風が吹き、木々はざわめき、屋敷はきしむ。水の流れる音、星の燃える音、大気が凍る音。そしてなにより、なまえに殺された者たちの恨みの声が、うおん、うおん、と鼓膜を揺らし、頭蓋の奥で反響する。
騒音に耐えかねたなまえは、そっと息をひそめ、ベッドを抜け出した。庭に降りると、裸足の足からしんしんと冷気が這い上ってきた。なまえは凍える空気を肺一杯に吸い込むと、細く長い息を吐く。煙のように、あるいは魂のように、白い息は闇の中へと解けていく。
ただ闇だけが静かだった。
どうしてこんなことになったのだろう。と、彼女は寝不足のにぶい頭で思い返す。自ら望んでここにいるはずなのに、まったく予定外の場所へ迷い込んでしまったような。こんなはずじゃなかったという心細さを、打ち消すことができない。

なまえはもともとハンターとして、護衛の仕事をしていた。そこへ現れた暗殺者がイルミだった。防御に優れた能力を持っている彼女は足止めとして残り、時間稼ぎのために彼といくつか言葉を交わした。その中で、
「厄介な能力だね」
と。イルミ=ゾルディックに言われたその一言が、おそらく最初のきっかけだった。高名な暗殺者からそのように評価されたことが、なまえの自尊心をくすぐったのだ。
だが間もなく、イルミに彼の家族から連絡が入った。仕事が完了したというその声は、なまえの耳にも届いた。やけに雑談に付き合うと思えば、彼もなまえの足止めにすぎなかったらしいと、そこでようやく彼女は気づいた。
己の仕事の失敗を悟って歯噛みする彼女に、イルミは名刺を差し出した。いかにもビジネスライクに人を殺す男に、なまえは畏怖を覚えた。それがまた悔しくて、彼女も名刺を彼に渡した。
強がりだった。また、ハンターとして仕事を続けていくための、布石でもあった。ゾルディックの暗殺者と名刺を交換したというエピソードがあれば、箔が付くだろうと思ったのだ。
そう、なまえはたしかにこのときは、ハンターとして仕事を続けていくつもりだった。つまり、まさか本当に連絡がくるだなんて、思ってもみなかった。
しかし後日、彼は驚くほど気軽な調子で、なまえに暗殺仕事の手伝いを持ちかけた。そしてなまえはなぜか、それを引き受けた。おそらくそのときには、すでに彼に惹かれ始めていたのだろう。

「また眠れないの?」
背後から声がして、なまえは慌てて振り返る。イルミが立っていた。気配に聡い彼を、起こしてしまったのだろうか。彼女は焦り、怯えたように頭を下げた。
「ごめんなさい」
なまえはここ数日、まともに眠れていなかった。今夜こそは眠らねば。と、気負えば気負うほど、余計に眠れなくなっていく。
「また声が聞こえるの? そんなの気のせいだって言ったろ?」
イルミにだけは話してあった。なまえには、声が聞こえて眠れなくなる夜がある。人を殺したあとはいつもそうだ。
「もちろん、それはわかってるんだけど…」
と、彼女は肩を落とす。
なまえはこの、人殺しを生業とする男を愛してしまった。罪だと思いつつ、想いは捨てられなかった。だから渋るイルミを説き伏せ、彼の傍で彼の仕事を学ばせてもらっている。
だが、無理を言って押しかけておきなから、現実はこのていたらくだ。なまえは本質的に、殺しに向いていない。それは彼女の念能力が、防御に優れている事実を鑑みても明らかだ。
なまえは、そんな自分が情けなかった。どうして自分を、イルミの望むままに作り変えることができないのか。どうして、彼の示す正しさに沿えないのか。
思わずこぼれかけたため息を、なまえは慌てて呑み込んだ。肺に憂鬱をため込む彼女を、イルミは闇のように静かな目でじっと見つめる。
「…イルミは、まだ起きてたの?」
いたたまれずに話題を探したなまえは、イルミの服装を見て問いかける。寝巻き姿の彼女と違い、彼は夕方に見かけたままの格好だった。それにイルミが「うん」とひとつうなずいて、なまえはまた話題を見失う。

