東京には空がないと、彫刻家で詩人であった男の妻があどけなく言っていた。
では、東京には夜空も存在しないのではと思う。こればかりは東京だけに限った話じゃなかったか。「この世には」との表現がぴったりだろう。
今、目に映る暗色に包まれた地球の薄い膜に隠れてしまって、蠍の火が煌々と輝けないのだ。ただ現実を映したこの真っ暗な天にはその他の星さえ見えない。金色こんじきの月がぽっくりと暗い色に塗り潰した面に穴を開けているだけ。ああ、なんてむなしいことか。
上着を羽織ってこなかったことに後悔した。まだ完全に冬ではないが、日が暮れれば冬のように冷えるのだ。白い息こそ口元で膨らまないけど、寒いと感じる身体は過敏に反応していた。あったまろうとわずかに熱を持ったミルクティーの缶を呷る。

「あっま」

試しだと思って飲んでみたがやっぱりダメだ。この甘ったるい味がなんとも言えない。甘い。本当はブラックが飲みたかったのに、自販機の補充のやつが仕事をサボっているのか温かいのブラックは売り切れの赤ランプが点灯していた。
自販機を蹴ってやりたい衝動に駆られたが、いかにもボロそうな身なりだったからそれで何かあっても面倒だと思い、舌打ちだけして大人しく引き下がった。コンビニに行けば良かったが、そこまでやる気がイマイチ上がらなくて温かいのとこでまだ残っていたミルクティーを買うことに。でも、口付けた後に後悔した。あー、最悪。
口の中に残る甘さに眉をひそめながらも、ちびちびと飲んでいく。小銭が返ってくるワケないし、それに勿体無いから仕方なくだ。
あのオンボロ自販機同様に、この公園も廃れているのは暗くても分かった。人が寄りつこうとしない取り残された空間。あたかも亡霊のようだ。だからか、補充の仕事も怠るのだろう。亡霊は普通、人の目には見えないから。
この吐き出しようのないわだかまりのつっかえを感じながら、また天を仰ぐ。やはり、星は見えない。
世界全体が幸福でない限りは、個人の幸福はなどあり得ない。東北の童話作家は言う。だから自己の命に執着していた蠍は最期に、神へ「みなのさいわい」のためにと祈った瞬間に真っ赤な火となってやがては星となったのだ。あの人は、いつも自分はあの星のようになりたいとまだ夜空があった世界で煌々と瞬くアンタレスを指差し言っていた。
そう、あの人はそうあることを望んでいたんだ。馬鹿のひとつ覚えみたいに。東北の童話作家が書いた本を大切にしていた。でも、あの人が大切にしていたものは今は―――――
ここに博士がいるなら訊いていたのかもしれない。ほんとうのさいわいはどこにあるのか。そんなものは貴方が行った実験のように、あの銀河を駆ける鉄道のように幻じゃないのかと。真実を求め、まっすぐな瞳を大人に向けて。
…………………。
当たり前のように。東京に空がないと同じで、現実に答えを示してくれる博士だっていやしない。車のエンジン音やうるさい街の音が聞こえるだけ。偽物の輝きに騙された祭りのような騒がしさが遠くで聞こえるだけだ。
はあ、と息を吐く。馬鹿らしいと、何ヤケになってんだと。ズボンのポケットからケータイを取り出す。薄っぺらのじゃなくて、パカパカのちょっとぶ厚くて質量感があるほう。
今はスマホやら薄っぺらケータイが主流だから時代遅れだし変えたらとお節介を言われたことがあったが、壊れていないのに変える必要性が見出せないから「めんどう」と返したのを覚えている。そんなことを思い出しながら、待ち受け画面の真ん中にデカデカと分かりやすいように表示されている時刻を確認。
もうそろそろ潮時か。来たる時のために寒い夜の下で甘ったるいミルクティーを呷っていんだ。
行くかと横に置いた重みを感じるカバンを持つ。
気を引き締めて腰を下ろしていたベンチから立ち上がると、遠くから汽車の音が聞こえてきて、音はだんだん高まると次は低くなっていく。聞き間違いかと耳を疑った。だって、東京のこんな都会の一角で汽車の音がするなんておかしい。でも、耳は汽車と同じ調子でセロのような声で誰かが歌っているような気もしてきた。
あの人が大事そうに本の表紙を撫でながら口ずさんでいた、星めぐりの歌をくりかえしくりかえし。

「なにこれ………」

もう都会の音は聞こえない。遠く遠くに聞こえていた汽車の音がしだいに大きく、耳を占領する。耳を塞いでも聞こえるのだ。
ワケが分からないことに狼狽えていたら、どこからか不思議な声が。銀河ステーション、銀河ステーションといったかと思うと、目の前がいきなりばあっと明るくなった。
まるで、それは銀河を駆ける鉄道に乗り合わせた少年が見た景色と重なる。螢いかの火を化石にして空中に沈めたふうに。または隠されていた金剛石を誰がひっくり返してばらまいたふうに。
笑いがこぼれた。そして怒りも。ふつふつと、自然に。

