姉ちゃんが家を出た時、家で唯一の味方を失った。家族のなかでも姉ちゃんのことはタブーだった。柔兄の双子の妹である志摩家の次女はいないことになっている。俺も姉ちゃんがどこにいるのか知らないし、親父も絶対に話してはくれないだろう。濡れた鴉の羽根のように艶やかな黒髪は背中につくほど長く、瑠璃色の切れ長の瞳は酷薄さが消えない。人形じみた顔立ちは美しく凄絶なまでの美貌だが、どこか無機質で人間らしさがない。志摩家のなかでも異端で明陀が大嫌いだった。一番末の俺を可愛がり、誰よりも甘かったが坊や子猫丸よりも俺を大切にしてくれる唯一の人だった。手騎士としての豊かな才能を持ち、あらゆるものを見聞きする感性がありどこか浮き世離れしていた。自分の好きなままに生きようとしていたし、それを縛る志摩家というものを心の底から嫌悪していた。血統や座主といったものを理解することはできず、周りから浮き実の親からも疎まれていた。その豊かな才能を活かす場にはあまり恵まれず、志摩家の男よりも下にいつも見られていた。籠の中の鳥、いつか明陀の直系を生かし続けるためにだけに生まれてきた。数少なくなってしまった座主血統を継ぐ為には、その血を持つ子供同士を掛け合わせるしかない。姉ちゃんはその為に生まれてきた存在だった。誰よりも豊かな才能を持ちながらも、いずれ好きでもない相手に嫁がされ子供を生まなければならない。姉ちゃんにとってそれは生き地獄であっただろう。俺は姉ちゃんに育てられたようなものだ。青い夜によって子猫丸のみを残して滅んでしまった三輪家。その生き残りである子猫丸を引き取り育てていたこともあって、俺は結構放置されていた部分がある。姉ちゃんとはかなり年が離れていたし、おしめを変えるのも離乳食を食べさせてくれたのも、全て姉ちゃんがやってくれた。年の離れた弟が可愛くて仕方ないのか、いつも俺を抱っこして外を散歩していた。姉ちゃんが見える世界は色鮮やかで人とは違う。周りを一目見るだけで様々なものを読み取り、違うものを視る。俺にひとつひとつ丁寧に説明しながら、時折俺の手を握りゆっくりと歩いていく。今から思えば家に居たくなかったのだと思う。子猫丸にばかり構う両親や兄たちの姿を俺には見せたくなかったのかもしれない。
「姉ちゃんがずっとおって守ってやる。やから廉はなあんも心配しなくててええねん。」
耳元で幾度なく繰り返されたその言葉は今でもはっきりと覚えている。決して姉ちゃんは坊や子猫丸に構うことはしなかった。俺だけを構い可愛がることを両親、特に親父はよく思わなかったが姉ちゃんに何かを言うことはできなかった。手騎士として才能が異常だったからだ。黒暗天と呼ばれる女神を従え、自在に呼び出すことができたからだ。黒暗天とは生粋の戦闘神であり、血と殺戮の女神ドゥルガーのことを指す。財や幸運を司る吉祥天の妹でありながら、その反対を司る。闇や夜、災いといった不吉を操る女神であり嫌煙されやすい。姉ちゃんは黒暗天を自在に操り己のものとしていた。才能を持てました姉ちゃんは俺に構うことだけに、生活の全てを注ぎこみ七つの頃まではずっと姉ちゃんに育てられてきた記憶しかない。俺がまだ小さな時にあれは起こった。あの時も姉ちゃんは俺を真っ先に心配してくれた。血の気の失せた顔は紙のように白く、俺を抱き締める手は震えていた。坊に一目散に駆け寄った周りに放っておかれるなか、姉ちゃんは見たことがないくらい焦った表情で慌ててこちらに走って俺を抱き締めた。
「廉、廉造いける?怪我はへんの、無事やねんな。良かった。廉が生きてて良かった。」
「姉ちゃんせやけど矛兄が…俺と坊を庇って。」
「ええの、今は休みなさい。」
闇がゆっくりと侵食していく。夜と闇を司る黒暗天の力を使い俺の意識はゆっくりと奪われていった。視界はブラックアウトしていくなかで、姉ちゃんの顔は泣きそうなほど歪んでいるのに、瞳からは雫を溢さない。両親や兄たちが俺に来なくても姉ちゃんが来てくれた。それだけで心は救われた。
