梅雨どきでもないのに、3月は雨が多い。雨は、あまり好きではなかった。靴はびしょびしょになるし、髪の毛は、湿気でぺたんこになるからだ。それから、ある女を思い出す。いつも遠くから見ているだけだったが、わたしはその女が羨ましくて仕方なかった。

「新しい狙撃手、入れないの?」
 昼休みの教室は、授業中とうって変わって騒がしい。パンを貪っていた犬飼は、ぱっちりした目を何度か瞬いた。辻は相変わらずわたしと目を合わせたがらない。悪いことをしたなあとも思うし、いい加減、慣れてくれてもいいのに、とも思う。犬飼は、パンを噛みちぎって何度か咀嚼したのち、「どうだろうなあ」と呟いた。
「二宮さんにも言ったんだよ。新しい狙撃手入れたらって」
「そしたら?」
「――そしたら、……。……まだ、いいだろうって」
 犬飼の目が右下を向いた。辻は何かを言いたげに犬飼を見て、それから、わたしを見た。それは一瞬のことだったが、すぐに逸らされた視線には、ありありと『お前には無理だよ』と感情が乗っていた、気がする。もしかすると、わたしの思い違いかもしれない。
「ふうん」
 犬飼たちが所属している二宮隊が降格してから、もうずいぶん経つ。狙撃手ありの作戦も多数あっただろうに、それらが使えないとなると、自ずとパターンは限られてくる。新しい作戦を考えるのは簡単だ。それが、実戦でモノになるかは別として。
 ――可哀想に、と、思った。
 二宮隊の降格にはなにも感情は湧かなかった。ただ、あの女がいなくなったことに少しだけ腹が立った。八つ当たりなのは分かっている。
 犬飼の瞳の中にはあの女がいて、二宮さんはあの女が帰ってくるのを待つのだろう。辻は実践となれば無意識のうちに援護を考えているだろうし、氷見も、あの女のことを待っている。仕方がなかった。わたしの入る隙間なんて、どこにもない。二宮隊に入れるとも思ってはいないし、入りたいとも思わないけれど、犬飼の中に、あの女の影があることがただただ腹立たしい。
 朝から降り続いていた雨は、昼休みを終えてもおさまる気配はなかった。どんよりと重く、暗い雲は、のろのろと鈍く東へと流れていく。国語教師の呪文にも似た声を聞きながら、あくびを噛み殺した。

 ポツポツと傘に当たる雨音と、濡れて中まで浸水してきたローファーに顔をしかめながら帰路につく。前には犬飼、その後ろを辻が歩いていた。
「みょうじはさー」
「……なに」
「もし、俺があっち側に行ったら、泣く?」
「……馬鹿じゃないの。泣かないに決まってるでしょ」
「そう?」
 頷く代わりに、無言で睨みつけた。犬飼はいつものようにふざけた笑顔でへらっと笑い、前を向いて辻と話し始める。なぜ質問を投げかけたのか、どうしてあちら側なのか。難しく考えたがる脳みそは、結論としてあの女を弾き出した。なにも難しくなんてない。簡単なことだ。それが本心ではないことも。
「……雨、やまなきゃいいのに」
 呟いた言葉は雨音に吸い込まれた。心なしか雨脚が弱まった気がする。先ほどの、試すような犬飼の瞳が網膜にこびりついている。
 薄い、アイスブルーの瞳に誰が映っていたかなんて、わたししか知らなくていい。


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