「私がジョバンニってことかっ」

ごとごとごとごと。
音を立てて、小さな列車が走り続けている。目の前の景色が信じられないと目をこすっていた少年と同じように、夜の軽便鉄道の小さな黄いろの電燈のならんだ車室で窓から外を見ながら座っていた。

「切符を拝見いたします」

赤い帽子を被った背の高い車掌が、私が座っていた席の横にまっすぐ立っていた。切符なんて持っていない。気がついたらワケも分からず、ここに乗り合わせていたのだから。
でも、記憶にある本の描写をなぞらえてもしかしたらと思って上着のポケットに手を入れると、案の定か四つに折られた大きな紙があった。それは実際に目にする必要もなく、終着駅の天上も含め他のどこでも行くことが可能である切符なのだろう。
ふざけるなと。紙をぐしゃりと握り潰す。こんな物、私は欲しくない。

どうして、私がジョバンニに選ばれたんだ。
どうして、このタイミングで乗り合わせるんだ。
これじゃあ、あの人がカンパネルラになってしまう。

行き場のない怒りが、さらに握り潰す力へ変える。力んだ感情のせいか、言葉が乗る前の吐き出した息も震えていた。

「………持ってない。切符なんて持ってない」

だから、降ろしてくれ。こんな茶番に付き合ってられるか。ふざけた夢からさっさっと醒めて、私は帰る。蠍の火が見えない本物の、嵐の海の如く激しい荒波や身を世界すらも焼き尽くすような劫火の中との現実へ。
だから、カンパネルラとどこまでも一緒に行ける切符なんていらない。こんな物はただの気休めだ。
ぎゅぅと握り潰していると、不意に大きな手が「これ以上は」と制するように私の腕を掴む。一瞬、あの人かと期待した自分が腹立たしく思えた。ああ、早く早く。夢から覚めないと!
夢に侵食されてしまう。

「なんですか」
「『大人』になりたいなら嘘を吐くのはよくないぞ」

大らかで何でも包み込もうとする、あの人の面影がまたもやチラつく。矛盾したことばで説教をしようする男、いや背が高い車掌の顔へ視線を上げる。

「私、大人に『なりたい』ように見えますか。これでも今年で18になります。一応、大人ですけど」
「年はあまり関係ないんだけどなあ、これは」
「じゃあ、何を見て」
「んー、それを理解できないうちはまだ子供ってことだ」
「はあっ?」
「っま、座れよ。切符は拝見したし、とりあえず貰えるものは貰ってもバチは当たらないと思うぞ」

さっきから意味不明の車掌の口から「切符は拝見した」と聞いて、すぐさま上着のポケットの中を確認する。紙を取り出すと、上等な紙のようで肌触りのいい緑色に染まった紙の隅にはハンコの跡が。「あっ!」
この跡が「切符は拝見したから」を意とするのは一目瞭然。してやられた! ぐしゃりと、上等な紙はすっかり皺くちゃで張りの良かったであろう時の姿は見る影もないほど。
恨めしさを込めた視線が自然と鋭さが増す。威嚇する獣同様の唸り声を上げて睨むも、車掌は相も変わらず朗らかに笑っていた。

「その切符、天上だって行けてしまえる代物なんだ。さっきも言ったが、使わずに捨ててしまうのはもったない」
「じゃあ、あげる。私には不要だから」
「あっはは、それができたら苦労しない。残念ながらその切符はお前だよ。他の人間は使えない代物だ」
「それなら、」
「プレゼントした奴はお前にここから見える風景を見せたかったのだろうな」

車掌の癖に仕事せずに、あろうことか客である私の前で堂々とサボる男に胡乱な目を向ける。しかし、男は弁えることもなく図々しくも「ほら、すごいぞ」と同席に促す。でも、されるがままに流されるのが嫌だったから私は意地でもその場から一歩たりとも動かなかった。
頑な思いを知ったのか、それともはなっから強要をさせる気がなかったのか。車掌は気に留めない様子で、私から窓へ視線を再び戻す。「これが噂のってヤツだよな」
車窓の賛辞の声が、ごとごとごとと音を立てる車内に溶けた。別に見たいワケじゃなくて、他に見るものがないし嫌でも目に入ったから仕方なく見ることになった風景。そこは最初に感じた通りに、“ほんとうのさいわい”を探す少年たちが目にした筈の景色となんら変わらないものが広がっている。

ハレルヤ、ハレルヤ

前からも後ろからも姿無き声が聞こえてきた。それは祈りの声であり、理不尽な神に縋る言葉。耳を塞いで、声から逃れようとするけど神を求める讃美は止まない。
頭に直接刻み込むように響く声は益々数を増やし、声を大きくなる。声の波が押し寄せて、やがて烏合の衆のようなまばらの声はひとつの声へ形を成す。この列車に乗り合わせた時に聞こえた歌を唄う声とやがては重なった。
嗚呼、なんて酷い。
死者が旅する銀河鉄道。それは後悔と遺志を弔うためにあるのか。しかし、ここには亡霊がいたとしても彼ら乗客は誰もいない。
清々しいほどに鉄道がレールの上を駆ける音や、時折聞こえる他の音しか聞こえない静寂。
窓の外を飽きずに眺める車掌を呼びかけた。「ねえ、」