今でも夢に見る。俺は矛兄の命を代償に生きているのだとずっと言い聞かされてきた。じゃあ、坊どうなのだろう。俺と坊を庇って死んだのに俺ばかりが何故に責められるのだろうか。志摩家の優秀な後継ぎの命を引き換えにするには、末の弟の命など軽すぎたのだ。志摩家も他の明陀の座主血統の家はたくさんの子供を生むことを求められる。早い話がスペアだ。明陀という一つの組織を動かす為に必要な歯車はかけてならない。人間の心など必要はない。宗家を残すことが一番の大事。お家至上主義と言えばいいのだろうか。不浄王と呼ばれる悪魔を封印するためだけに存在する明陀という大きな一つの共同体。燃え盛る炎を背に俺と坊を庇うあの人が矛兄だというのなら、どうして俺は矛兄の顔を覚えてはいないのだろう。姉ちゃんはあの時も俺に何かをした。迎えに来た親父や兄達の姿はよく覚えているのに、俺達を庇ってくれた矛兄の顔が何故か上手く思い出せない。モザイクが掛けられているように顔が上手く見えないのだ。姉ちゃんはあの時、眠りなさいと言った。あの後起きてすぐに部屋から覗く光へ誘われるようにふらふらと出ていった。姉ちゃんが側にいないことは俺を異常に不安にさせた。喪服の大人たちは俺に気付くことはなく、姉ちゃんを探しにうろうろとさ迷っていた。物陰から姉ちゃんと親父の声がしていたので、隠れながら辺りを伺うと喪服の姉ちゃんは無表情のまま冷淡な声で応じていた。この頃から親父と姉ちゃんの仲は相当に悪かった。家族であっても会話をすることは殆どないし、互いを嫌煙している所もあった。坊と子猫丸ばかりを可愛がる親父をやや軽蔑するような視線で見ていたし、そんな姉ちゃんを理解できないと親父が思っていたことも気づいていた。だから二人が話す所は久し振りに見たのだ。
「 お前は何やを考えとる?坊や子猫丸を放っておぅて、廉造の方へ行くなんて。」
「父さんはおのれのせがれが大切やないの、他人の方が大切そやかていおんでっか…?廉のことをもっと見てやってほしいんやけど。」
「矛造が死んだやぞ、せやのにお前は今そんなんをゆうのか…。」
「今?そらわかっていますわ。せやけど廉も傷おっとるんです。誰かがフォローしてやらんとあかんのちゃうねんか。」
「この話は後や。なんし、女衆の手伝いをせえ。」
「…っ、もぉええ。」
姉ちゃんは親父に頭を下げていた。喪服のスカートの裾を握り締めながら無表情を歪めつつ、それでも目を瞑り必死に訴えかけていた。懇願するような姉ちゃんの声を初めて聞いた。親父は無慈悲に切り捨てて、その場を立ち去ってしまう。畳の目をじっと見たままの姉ちゃんはどこか悔しそうな顔をしていた。もしかしたら、姉ちゃんは何度なくこうやって親父にお願いをしていたのかもしれない。廉造を見てやってというだけの願い。姉ちゃんはプライドの高い人だったから親父に頭を下げるなんて死ぬほど嫌だっただろうに。俺の為なら頭を下げてくれる、その気持ちだけでとても幸せになれた。姉ちゃんがいればそれだけでよかった。それでも親父にあそこまで切り捨てられると流石に悲しい気持ちになった。
「 廉そこにおるんやろ?姉ちゃんにはわかるわ。」
「姉ちゃん、俺…。」
「別に廉はなあんも気にしていらんの。まだちっこいんやから。喪服出すからおいで。」
「…姉ちゃん。」
姉ちゃんはいつだって俺を見つけてくれる。どこにいても何をしていても、姉ちゃんだけは俺を探してくれる。無表情は消え、いつもの穏やかな表情になった。どんなに家族に相手にされなくても、ここには俺を見てくれる人がいるのだとそう思った瞬間に涙が溢れて止まらなくなった。廉と俺のことを呼ぶのは姉ちゃんだけだ。抱き付いた俺を引き剥がすことはせずに俺を優しく抱き止め、強く抱き締め返す。
「 安心してええからな。廉の側にいつも姉ちゃんはおるからな 。」
