ニシキさんは私のふともものあたりに頭を乗せ、心地良さそうに目を閉じている。いわゆる、膝枕、というものだ。日向ぼっこをしているところにひょっこりやってきて、「気持ち良さそうだからボクもなまえと日向ぼっこしようかな」と言って私のふとももの上に頭を乗せたのだった。お断りする間どころか戸惑う間もなく、ニシキさんは「わあ、なまえ、いいにおいがするね。あったかいし、眠くなってきちゃうよ」と心地よさそうにうとうととし始めた。暗夜にいたときにエリーゼさんにせがまれて膝枕をしたことはあったけれど、男性にするのははじめてのことで緊張してしまう。恥ずかしさもあったけれど、私のふとももに頭を預けて丸くなるその姿はどこか猫のようで、―そう言ってしまったのなら、ニシキさんは「ボクは猫じゃないよー」と頬を膨らませるだろうけれど―、そう思うと恥ずかしさよりも愛しさが込み上げてくる。ゆらり、と揺れるニシキさんの自慢の尻尾は陽の光を浴びてキラキラと輝いているように見える。風が吹けば、尻尾と同じ、優しい色をした髪の毛がさらさらと揺れて、私のふともものあたりを擽る。綺麗な髪の毛と、私たちとは全く違う可愛らしくとがった耳との境目を指でこしょこしょと触れば、ぴょこり、と小さく動いた。嫌だっただろうかと慌てて手をどけようとすると、ニシキさんはくすくすと笑った。私を見上げる瞳は優しい。ニシキさんが手を伸ばし、彼の掌が私の頬に触れる。妖狐だからかは分からないけれど、ニシキさんの掌は仲間の誰よりもあたたかい気がする。少なくとも、私よりはずっとあたたかくて、彼の掌から熱を分けてもらっているように頬が少しずつ熱くなる。

「すみません、触られるの、いやでしたか?」

いやじゃないということはニシキさんの表情で分かるけれど、そう聞いてみる。ニシキさんは小さく首を横に振った。

「ううん。いやじゃない。とてもくすぐったいけど…なまえは特別。ずっと触っててもいいよ」

向けられる微笑みに溢れている好意に、掌からも伝わってくる好意に、くすぐったくなってしまう。もう一度ニシキさんの耳のあたりをなでる。ニシキさんの笑い声に合わせて、ぴょこぴょこと彼の耳が動く。私を見上げる瞳は、やっぱりとても優しい。木々の隙間から漏れる光が、柔らかくて気持ちいい。ニシキさんの髪の毛を揺らすゆるい風も、気持ちいい。ニシキさんの重みも、体温も、心地よい。ニシキさんの言うとおり、こうしていると確かに眠ってしまいそうだ。

「…ニシキ。こんなところにいたのか」

風に揺れる木々の葉がこすれる音に混じって、少年らしさをまだ少し残した声がする。眠気が一気に吹っ飛んでしまう。声のした方に視線を向ければ、そこにはタクミさんの姿があった。緑色に色づいている木々の隙間から漏れる光が、タクミさんの髪を輝かせる。タクミさんは眩しいのか、額のあたりで手をかざし、目を細めた。ニシキさんとはまた違う、色素の薄い髪は、木漏れ日の中眩しいほどに輝いている。ニシキさんは、起き上がることもせずに、視線だけをタクミさんに向けて「どうしたの」と声を掛ける。ふあ、とひとつ大きな欠伸を零したニシキさんを見て、タクミさんが眉を寄せたのを私は見逃さなかった。

「どうしたの、じゃないだろ。今日料理当番だったの、忘れたのか」
「あれっ、そうだったっけ…」

ニシキさんが視線をタクミさんから私に映してそう問い掛けてくる。くるりとした大きな瞳が私を見つめている。言われてみればそうだったような気もするけれど、はっきりとしない。料理当番は交代制になっているけれど、自分の担当日以外はそこまでよく覚えていない。軍の中でも群を抜いて料理の上手なジョーカーさんやモズメさんの担当日はぼんやりと頭の隅に残ってはいるけれど。そういえばお二人が一緒に料理当番だった日はすごいごちそうだったなあ、なんてことを思い出している間に、タクミさんがずんずんとこちらに歩いてきて、私の膝で眠っているニシキさんの腕を引っ張った。

「わ、ちょ、ちょっと待っておくれよ!ねえ、本当にボクが料理当番なのかい?」

タクミさんに腕を引っ張られたために上体を起こしたニシキさんが、不満そうな表情でタクミさんに問う。タクミさんは大きな溜め息をついた。

「こんなことで嘘ついてもしょうがないだろ。今日の料理当番は、本当にニシキだよ」
「そうだとしても、まだ日もこんなに高いし、料理を始めるには早いじゃないか」

ねえなまえ、とニシキさんが私に同意を求める。日向ぼっこを邪魔されたからか、しゅん、としてしまった彼の耳と、助けてくれと言いたげな瞳に思わず頷いてしまう。頷いた瞬間、ニシキさんがぱっと表情を輝かせる。耳もピンと立っている。実際、料理を始めるにはまだ早い気がする。仲間も増えたから、一度の調理にかかる時間も以前より伸びたけれど、今から、というのはあまりにも早い。日はまだ高い。日向ぼっこをする時間もないくらいに急がなくてはいけない、ということもないような気がするけれど、と頭の中で考えていると、タクミさんが「あーもう」と痺れを切らしたようにもう一度ニシキさんの腕を強く引いた。