「ここはどこ」
「かの有名な銀河鉄道さ」
「あんなのただのフィクションだ」

幸せになれなら世界を呪えばいい。そうすれば、責任も怒りも全部全部押しつけて楽になれる。だから、ここにも『ほんとう』は存在しないのだと諦めればいいのだ。
この世に美しいものは存在しない。尊き自己犠牲の美しさは存在しない。あるのは醜いエゴイズムだけ。
だから、と矢継ぎ早に言葉を繰り返す。だから、“ほんとう”を否定してと。ここにはないのだと、こんなものが“ほんとう”ではないと分かるだけでもまだこの世界は救いがあると思える。
だから、と言葉を現実に落とす。

「いいや、ここはほんとうの銀河鉄道だ」

しかし、いつだって現実は無情だ。

「…………うそだ」

と、うわ言のように呟く私の目は窓の外の世界から目を背ける。川のように流れている辺り一面が仄かに赤い銀河。チカチカと赤い粒が幾重にもそこに漂い、尊き赤い世界を創り上げているなんか知らない。
はあと息が膨らむ音がする。嘘っぱちな幻想世界を背景にして車掌は返す。

「嘘じゃない」

だからさ、目を背けるのは止めないか。
ストンと、胸の奥に言葉が落ちてくる。
あ、あ、あ、あ、
どんなに耳を塞ごうが、遮る指の隙間から届いてしまうから厄介なんだ。拒絶しようが、逃げようがお構いなしに届いてしまう。
しかも、その言葉が真実であるように世界が動いているからさらにタチが悪い。正論をつらつらと並べられて、意固地になって屁理屈とのツマラナイ弾丸しか撃てなくなる。だから、怖ろしく思うんだ。
この恐怖は目では見えないもの。付け入る隙がない完璧な恐怖は一度痛感した人間にしか分からない。
でも、それがなんだ。

「いい加減なこと言わないで」

先にいる車掌は思い出の姿と重なるように見えるだけで、この車掌はあの人じゃない。あの人のワケがないんだ。あの人であったらいけない。他人の空似だって、私はまたツマラナイ弾丸をリロードして自分に撃ってやる。この奇妙な列車に乗り合わせる前から、あの瞬間からの変わらない。
変わらないんだ、絶対に。だからこれは、偽物だ。

「いい加減なこと、か。………確かにお前からすればそうだろうな。それにこの瞬間が博士が創り出した実験だと言われても、俺には否定する術がない。でも、今が幻想の実験だとしても俺たちにとって『ここ』は現実なんだ。
目を背けるな。現実から逃げないでくれ」

×××と、車掌が私を呼ぶ。あ、あ、あ、あ、
その声は止めて。その声で私を呼ばないで。無意識に、必死にそらしていた真実から逃げられない。
ずっと堪えていたものが溢れる。

「うるさい………本当に今さら出てきてなに! ならどうして、」

ほら、溢れてしまってもう止まらない。歯止めが効かなくなる。

「どうして、私を置いていったのーーー木吉さん」

車掌の男は、彼は哀しげにしているだけでその表情は言葉にし難いほどに曖昧としたものだった。それは私に対する謝罪故か。それとも後悔故か。彼は「哀しんでいる」だけがハッキリと伝わってくる曖昧な顔をしている。
あなたが哀しそうにしないで。あなたが私を置いていったのに。あなたが。あなたが。あなたが、あんな女の身代わりになったから私はまたひとりになったじゃないか。
銀河を駆ける鉄道はその間も無情に走る。終着駅を、生者と死者を切り離す場所へ向かうために。
ごとごとごとごとごとごと…………別れの音がずっと止まない。


「ぼく、もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなの幸いをさがしに行く。どこまでもどこまでもぼくたち一緒に進んで行こう」
「ああきっと行くよ」


インターフォンの音が居間に響く。
勉強をしていた手を止めて、木吉さんの姿を探す。さっきまで台所で洗い物をしていたと思っていたが集中が切れた今、台所から水が流れる音と彼がいつも口ずさむ歌も聞こえてこない。洗濯物でも干しに行ったのだろうか。
またインターフォンの音が居間に響く。
仕方がないと、腰を上げて外の様子を確認しに行った。はいはーい。実際口にしても聞こえてないだろうけど、声に出してしまうのは何の性だろう。
普段はブラックアウトしてる画面が家の真正面の景色を映している。私がこの家に来た際に木吉さんが買え変えたコレは最新のより数個昔のものだった。でも、違いが分からない私には同じに見える。
画面には中年の女性がいた。同級生の母親たちより少し若く見えるのは彼女の着飾った姿のせいか。「はい、」
私の声に反応した女性が驚き、目を張る。そして、爆弾を私の穏やかな日常に落としたのだ。