その言葉に何度救われてきただろう。でも姉ちゃんは俺を置いて志摩家を出た。未だに姉ちゃんは志摩家から名前を抹消されないものとして扱われるようになったのか、俺は知らない。誰も姉ちゃんの話はしないし、することをどこかで怖れている。親父は一番姉ちゃんのことを怖がっている。自分たちと血が繋がっているはずなのに、全く相容れない考え方をする姉ちゃんを理解できずに異物として扱っていた。けれど血の繋がっているはずの息子をスペアとして扱うことは、おかしくないのだろうか。外の世界から見れば姉ちゃんの考え方が当たり前ではないかと思う。きっと姉ちゃんは女であればこそ明陀に強要されることを嫌った。子供を生むだけの存在にはなりたくなかったのかもしれないと、今は思う。俺の側に姉ちゃんがいなくても生きていてくれればそれだけで充分だった。それでも姉ちゃんが俺を連れていってくれたら一番嬉しかった。それは思ってはいけないことだが、姉ちゃんは俺を連れていくことはできない。それはよくわかっていたから、もう俺は何も望まない。廉、と呼んでくれるあの声を思い出せるのなら、まだ生きていてる。

「 廉を連れていかしておくれやす 。」
生まれて初めて土下座をした。私は廉のためなら何でもできたし、してやった。廉をあの家に置いて行くことは彼を歪めてしまうとわかっていたから。志摩の家も全て大嫌いだったから、家から破門されることは何とも思わなかった。明陀なんて滅んでしまえばいいと本気で思っているし、彼らの考えを一生理解はできないだろうしそれはあの人達もそうだろう。私の末の弟は唯一の家族であり、私と性格のよく似ていた。産まれた時からスペアとして育てられた廉は、愛情というものにはあまり恵まれなかった。同い年に明陀の宗家の跡取りである勝呂竜士がいたこともあるが、青い夜で家族を無くした三輪家の子猫丸が志摩家で引き取られたことも大きいだろう。両親や兄達はあまり廉に興味はなかったのか、無視とはいかないがキツい態度を取るか忘れさられてしまうかの、どちらかだった。そんな廉が哀れでいとおしくてずっと面倒を見てた。家族の中でも浮いていた私はそれを悲しいとも思ってはいなかったが、愛らしい弟だけがいとおしい。いくら宗家といえども自分の家族よりも大切にすることはないと思っていたし、竜士には両親がいたし一人っ子で親の愛情を一心に受けていた。周りからも坊、坊と持ち上げられてこれ以上何を望むというのか。ただの同い年の子供なのに廉ばかりが貧乏くじを引かされるように思えて余計に嫌だった。子猫丸に関しては志摩の両親や柔造達が構っていたから、私が構わなくとも寂しくはないだろう。元々、そこは廉の立ち位置だったのに何故そこにいるのだろう。可哀想な廉。私が廉に愛情を与えなければ彼を誰が愛してくれるというのか。
お気に入りのぬいぐるみを抱えて一人立ち尽くす私を、彼女が抱き寄せ囁く。障子の隙間から見える両親はセックスをしていた。別にそれはどうでもいい。一般家庭においてそれはよくある光景だ。薄い水色の象のぬいぐるみはくたびれてくたくたになっしまっている。抱き寄せたぬいぐるみは私の中でも一番のお気に入り。力を込めて抱き寄せてしまったせい綿が片寄ってしまっている。今日、セックスすることに意味があった。ああ、やはりするのね。言い知れない不安は的中し、私にどうしようもない程の絶望を与えた。明陀宗が今日は上級の悪魔に襲われ、幾人かの死傷者が出た。新しいストックがいるのだ。失われた分を補充する必要がでた。ただ、それだけ。セックスに愛情はなく、ただ必要だから行われる機械的な行為。吐き気がするほどに気持ち悪くなってしまう。彼女は私を抱き寄せながら、幾度なく囁き目の前の光景を見せつける。愛って何だろう。人間はただの機械と同じなの。普通が私にはわからない。明陀の普通を理解することは私にはできない。多分、ここの普通は普通ではない。父も母も私にとっては理解の及ばない悪魔と同じだった。志摩家での生活は私にとっての地獄。この世界は生ける地獄、いつか私も機械のようにセックスをして新しいストックを生み出す為のものになる。彼女は私を覆い隠し、見えなくさせる。この世には悪魔がいる、悪魔よりもずっと私にとっては家族や明陀のほうが、悪魔だった。障子の隙間から見える光景はこの世で最も忌まわしいもの。