「今日の料理当番はニシキとフェリシアなんだけど。夕方から調理を始めて、本当に夕餉に間に合うの?」
「ええっ?フェリシアと一緒…?」

ニシキさんの表情がみるみると曇っていく。フェリシアさん。私を慕ってくれる、柔らかな、おっとりとした空気を纏った女性。私にとって、いえ、ニシキさんやタクミさんにとっても、大切な仲間だ。料理当番が彼女と一緒だと言うのなら、まだ日の高いうちから調理を始めなくてもいいんじゃないかという私の意見は少し変わってくる。

「…フェリシアさんと一緒なら、もしかしたら、今から始めないと間に合わないかもしれませんね…」

ぽつりと呟くと、タクミさんはそうだろうと言いたげな、どこか得意気にも見える表情をした。穏やかでおっとりとした空気を纏うフェリシアさんは、誰もが認める努力家だけれど、その努力や頑張りが空回りすることが多い。お料理がものすごく下手だ、という訳じゃない。ただ、お皿を割る、調味料を間違える、料理を焦がす…というのが人より少し、多いだけ。料理に限ったことじゃない。フェリシアさんは、ほんの少し、人より空回りが多い。だから、何をするにも余裕を持っておくに越したことはない。だって、夕方から作り始めて、料理が完成する直前になってお鍋をひっくり返すとか…そんなことがないとは、言いきれない。ニシキさんも私と同じことを考えたのだろう、「よっ、と」と小さく声を出してから、自分の力で立ち上がった。ゆらり、彼の柔らかい尾が揺れた。

「…残念だけど、日向ぼっこはまた今度にするよなまえ」
「はい、そのほうがいいかもしれませんね。フェリシアさんがニシキさんのことを待ってますから」
「そうだね。じゃあ、ボクはこれで失礼するよ。タクミ、呼びに来てくれてありがとう」

タクミさんに向かって笑顔でそう言うニシキさん。タクミさんはそんなニシキさんのほうを見もせずに、木々を見上げながら「別に」とそっけない返事をした。そんなタクミさんの態度をニシキさんは気にしていないようで、私たちに背を向けて走り出した。…かと思えば、少し走ったところでくるりとこちらを振り返った。ぶんぶんと片手を振りながら、「なまえ!」と私を呼ぶ。

「膝枕をしてくれたお礼に、今日はなまえの大好きな桃を使った甘味を作ってあげるよ!楽しみにしててね!」

いつも恩返しだお礼だと言っているニシキさんらしい言葉に、笑ってしまう。お礼をもらうようなことなんて何もしていないのに。最初は緊張したし恥ずかしかったけれど、結局、私もニシキさんと一緒にいた時間を楽しんだのだから、お礼の必要なんてないのに。けれど、お礼なんていいですよ、の言葉は言わないでおいた。だって、この距離からでも、ニシキさんの尾が揺れているのが分かったから。私にお礼をしようと嬉しそうなニシキさんに、そんなこと言えない。代わりに、私は「楽しみにしてますね」という言葉を彼に返した。その言葉に満足したらしいニシキさんは、ひとつ大きく頷いてから、また私たちに背を向けて、今度は振り返ることなく走って行った。走るのが早いなぁ、と遠ざかって行くニシキさんの背を見つめていれば、私がニシキさんの背を見つめるのを遮るように、目の前にタクミさんが立った。私はまだ座ったままだから、必然的にタクミさんに見下ろされる形になる。タクミさんの表情がとてつもなく不機嫌そうに見えるのは私の位置からだとタクミさんの表情に影がかかっているからかもしれない。

「…ニシキと何してたの」

問い掛けてくる声が、とても低く感じる。ニシキさんを呼びに来た時の、少年らしさを残したようなあの声と同じだとは思えなくて、苦笑してしまう。笑ったことが気に食わなかったらしいタクミさんは、その綺麗な顔をしかめた。

「特に何もしていません。しいて言うのなら、日向ぼっこです。ニシキさんもそう言っていたでしょう?」
「ふうん。…日向ぼっこ、か」

タクミさんは、私の答えに満足はしていないようだった。ニシキさんとは全く違うなあ、と思っている私に、疑うような視線を向けてくる。心根は優しくいい若者だが、猜疑心が強い、と彼を評する仲間もいるが、その通りかもしれないと思う。

「はい。今日はお天気もいいですから、気持ちいいですよ。タクミさんもしますか?」
「しないよ。…ニシキにしたのと同じように、膝枕をしてくれるっていうのなら、考えてもいいけど」