「久しぶり。覚えてる? お母さんよ」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。でも真っ白になった中、蓋していた記憶の絵の具が付いた絵筆でペタペタ無邪気に色を足されていく。
あ、あ、あ、あ、
泥水が溢れて、たちまちにキレイなモノを汚していく。………や、めて。
四年前になるのか、もう。濃くなっていく色をあえて形容するならば「どどめ色」。不明瞭だけど病的で汚れた色だ。
そう、この家に来る前の私を表すにはこれ以上ない色。

「帰れっ!」

思考する前に叫んでいた。いや、たぶん考える状況だとしても私は叫ばずにいられなかった筈。絶対に「帰れ」とこの女に叫んでいただろう。
全力で拒否の形を示さないとこの女は図に乗るから。この女は災厄だ。振り払わないと大切な場所が今にでも消えてしまう。

「感動の再会なのに、いきなり帰れだなんて酷いわね」
「帰れ」
「いつからそんな口が悪い子になったのかしら。あたしの中にいる愛娘は、あたしに似た可愛らしい笑顔を無理やり浮かべてながらお母さんのことを夜遅くまで待っていてくれたのに。ああ、嘆かわしいわ」
「帰れ!」
「嫌よ、お断りね。一つ覚えに喚くことしかできない駄犬じゃなくて、人の言葉にちゃんと耳を傾ける人間とお喋りに来たの。あんたはお呼びじゃないのよ」
「っ、黙れ! あんたが来ていい場所じゃないんだ、ここはっ!」

「今開けますから、どうぞ上がって下さい」

女のいがみ合う声じゃない男の落ち着いた声が、水掛のようにぴしゃりとかかり冷える。機械越しの女は実の娘に対しても勝ち誇った笑みを浮かべ、「ようやく話の分かる人が来た」的な皮肉を口にしながらワザとらしく肩を竦めた。その姿を目にするだけでも私の中の炎はめらりと全てを焼き尽くす劫火へ変わる。
「どうして、」憎しみをそのまま憑依した声を、災厄を家に上げると告げた男にぶつける。でも、彼はいつものように笑っていた。
トントン。暴れ馬を落ち着かせるみたいに背中を軽く叩いた彼はただ一言、私に告げる。
大丈夫。大丈夫だ、お前はひとりじゃない。

まだ小学生だった娘を捨てた女。どうしてと理由を求めたら彼女はあっさりと、今夜のドラマの内容を語るように飄々と「飽きたから」と前日に言った。
―――飽きたから、あんたを捨てるの。とりあえず、後々うるさくされるのも嫌だから明日から母さんのとこに世話になりなさい。話はそれとなく言ってあるから。じゃあね。
女はそう言って、ネオンの街並みに消えていった。幼い私は「悲しい」「寂しい」「怒り」などの感情は自然と出なかった。同じく、理不尽だと思わなかった。だって、生まれた頃から女はそうだったから。
気まぐれに休日ショッピングに行ったとしても、飽きたと思ってる時に遊び相手が誘いの連絡が来て小さい子供に金だけ持たせて帰ったりするのはしょっちゅうだった。初めから期待したらダメなんだ。この女はそんな女なんだと娘が諦めていた。
だから、捨てられた夜も「そうか」と思えたんだ。まだ理由を言ってもらえるだけ納得ができる。私の中の、本当の理不尽は理由も明かされず為すがままにされることだから。
でも、それは強いけど悲しい強さだと言った人が現れて私の世界はまだ少しだけど湯を注がれたみたいにあたたかくなったんだ。
使い古された陳腐なフレーズみたいに永遠を望んだ。このあたたかで素敵な色に染まりつつある世界の平穏を願った。お願いしますと、この時私は今までロクに信じなかった神様に祈ってしまった。
故にバチが当たったのだろうか。

捨てた娘に会いに来た理由は、よるある男女の復縁を迫る内容と似ていると思った。当然と言うべきか当たり前のように私は「帰れ」と突き放す。時間を無駄にした。休み明けの明日からテストなのに貴重な勉強時間が奪われた。
女も最初から上手くいくと思っていなかったのだろう。不気味と思えるほどにアッサリ引き下がった。でも最後に女はニンマリと笑って、呪いの言葉を吐いていった。
また来るからね、と。
その言葉通りに何度も私の元に来た。ニマニマと、毒が塗られた林檎みたいに真っ赤な口紅を引いた口に弧を描きながら。
だからあの日も女は来たんだ。今までと同じように顔を合わせずに「帰れ」と告げる。でも、女は中々引き下がらなかった。いつもは「またね」と呪いの言葉を吐いて、アッサリ帰るのにあの日だけは帰らない。用事で出かけていた木吉さんが帰ってきて、今日は送りますと女に促すまで。
ここで私は止めるべきだったんだ。木吉さん、そんな女に手を尽くさなくたっていいよって。帰らない女が帰ってくれるならと油断した私が悪いんだ。忘れてしまったらいけなかった。
あの女はジョバンニをいじめたザネリなんだってことを。そして、カンパネルラを死なせた原因だってことを。


「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうに今夜遠くへ行ったのだ。おまえはもうカンパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカンパネルラといっしょにまっすぐに行こうといったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどいっしょに行けない。そしてみんながカンパネルラだ」