ただ、信じてみたかっただけだった。仲間が死んだ日なのだから、その死を悼むことをしてくれると思っていたのに。死を悼むことは人として当たり前の感情。彼らも仲間の死を悲しまないわけではないが、それよりもずっと高尚な責務を抱いていると考えている節がある。哀悼を感じる暇さえ与えられない。それはどんな地獄だというのか、明陀は人を人として扱わない。私達は大きな機械を動かす為のただの歯車のひとつなのだと知ってしまった。分かりきったことをもう一度確認して傷つく自分の脆さに嫌ななった。まだ私は私の家族を信じていたかったらしい。また子供が生まれるだろう。新しい明陀の為の歯車が捧げられる。廊下に飾られていた写真は金造が生まれた時に撮った写真で柔造が父さんの膝の上に乗せられ、矛兄さんは私の頭に手を置いていた。母さんは金造を抱いており、私は両親に抱き締めてもらったことや、甘やかしてもらったことがない。双子の柔造の方がいつも大切に甘やかされていた。男は志摩家にとって一番大切にされる。いずれ志摩家を継ぐものとして、女である私はただ子供を生むだけの存在してしか扱われない。明陀に属する家に嫁がされ、愛がない結婚をしなければならないだろう。私の存在は一体何だというのか。今日のセックスで子供が生まれるかもしれない。それならば私はどうしようか。男なら志摩家の後継ぎになることはほぼないだろうし、明陀衆にその命を捧げられるだろう。女なら、考えたくはないが私と同じだろう。私は家族が欲しい、私だけの家族が。
「 黒暗天、私は次に生まれてくる子供を家族にしはる。」
生まれてくるであろう子供を私は一心に愛そう。誰かに愛して愛されたい。愛してくれるはずの家族からの愛されず、愛に飢えていた私はそう勝手に決めた。十月十日後、生まれた赤子は廉造と名付けられた。愛らしくか弱い私の弟。こんなにもいとおしい存在を私は知らない。この子は私がいなければ死んでしまう。おくるみに包まれたまだ首の座らない赤子を一日中抱き締めあやしている姿を、両親は何も言わなかった。母親に母乳を凍らせておくようにいつも言っていたから、冷凍庫から取り出し廉に飲ませる。いつも私の後ろには黒暗天がいたから、両親も兄も口出しはできない。私の中の記憶があるときから黒暗天は側にいた。魂同士の繋がりのある黒暗天は悪魔でありながら地母神でありシヴァの妃であるパールヴティ、アスラを倒すために神々によって生み出されたドゥルガー、そして更に戦闘神としての性格をより強めた狂気を抱くカーリー全てが黒暗天の貌であり女神の中でも戦闘神だったから、力に畏れをなし志摩家は私をないものとして扱う。機嫌を伺いながら何かしでかさないかどうかを常に見張られていた。悪魔のほうがずっと私のことを理解している。廉は決して明陀の犠牲にはさせない。同じ双子でありながら私と柔造の性格は全く違う。柔造は父さんのコピーだ。いつも同じことばかり、鸚鵡のように話している。座主をお守りする為に志摩家はあるのだと繰り返す。そんなものに何の意味があるのだろう。私は不吉を運ぶもの。黒暗天は災いを運び夜と闇を司る。吉祥天と姉妹であり、その性質は全くの逆。豊穣や幸運を司る吉祥天は誰からも歓迎されるが、黒暗天は誰からも歓迎はされない。でも幸福の影には不幸がありそれは切っても切れないものだ。私も黒暗天も誰からも歓迎されない、望まれないという所において同じだった。けれど私にしかできないこともある。災いを司るものなら災いから遠ざけることもできるのだ。廉には私の加護を、黒暗天の加護を与えよう。夜魔徳は夜魔を殺すもの、黒暗天は夜魔の妹でありその妃。私と廉が出会うことは運命だったのかもしれない。廉は私の弟、この世でただ一人の私の愛しい弟。
あの日、あの時ほど私を取り巻く全てを葬り去りたいと思ったことはない。嫌な予感が朝からしていた。私の勘はよく当たる、特に不吉の前触れだと。今日は廉と二人で家にいよう。部屋に結界を張っておけば何者も入ることはできない闇を形成できる。私の朝食だけは家族と別に摂っている。少し遅れて誰もいない居間で面白くもないテレビを眺めながら、廉を探そうと決めていた。廊下の向こうから忙しなく走る音がする。あの声は多分、金造だろう。