タクミさんはそう言って、私の目の前にしゃがみ込んだ。私と視線を合わせるようにして、私の目を覗き込んでくる。タクミさんはやっぱり不機嫌そうな表情をしていた。私のほうから、膝枕しましょうかと申し出た訳じゃなかった、断る間も戸惑う間さえもなかった、と説明してもタクミさんはきっとその表情を変えないだろう。タクミさんの掌が、ニシキさんが頭を乗せていた私のふとももにそっと触れる。頬に触れたニシキさんの掌と違って、とても冷たいタクミさんの掌に驚いて、堪らず「やめてください」と言ってしまった。私の言葉に、タクミさんが眉間に深く皺を刻む。

「ふうん。僕はだめで、ニシキはいいの。ニシキのことは、特別ってこと?」
「…違いますよ。そういうつもりで言ったんじゃありません。タクミさんの手が冷たくて、驚いただけで」
「じゃあ僕が頼んでもしてくれるの、膝枕」
「それは…」
「ほら。やっぱりニシキだけ特別なんだ」

そんなことはありません、と言おうとする私を遮るかのように、強い風が私たちの間を吹き抜ける。木々が音を立てて、鮮やかな緑色をした葉がひらひらと舞い落ちる。目の前でタクミさんの髪が揺れる。タクミさんは、私のふとももに触れたその冷たい掌で、私の頬をなぞった。冷たい掌。とても冷たい掌だと言うのに、触れられたところがじんわりと熱を持つ。至近距離で、その気になればタクミさんの長い睫毛の本数さえも数えられそうなほどの距離で見つめられて、慌てて彼から視線を逸らした。私を見つめるタクミさんの瞳が、驚くほどの熱を孕んでいるような気がしたからだ。タクミさんは、時々こういう目をする。いつからだったか、もうよく覚えていない。最近のことのようにも思えるし、私が白夜に来た時からだったような気もしてくる。少年らしさなんて残していない、熱を孕んだ、瞳。見つめ返すことなんて、とてもじゃないけれど出来ない。しては、いけない。受け止めては、いけない。

「…僕だって、ニシキと同じように、」

この距離でなければ聞き洩らしてしまいそうな程の声で、タクミさんが言葉を紡ぐ。冷たい掌が、私の頬をするりとなぞり、移動したその冷たい手は私の唇をなぞった。冷たい親指が下唇をゆっくりとなぞるものだから、口から小さな声が出てしまう。それに気をよくしたのかもしれない。彼の冷たい指先は、もう一度、私の下唇を、焦らすように、なぞる。困った、人だ。とても困った、私の大切な人。いけないのだ。こんなことは、許されないのだ。ぎゅっと目を閉じて、それから私はタクミさんの胸を押した。掌で、彼の胸を押す。だって、これ以上は、だめなのだ。

「もう、タクミさん。あまり私を困らせないでください」
「僕は…!」

何か言いたげなタクミさんを遮り、私は立ち上がる。ゆっくりと目を開いて、今度はちゃんとタクミさんを見つめ返す。焦ったような瞳で私を見上げるタクミさんに、笑い掛ける。意識する。優しく、穏やかで、何も知らない、何も気付いていない。そんな笑顔になっているように。そうすれば、今度はタクミさんが私から目を逸らす。タクミさんは多分、私のこの表情が嫌いなんだろうと思う。私がタクミさんのあの瞳を苦手とするように。

「私はニシキさんだけが特別なんじゃありません。タクミさんだって、もちろん私にとって特別ですよ」
「っ、違う。そうじゃないんだ、僕は、…僕は」
「こっちを見てください、タクミさん。タクミさんだって、ちゃんと特別です。だって、タクミさんは、」

私が何を言おうとしているのか察したらしいタクミさんが違う、と言う。違うのだと、私だって分かっている。とても困った、とてもかわいい、私の大切な人。分かっているけれど、私はあなたの望む言葉を言ってあげることはできないし、あなたの言いたいことを受けとることもできない。彼の白い頬に、手を伸ばす。タクミさんが私に触れたように。タクミさんは、またゆっくりと私と視線を合わせてくれる。今にも泣き出しそうなその瞳の理由に気付いているけれど、気付かない振りをして、私は言う。

「…タクミさんは、私の可愛い、…弟なんですから」

彼が大嫌いであろう、姉としての微笑みを浮かべて。私の言葉に絶望に染めた瞳をしっかりと見つめ返して、「タクミさん」と彼を呼ぶ。少しの沈黙のあと、彼は困ったように笑った。翳りを帯びたその笑みに、胸の奥が少しだけ痛くなるけれどこれでいい。これでいいのだ。

「…姉さん」
「はい。なんですか、タクミさん」
「…僕も姉さんが特別だよ。誰よりも、何よりも、ね」

特別というに込められたその想いに気付かない振りをして、私はまた彼が嫌う笑みを浮かべる。

「そう言ってもらえると、姉として嬉しい限りです。ありがとうございます、タクミさん」

目の前で何かを言いたげに、けれど何も言えずにいるタクミさんに、心の中で謝りながら。