一緒に行こうと、ジョバンニが誘ったときにカンパネルラはその誘いに乗った返事をしていなかったのではないかと思った。
学校の教科書や図書館に置いてある本。ブルカニロ博士がいる第三稿といない最終稿どちらも目を通して、私はそう感じた。彼は「さいわい」に対して同意をしてもジョバンニと共に行くとは総じて言っていない。ジョバンニはカンパネルラにただ「言った」だけで話は終わっているような。
約束も想いも。一方通行では意味がない。あの人がこの世からいなくなってから常々考えていた。私の場合もジョバンニのように一方通行に願っていただけで、それは「お互い」ではなかったのではないのか。

「どうして、私を置いていったのーーー」

木吉さん、と呼びかけると彼は真っ赤な車掌帽を深くかぶり直した。これじゃあ表情が見えない。
あ、あ、あ、あ、
あの日から止むことがないどす黒くて悲しみしか詰まっていない雨水が堰を壊して、溢れる。子供なのに子供であることを否定され、大人であるように強いられた頃に身に付いたクセは、あたたかい人に抱きしめられている子供が捨ててしまった。
関わったら最後まで。在りし頃に流れた保健所が訴えるメッセージが浮かぶ。「関わったら最後まで、か。まあ、そうだよな」「あっははは、安心しろって。俺の未来プランなら結婚式の披露宴で泣きながらスピーチして日向とリコに『しっかりしろ』って言われながら笑うところまであるからな!」「後はなー、孫が産まれたときはちゃんと笑って『はじめまして』するだろ。男の子なら『俺の自慢の娘を守ってくれよな』って約束するし、女の子にら『俺の自慢の娘のようにいい女に育ってくれよな』ってお願いするかな」「言い切れないけどいっぱいあるぞー。それを叶えるまでどっか遠くに行ったりしないさ」
頭を撫でながら彼はやさしい色をにじませた瞳を細めて、「俺は本当に、しあわせものだなあ」なにそれ、木吉さん。
って、ただの子供に戻った少女が笑った。

「最後まで、最後まで一緒にいてくれるんじゃなかったの」

あ、あ、あ、あ、
彼が敬愛していた銀河を駆ける列車に乗り合わせた少年の物語。
当時の私からしたらこれは、少年ジョバンニが子供から別の何かになる物語、そのあやふやなイメージからハッキリしたビジョンが見えていたのだ。
見ていた世界は、あまりにも残酷だった。
でも、あなたは「これは希望の物語だ」って読み込まれて角や縁がボロくなったり、表紙が色褪せた一冊の本を私に託した。

「あの物語は希望の物語だって、言ってたじゃん」

あ、あ、あ、あ、
人が思い描く幸せと、自分が願う幸せが必ずしも同じとは限らないと思う。
聖母マリアと大天使ガブリエルが描かれた神々しい聖画「受胎告知」。
或る日、処女であった娘の胎に神の子が宿ったのだと告げられた場面。教徒からすれば神の子が我が身に宿ることと、受肉された事実に涙を流して喜ぶだろう。でも、他宗教あるいは別の立場から見ればそれは不幸以外の何者ではない筈。
男と交じったことがない清らかな女の胎に子供が宿ったと。しかもその子が神の子だと。告げたのが羽を生やした人外の異物。他にも飢えた虎のために我が身を差し出した仏の話もだ。それは見方ひとつ、色眼鏡をひとつ変えるだけで、おぞましいシーンに見えてしまう。
愛がなければ見えない。その言葉の通り、愛との信仰との色眼鏡が無いと有るとで世界が映すあやふやな現実は簡単に変わってしまう。
ああ、だから、なんてむなしいのだろうか。

「………教えて、お願いだから答えてよ、木吉さん、」

神様になりなさいと託された子供が、人が流す涙を流した。ぼろぼろ、ぼろぼろと。誰がが言っていた。なみだは、にんげんがつくることができる 一番小さな海ですと。
なら、それを流し小さな海をつくる私はにんげんってことになるよね。神様じゃない、泣いたり大口を開いて笑うにんげんなんだよ。
別れを我慢する傑物的な理性を見せる神様じゃない。
離れたくないと、嫌だと、涙を流すにんげんだよ。
わずかな静寂。いつの間にか姿なき讃美も消えて、子供の泣き声と無情に駆ける列車の音だけが静かに響く。
小さな海をいくつも下に落としているときも彼は何も、一言も言葉を発しない。
無言で、真っ赤な車掌帽の縁を掴んだまま。こちらからはどんな表情を浮かべているかも分からない。その事実が悲しくて、無性に悔しくて涙の海がさらにぽろぽろ、星屑のように流れる。
しばらく身をキリキリと締め上げそうな沈黙は続いていた車室に、重苦しい囚われた声が低く響いた。

