「弘は私のヒーローだね」

可愛くもなければ美人でもない。ドレスだって着てない。そこらへんにいる女と変わりはしないのに、姉ちゃんはその日からオレのお姫様になった。

でもそれは昔の話であって、あれから10年ぐらい経った今は、守らなきゃいけないだけのお姫様じゃなくなっていた。


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「なまえ、美容院にでも行った?」
「あ、分かった?ちょっとだけなんだけど、毛先整えてもらったんだ」
「こう整ってる方がなまえらし…」

近頃イラつくことが増えた。姉ちゃんと同じ学校に通うようになったからだろうか。廊下ですれ違うときとか、体育の授業でグラウンドに出てるときとか、たまたま教室の前を通ったときとか。学校で姉ちゃんを見かけるたび、酷くイラつくようになった気がする。家でさえもこの有様だ。

「ってえな、なんだよ」
「姉ちゃんに気安く触ってんじゃねえよ」
「ちょっと、弘…」
「妹の髪触ったぐらいでそんな怒ることねえだろ」
「っせえな」
「な、なんかごめんね?お兄ちゃん」
「なまえが気にすることねえよ、な?」

ポンッと姉ちゃんの肩に置かれた無骨な手に酷くイラついた。姉ちゃんに笑いかける顔も、姉ちゃんに近付くための足も、何もかも腹立たしくて。

「弘、お兄ちゃん叩いちゃダメじゃん」
「…腹立つからだよ」
「だからって叩いていい理由にはならないでしょ?ちゃんと謝りなよ?」

何で兄貴なんか庇うんだよ。そう言って強く肩を掴んだら、姉ちゃんはどんな反応を寄越すんだろう。でもそんなこと考えたって無駄だ。そんなことオレには出来ない。どんなに姉ちゃんに近寄るやつらに暴力を振ろうが、姉ちゃんには触れない。

ヒーローだからって気安くお姫様に触れっこない。

「…部屋戻るわ」

兄貴みたいに軽々と姉ちゃんの肩を叩いてみたい。触れようとした手は空を切るだけで本当に役立たずだ。


パタンと音を立ててドアを閉めて、そのままドアに背を預けてズルズルとしゃがむ。大きく溜息をついたら幾分か気持ちが楽になったような気がする。

いつからだろうか。姉ちゃんがただ守らなきゃいけない存在から違う存在に変わったのは。守らなきゃいけないことには変わりはないけど、ただ守らなきゃいけないってだけじゃない気がする。姉ちゃんが傷付かないようにってだけじゃない。もっと酷く汚くてドロドロしたような。

「姉ちゃん………、なまえ……」

身体中が熱くなった。姉ちゃんの名前を呼んだだけで。胸を、心臓を、強く掴まれたような感覚になって、急に鼓動がうるさく高鳴っていくのが分かった。気持ち悪くて痛いはずなのに妙に心地よくて、興奮する。

「姉ちゃん……」

人の顔を覚えるのは得意な方じゃない。毎日付き合いのあるバスケ部のスタメンぐらいはしっかりと覚えてるけど、未だに他の部員の顔なんて覚えてもない。ぼんやり分かるやつならいるけど、でもそれには靄がかかってる。
オレってそんなやつなはずなのにどうしてだろうか。姉ちゃんの、なまえの顔ははっきりと思い出せる。顔だけじゃない、身体だって。オレの頭に焼きついて離れない。髪を切ろうが化粧をしようがダイエットをしようが、それはなまえを見るたびに鮮明に更新されていく。
でもそれは見た目だけの話で、オレはなまえの感触を知らない。いつの間にか丸み帯びた身体は、どれくらい柔らかいのかとか。すらっと伸びる四肢はどれくらい細いのかとか。知ってるようで知らないことの方が多い。
それはきっとオレが臆病だからかもしれない。臆病なヒーローなんて聞いたこともない。そんな臆病なヒーローはいつだって想像のお姫様を抱くんだ。頭の中に映し出される虚像のお姫様を。

「ッ…、なまえ……」


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姉弟だからとか、家族だからとか、そういうことは何度も考えた。おかしいことぐらい自覚してるし、報われるはずもないことぐらい分かっていた。分かっていたつもりだった。

「ねえ、弘…。変な冗談はやめてよ…」

臆病なヒーローは虚像だけで満足は出来ないらしい。知りたくて知りたくて堪らなかったなまえの身体は、オレの身体より小さくて柔らかくて細くて胸を痛くさせる。

「冗談なんかじゃねえよ。オレはいつだって……」

そう、いつだってなまえを思っていたし触りたいと願ってた。好きだって、愛してるって。聞こえなかっただろうけど何度も言った。名前だって飽き足らないほど呼んだ。

「おかしいよ…、こんなの」

そんなことなまえが思うずっと前から思ってた。枯らさないといけないものだって分かってた。何度もそうしてきた。何度も自分の気持ちを否定してきた。
でもまた生えてくるんだよ。オレの中から出ていかねえんだよ。気持ち悪いほど根を張ったそれをオレはもう殺すことなんて出来ねえんだよ。これ以上自分の気持ちを否定したくねえんだよ。

「なら姉ちゃんが教えてくれよ。これの殺し方」

うるさく高鳴る心臓を静かにする方法を。