時間に」
「親と、喧嘩して」
「お?家出か?」
「やるねェ、でもこの辺は危ねえぞ」
「俺らみてぇなクズしかいねぇからな」

知り合いの友人だとわかったからか、さっきまでの危なげな雰囲気を彼らからは感じられない。それどころか友好的に話しかけられる。戸惑いながらも嘘を並べれば彼らは自分達を"クズ"と言って笑って見せた。どう反応していいかわからず、助けを求めるように倉持くんを見たけれど、彼もその言葉に笑っていた。なんだかそれが、とても悲しかった。



ダメだ。話に集中できない。イライラする。相手が悪いわけじゃない、わかってる、このイライラの理由なんて。わかっているから余計にイラつくんだ。だって、身体は正直なのだから。自分が抜け出せない所まで来ている事などとっくの昔にわかっている。でも、どうしても、辞める事なんてできなくて。その堂々巡りに何度も何度も自己嫌悪に陥る。

「1本だけ、」
「ダメだ」
「お願い…っ」
「てめえはこれでも咥えてろ」

そう口に容赦無く突っ込まれたのはなんとも可愛らしいロリポップだった。口の中に広がる甘ったるさに顔を顰めれば、何が面白かったのか彼は似合ってるぜと笑った。何故こんな顔に似合わないファンシーな物を持っているのか、という私の考えが伝わったのか、街で見つけてお前に似合いそうだから買った、とよくわからない返事をもらった。

「意味わかんないし」
「わかんねぇよなあ、まあわかんねぇようにしてるんだけど」
「はぁ?」
「なんでもねぇ」
「変な奴」
「うるせえ」

ベンチに座る私の真正面に立ち、私と同じ制服姿の彼は私とは真逆の表情をしてそれを崩そうとはしなかった。星に手が届きそうだと錯覚さえ覚える程に今日は空気が澄んでいる。きっと星も綺麗に見えるだろう。そっと利き手を空に翳してみる。そこで気付く。目の前に立つ倉持くんのせいで綺麗な星空なんて見えやしない。代わりに見えるのは倉持くんの鋭くて、なのにどこか寂しげな眼差しだけ。過去を見ている私と未来を見つめるあなた。交わらない二つの視線は、この先同じ世界を見つめる事はないだろう。

「戻りたいな、倉持くんに出会ったあの夏に」
「なまえ、」
「ずっと、あの日のままいれたらよかったね」

翳した利き手に降り注いだ、君の眼差しが私を呼び戻す。ほら、また一つ、季節は去っていく。私だけを残して。私がもっと子どもだったら。言えたのかな、泣き叫べたのかな。行かないでって、ずっと一緒にいてよって。辛い時、寂しい時。いつも思い出すのは、あの日そっと自分の背後に私を隠してくれたあなたの温かな手なの。

「お前は、」
「もうすぐ春が来るね、出会いと別れの季節だよ」
「…お前は一人でやっていけんのか」

ケラケラと道化のように笑って見せたはずなのに。優しい、優しいあなたの言葉に揺らいでしまう。私怖いの。あなたのその優しさが、怖くて痛くてどうしようもないんだよ。あなたが自分のせいで私が優等生の道を踏み外したんだと思い込んで罪悪感を抱いていた事、自分をクズだと笑ったあなたがとっくの昔にいなくなってしまった事、私はそれを痛い程に知っていたから。気付いてたの、そんな私を一人残してこの街を去る事をあなたが最後まで悩んでいた事。

「ねえ、」
「ん?」

私だけを残して無情にも過ぎ行く季節が、当たり前だとまた次の季節を連れてくる。巡る季節が悲しいわけではない。ただ、あなたがこの街からいなくなるという事実が、こんなにも悲しい。でも言えるわけないじゃない。そんなしっかりと前だけを見つめた瞳で、顔でそんなに優しく悲しげに微笑まれたら。誰がそんなあなたをこんな掃き溜めのような場所に引き止められると言うの。

「…なんでも、ない」
「なんだよ 変な奴だな」

言えなかった言葉をぐっと飲み込んで、そっと笑ってみせる。新しい未来へと飛び込んで行くあなたは眩しくて、輝いて。寂しい、苦しい、悲しい。この気持ちをどう表したらいいかさえもう私にはわからなくて。でも、たぶん、きっと。あなたを想うだけで温かくて、優しい気持ちが溢れてくる、これが恋だと言うのなら、私はきっとあの日からあなたに恋をしていたと思う。だから、ねえ、お願い。好きよ倉持くん。私を置いていかないで。