「………俺は、ただお前に“さいわい”を見つけて欲しいだけだった」

ああ、この人はどうしてこうなんだろう。
歯を食いしばって、俯いた顔を両手で覆う。ねえ、どうして分かってくれないの。
他が救われるまで己の幸せを願わない美しき自己犠牲。でも、その実態は最愛の妹ではなくどうして自分が生きて残ってしまったのか悔いる自責の塊。
だから、宮沢賢治は三稿と四稿で話を大きく書き変えた。理想と現実。最愛の妹がこの世を去ってもなお、彼女だけの幸せを願わなかった博愛の人。
誰だって責めることができないのに彼はそれを良しとしない。誰だって自分だけの幸福を願う醜い生き物なのに、人としておかしくないのに。
どうしてあなたは、自分を許そうとしないの。自分をちゃんと愛そうとしないの。
あなたが他の幸福を願う隣で、あなたの幸福を願う人がいるのをいい加減分かってよ。私たち人間は弱いから、惨めだから、自分の手が届く範囲しか愛せないから。だから、争いが絶えのかもしれない。
みんなみんな自己犠牲的な愛、アガペーなんてもっていない。人は、自己中心的な愛で生きている。だから、
だから、私は――――――

「“さいわい”、か。ねえ、木吉さん。じゃあ、私の死にたいこの心は、あなたが求めた“さいわい”の末路なのかな」

我ながら酷い答えだろうと思う。純白で清らかなモノの答えがこんなにも汚らしい我欲に満ちたモノなのだから。
くしゃくしゃな思いを、胸元をぐしゃりと握り潰す。さっきまで泣きじゃくった声は何処へ。不思議だと思えるほどに、穏やかな声が出た。きっと、浮かべる顔に涙もなくうっすら笑っているかもしれない。
向こうの人は目を張る。

「このまま天上に着く前に私がこの列車を降りて現実に帰ったら、私は死ぬよ」
「それは、」
「死ぬよ、絶対に。私にはもう大切なものなんてない。他を救う思いなんて、くそくらえだ」

あなたがいて、はじめて私の“さいわい”は生まれる。手に入らないなら、くそったれな世界からおさらばしよう。
葬式が終わって、あの女が私を引き取りに来た。あの女がどうして私を欲したのか、そこで真実が見えた。
あの女は私を商売道具にしか見ていなかったのだ! もうガダが来て稼げない自分の身代わりに、私の春を!
この夜は春を奪う奴があの女の家に来る夜だった。逃げ出した。当たり前だ。どうしてビクビクと怯える必要があるか。荷物をまとめているときに「死んでやる」と思った。なら、荷物はいらないかと悩んだけどあの女の元に自分の物があることに我慢できなかったから。
輝かしい幻から覚めたら、無意味な荒野で目を覚ましたら最後、私は自分の命を絶とう。これは神にはできない愚行だ。そして、人間ができる最期の醜い足掻き。
私をね、止めるには一つしかないんだよ。

「止めたかったら。もし止めようと思うなら現実じゃない場所、どこへでも一緒に行かせて」

どこまでも行ける切符を与えたのはあなただ。
このまま一緒に、永遠に。美しき銀河を駆ける鉄道に乗ってどこまでも行かせて。
さあ、言って。物語の少年には言えなかったであろう言葉を、お願い。ぐちゃぐちゃに色々なものが煮詰まったグロテスクな色をした目をあの人に向ける。

「―――――それは無理だ」

発せられた否定の言葉にやっぱりかと諦めた自分が嘲笑った。伸ばした手が、自然と重力に沿うように落ちる。

「そっか。そうだよね。あなたはそういう人だから。………どうせ、全部ぜんぶ嘘なんだよね」
「違う、嘘じゃない! ……………嘘じゃないんだ」

えっ、て胸に突き刺さるように投げられたことばに目を張った。ゆっくりと現実を確かめるために、うつむいた顔が上る。
あ、あ、あ、あ、
一歩、また一歩と彼はこちらへ向かってきていた。つい逃げようと身を退いた瞬間、「動くな、お前のところには行かないから」と鋭い声が飛んだ。
床に縫いつけられて動かない私の足。反対に彼の足は一歩、一歩と近づく。
まだ目は見えない。彼が何を考えているのかは分からない。真っ暗闇の中で手探りで小さな何を探しているようだ。でも、分からないけど手は「何か」に触れた。
前と同じ否定のことばだったそれは、前とは違う色が声に付いていた。もしかしたら、と私はまた夢を見ていいのだろうか。時間はない。この列車も終着駅に近づいているから、私はあの荒野のごとく悲惨な現実に戻らないとならない。
はあああっ。息を吸い込む。圧迫されて苦しいともがきながらも、子供はもう一度声を上げた。神様の座からぐらりぐらり、揺らいでいる彼に向かって。

「嘘じゃないなら、どうして一緒にいてはいけないのっ!」

まるでそれが答えのように、手を互いに伸ばしてもギリギリのところで足を止めた。
あ、あ、あ、あ、
まだ交わらない瞳は何を語っている。血反吐を吐くように吐き出された震えた声は誰だ。力を込めすぎた拳の意味はなぜ。
ぐらりぐらり。さあ、落ちてこいと涙を流したにんげんは前を見据えた。