しばしの沈黙を、次に破ったのはなまえの震えに気づいたイルミだった。
「体調管理も仕事のうちだ。眠れないなら、こんなとこで凍えてないで、せめて横になっていなよ」
とがめるように、イルミは言う。彼の抑揚のない口調も手伝ってその声は冷たく響いたが、彼は寒さに震えていたなまえの肩を抱いて、熱を分け与えた。なまえはとっさに、彼の腕から逃げたくなった。しかし悔しさと愛しさと情けなさとが、胸のうちでくらくらと渦を巻いて、なまえは眩暈を覚えた。だから逃げられなかった。
「イルミだって、こんな時間まで起きているじゃない」
慎重に呼吸を整えたなまえは、努めて強気に言い返す。ここでイルミの行為を優しさと錯覚して、彼にもたれるわけにはいかない。
「なまえは、オレとお前の体力が同じだって思うわけ?」
彼は今度は、諭すように言った。なまえは言葉につまる。
「それは、そうかもしれないけど」
納得はできない。彼女はすねて、幼い子どものように唇を尖らせた。イルミは無表情だったが、それでもなまえは彼の呆れの気配を感じ取った。
「イルミが……」
言いよどむなまえに、イルミは首をかしげる。
「なに?」
「…イルミが、枕元でおはなししてくれたら、眠れるような気がする」
「オハナシ……」
呆れの色をさらに濃くして、困惑を混ぜたような声。なまえは、プイとそっぽを向く。
「イルミの声を聞いていれば、余計な物音なんてきっと忘れてしまえるもの。なんなら、子守唄でもかまわないけど」
なまえとしてはもちろん冗談のつもりだったが、それでもいくらかは本気だった。あるいはイルミがいっそ面倒に思って、なまえを見限ってくれたらいいという気持ちもどこかにあった。
イルミはなにも言わない。気まずい沈黙を、なまえは笑って誤魔化した。
「ごめん。もちろん冗談だから!」
ただ闇だけに解けてしまえたなら、静かに眠れるだろうとわかっていた。けれどそれはなまえにとって、イルミに見限られるのと同じくらいには、恐ろしいことだった。
なまえは本質的に、殺しに向いていない。それは彼女の、防御に優れた念能力を見れば明らかだ。けれど、だからこそイルミのような暗殺者にとって、彼女のような協力者は貴重で、その能力は利用価値がある。

「いいよ」
「へ?」
聞き間違いだと、なまえは思った。なぜなら彼女の耳は、とっくにおかしくなっているのだ。
「オハナシをしてやるよ」
しかし彼は、改めてはっきりとそう言った。
「え、待って。イルミ」
身を翻して歩き出すその背中を、なまえは慌てて追う。
これはいったい、どういうことだろう。聞き間違いでないなら、冗談だろう。そうに違いない。彼はときどき、真顔で冗談を言うようなところがある。
なまえは、イルミに苛立ちを覚えた。
「からかわないでよ、イルミ。すねてわがまま言ったことはあやまるから――」
「倒れられでもしたら、オレが困る。明日からもずっと、オレはなまえを使うつもりだから」
なまえには、彼の言葉が理解できない。わかったとしても、信じられない。彼女は混乱していた。だから、暗い廊下の先で彼が立ち止まり、振り返ったことに気づかなかった。
「わ!」
突然イルミの体温を感じて、なまえは慌てた。身を離そうとして体勢を崩した彼女を、彼は両腕で抱きとめる。
「イルミ――ッ」
「なまえ、だいじょうぶだから。なにも心配しなくていい。お前は、オレの声だけ聴いてればいい」
鼓膜を揺らしたイルミの言葉。その意味を、なまえはひと呼吸遅れて理解した。かっと、頬に血が上る。
「……イルミ、私が眠るまで傍にいてくれる? ずっといてくれる?」
「うん。少なくとも、なまえが要るうちは」
その瞬間、風が、木々が、屋敷が、水が、星が、大気が、恨みの声が遠ざかる。あれほどうるさかった騒音が、嘘のように消えた。彼女に届くのはただ、彼の声だけ。
「ホントに?」
「オレが信じられない?」
信じられない。信じてはいけない!
かろうじて残るなまえの理性が、頭蓋の奥で叫ぶ警告も、もはや彼女の心には届かない。
なまえは恐る恐る、首をふった。
「信じたい。……信じるわ。イルミだけを」
なまえは目を閉じ、震える声でようやく答えた。
「それなら、もう眠れるだろ、なまえ」
ただ闇だけが静かだった。
「うん」
そうして彼女の意識はイルミの優しさを錯覚したまま、闇へと解けて行く。


BGM:眩暈/鬼束ちひろ