「………一緒にいたいさ」

そこにいたのは、涙を流すにんげんがいた。

「俺だって一緒にいたいんだ! ずっとずっと、お前の幸せを見届けたかった。いれるならいたいさ!
でもダメなんだよ。もう無理なんだよ! 俺はもうお前と一緒にいれない、いたらいけない………だから、せめてお前には笑って欲しかった!」

剥き出しの感情は初めて見るあの人の顔だった。迷子みたいに泣きじゃくった子供の顔をする人を今すぐに抱きしめたいと、下りた手が再び上がる。
涙に濡れた声が紡ぐ言葉は、今までと違い血が通っていた。血の袋じゃない。真っ赤な、熱い血が流れている。

「泣いて泣いて、最後には笑って生きてくれっ」

かなしみを詰め込んだ海がいくつも生まれた。あの人、木吉さんの足元で。
一歩、木吉さんが踏み出せない一歩を越えようとした瞬間、声を出そうとした瞬間、汽笛がけたたましく一面に鳴り響いた。
突如鳴り響いた音に気を取られ、木吉さんがいた場所に意識を向けると、もう木吉さんの形は見えないで向かいの窓からキラキラチカチカ、目が痛くなるのほどに輝かしい銀河ばかりが光っている。
まるで鉄砲玉のようにこみ上げた気持ちを、力いっぱい胸打って叫び、喉が張り裂けるほどに泣き喚いた。まだ、何も言っていないのに。何も言えてないのにっ! もうそこらが一辺に真っ暗になったように思った。そのとき、

こつん、

足元に何かが当たったのだ。見下ろせば、真っ赤な林檎が足元に転がっていた。まるで万有引力で引き合うように、林檎は私から離れない。
宮沢賢治が愛した彼の地の名産であるそれは死の肯定であり、不死の贈物。淫らな善悪の誘惑であり、争いを生む不和の象徴でもある。そして、独りでは生きれないとはち切れそうな孤独を叫ぶ引力の証だ。
私はそのまま、引き合うように真っ赤な林檎に手を伸ばした。手にした林檎はよく熟していて、まるく赤い。燃える命のようでもあった。

「…………………」

吐く息が白い。キラキラチカチカ、あの美しき銀河がどこにもなかった。あるのは、しんしんといつの間にか降り積もっていた雪と白ずんだまばゆい光が射す朝。
蒼鉛の暗い雲からみぞれがちょびんちょびんと落ちていた。どこを掬っても、まっしろでうつくしい雪はあのおそろしい空から降ってきたなんて。
本当じゃない夜空と同じ、夜明けの空からなんて。
この現実はあまりにも酷い。虚ろで、理不尽しかない。それでも今、広がる世界はほんとうに在って、一等うつくしいのだ。
真っ赤に腫れた目からボロボロ、涙が止まならない。ぐっ、うっ。嗚咽をもらす。
手にあるのは真っ赤な林檎と、切符だけ。さあ、まっすぐと火やはげしい波の中を大股に歩いて行かないと。

「うん、泣いて笑って、生きて行くよ」

泣き腫らした顔に満面の笑みを浮かべて、私は歩き出した。




「あなたの神さまってどんな神さまですか」
青年は笑いながらいいました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたったひとりの神さまです」




ごとごとごとごと……………銀河鉄道は駆ける。
乗客がひとり、降りようが御構い無しに。銀河鉄道は今日も今日とて、死者を天上まで導くためにある。仮に、ひとりの車掌が止まってくれと願おうが変わらない。
背の高い車掌は乱れた髪を整えて、帽子を被り直し、静かにきびすを返した。遠くから「ハレルヤハレルヤ」と人であった神を讃える詩が聞こえる。詩と交じり合うように、りんごの香りが辺りに漂う。

「車掌さん、少しいいかしら」
「ん、なんだ?」

少し歩いた先に、ビロードの席におとなしく腰掛けていた小さな少女から声をかけてきた。目線を合わせるように、車掌は身を屈ませると少女は「あら、座らないの?」と不思議そうにビードロみたいに大きな瞳をこちらに向ける。
じゃあ、お言葉に甘えて。と、少女が座る席と向かいの席に腰を下ろした。目の前に車掌がいることが嬉しいのか、少女の顔に華が咲く。あのね、あのね。舌足らずな声を鳴らし、ちょこんと窓の向こうを指差す。

「あれはなあに?」

指差す先はあいも変わらず、輝かしい銀河の海だった。
しかし、ふたつに別れた川があった。その真っ暗な島の真ん中に、高い高いやぐらが一つ組まれていてその上にはゆるい服を着て赤い帽子を被った男が立っていた。両手に赤と青の旗を持って、空を見上げている様子。

「あれは渡り鳥の信号を送っているんだ。ほら、信号を確かめて小さな鳥が通っていくだろう」
「わあ、ほんとうすごいわ。みんな、あの男の人の指揮に沿って動いているのね」
「そうだな」

彼方へ羽ばたいて、もう姿が見えなくなった鳥たちの行方はいずこか。狂気に憑かれた男が一心不乱に旗を振っている様を眺めながら、車掌はぼやく。「あの鳥たちはどこに行くのかって、顔してる」

「まあ、気になるからな」
「わたし、知ってるわ。特別に教えてあげる」
「嬉しいな」
「あの鳥たちはね、あの世から現世に行くの」
「それは、どうして」
「輪廻転生よ。わたしたち死者が目指す天上の行く先から鳥たちは来ていた。そして、彼らが向かうのはわたしたちが来た方向から。つまり、現世ってわけなの」
「渡り鳥はコウノトリにはなれないぞ」
「あら、種類なんて小さいことは目をつぶってよ。んー、じゃあしかたないわ」
「諦めるのか?」
「諦めないわ。実はあの渡り鳥は、魂じゃなく希望を運んでいるってことにしましょう。もちろん、わたしたちの希望を」

ね、素敵でしょ。少女がそれ見たことかと笑う。少女が語った仮定の話を聞いて間をわずかに空け、車掌は口を開いた。

「それは、素敵だな」
「そうでしょ。車掌さんは誰に運ばれてほしい? わたしはね、兄さまのところに届いてほしいわ。兄さまったらお人好しで、いつもいつも人やわたしのことばかり優先するの。自分だって身体がけっして強いわけじゃないのに」
「素敵なお兄さんじゃないか、そう言ってやるなよ」
「あら、べつに兄さまをないがしろにしていないわ。ただ、ね。わたしは兄さまに自分の幸せと向き合ってほしかったの。こんな死んじゃった人間相手に自分の幸せをかけてなくていいのよ」
「……………」
「『ora orade shitori egumo』『わたしは、わたし一人で行くのだから』。あなたを置いて行った人のことぐらい忘れたらいいのよ」
「忘れたくないから、忘れられないから置いて行かれた人は『会いたい』と願うんじゃないか」
「たとえ、夢や幻の中でも?」
「会いたいんだ、どこであっても。そして、一人でほんとうの現実を生きていく想いを見つけるのだろうな。置いていった人間もそれを見届けて納得するしかない」
「それは、とってもざんこくね」

ごとごとごとごと……………二人の口が開かないから辺りは無音に包まれ、窓の外から列車が駆ける音が聞こえる。ハレルヤハレルヤ。讃美歌も止まない。りんごの香りも変わらず、辺りに漂っていた。
話している間に渡り鳥に信号を送る男の姿は見えなくなっていた。通り過ぎたのだ。列車は止まならない。不変と死者を天上まで導く。
窓から視線を外すと、少女がこちらを向いて微笑んでいたのに気づいた。ああ、この表情はあの子が悲しそうな顔を浮かべていた顔だと思い出す。
これは、死を受け入れた顔だ。

「車掌さん、もう近いみたいね」
「ああ、もう少ししたら着くな」
「そう」
「怖いのか?」
「ばかなことを聞かないで、怖くないわ」
「そうか」
「ええ、わたしはまっすぐ天上まで行くわ。途中下車はしないから大丈夫よ」
「疑っていないさ」
「うん、知ってる。これはただの決心のため。わたしのわたしだけの言葉なの」
「なるほど」

少女は彼方の銀河を見ない。ずっと前だけを向いている。

「車掌さん、捕まえちゃってごめんなさい」
「構わないさ、俺の仕事は終わってたから」
「そうなんだ。じゃあ、最後にひとつだけいいかしら」
「ああ、大丈夫だぞ」
「ありがとう。あのね、」

「次はサウザンクロス、次はサウザンクロスー」

区切った少女の声は次の駅を告げるアナウンスによって遮られた。しかし、近くにいた車掌だけは少女の声を聞いていた。
彼女は言うだけ言うと満足したのか、ニッコリと笑う。「さあ、車掌さん。次はサウザンクロスよ。たくさんの人が降りるから準備しないとたいへんだわ」

「君は降りないのかい?」
「まだ降りないわ。わたしの天上はそこじゃないもの。車掌さんもサウザンクロスで降りないでしょう?」
「ああ、そうだな」
「そういうこと。じゃあ、お仕事がんばってね。楽しい鉄道の旅をありがとう、これお礼どうぞ」

手渡されたのは、ころころした真っ赤な林檎だった。

「わたしにはもう要らないものだから」
「俺にも不要さ」
「いいえ、あなたには必要なものよ」

ほら、受け取ってと促された車掌は微妙な顔つきを浮かべたが「ありがとう」と両手でしっかり包み込む。落としてしまわないように、重力との斥力に負けないように。
最後に車掌らしくお辞儀をひとつ、彼は腰を上げて林檎を手に歩き出した。
少女が座っていた車体から去る際、アナウンスと重なった少女のことばを思い出す。確かにそうだと、指摘された顔を浮かべながら苦笑いした。

「でも、」

次にその面にあるのは微笑みでも苦笑でもない。車掌は歩く、褒美である林檎を手にして。

「俺も、泣いたり笑ったりもするんだ!」

面を上げたにんげんの顔は涙を瞳に溜めた、晴れやかな笑顔だった。


参考
・宮沢賢治
 「銀河鉄道の夜」「永訣の朝」
・アンデルセン 「涙は人間がつくるいちばん小さな海」