「 金造、廉はどこにおるん?」
「姉ちゃん、廉造は坊たちと遊びにいかはった。」
「どこへいかはったん?」
「俺も詳しくは知らん。」
「そないわかったわ、おおきに。」
居間から顔を出すことなく金造へと話し掛けたが、顔を出すと金造は怯えてしまうだろうから。廊下を走り去る金造はきっと震えていた。血が繋がっているはずなのに殆ど話したことのない歳上の姉に、怯えを覚えていた。恐怖、憎悪、悲哀、負の感情を読み上げることは容易い。私はそんなものは読みたくはなかった。今はそんなことは関係ないだろう。廉を探して早く部屋に行ってしまおう。急に気持ちが悪くなってしまう。頭がぐらぐらとして、酒を飲んでもいないのに酔いが回るような感覚になってしまった。畳の上に倒れ込み体を胎児のように丸め、息を一つ吐いた。いきなりどうしたというのか、廉を早く探さなければならないというのに。指一つ満足に動かすことができない。脳裏のなかで青い炎がちらつく。ちろちろと燃える炎は辺りを燃やし尽くし、知っている人間を燃やしている。俯瞰的な視点で見ているのか、何もできないからただ大人しくその光景を見ている。廉はどこにいるのだろう。ただそれだけが気になって仕方ない。この青い炎はサタンのもの。虚無界の炎が何故ここで燃えているというのか。私は何もできない。廉が危ないと本能的に感じていた。もしも廉に何かあれば生きてはいけない 。
「おい、おいどもないか?気持ち悪いんか、しっかりしろ。」
「柔、造。廉はどこにおるん?」
居間に倒れこんだままびくりともしない私を柔造が見つけて、血相を変えてこちらに近づき抱き起こした。柔造のこの顔を見ていると明陀も随分とパニックになっているようで、私の脳裏で見た光景は本当だったようだと半ば確信を得ていた。またま頭が揺れて上手く言葉がでない。力が抜けて視界が白み始めるが、ギリギリで耐える。何があったのかきちんと確かめなければならない。そのまま私を抱き上げどこかへと運ぼうとする柔造の体を押し退け、動かない体を無理矢理引きづりながら廊下を這いずるように玄関へと向かっていく。このまま意識が無くなってしまえばな何か不味いことになるような気がするのだ。廉の身が危ない。這いつくばる私を柔造が慌てて追いかけようとしている。双子なのにつくづく私たちは別々の性格をしているようだ。私ももしできたのなら、柔造のようように。玄関の引き戸の前に誰かがいる。逆光でよく見えないが、力を振り絞り立ち上がろうとするが上手く力が入らない。  
「 おい、蝮そこんバカを止めてくれ!」
「はあ?っておいなんをしたはる!?」
「…どいて、廉んとこに行かいなきゃ。蝮そこをどいて…。」
「そないわけにいくか。こん阿呆!」
蝮の声がする。焦った様子の蝮は初めて見た。やはり蝮のところでも大きなことがあったらしい。玄関から転げ落ちた私を蝮が慌てて抱き留める。意外にもしっかりと私を受け止めた蝮を押し退けようとするのに、力が入らない。虚無界が物質界に干渉しているせいでその影響をもろに食らっているらしい。黒暗天と魂レベルで同調しているせいもあって私は虚無界の影響を受けやすい。それがここに来て仇となるは思わなかった。玄関から下りてきた柔造は蝮の腕に抱き抱えられた私の顔を覗きこむ。蝮の袂を握り締め、自分の顔を刷り寄せ必死に訴える。
「 蝮、蝮。なんがあったんか?廉が危ない、早う助けにいかいなきゃ。」
「そん前にあんたが危ないぞ。」
「私はどないやてええん。」
朦朧とする意識のなかで黒暗天を呼び出し、廉の方へと向かうように命じた。私を案じる黒暗天は躊躇いを見せるが、早く行けと語気を強くすれば私の影から這い出し向かった。魂を黒暗天に同調させ、自分の体から引き抜き一緒に寄り添わせた。これで廉の元へいち早く行くことができる。魂をなくした体は力を失い完全に蝮の腕の中で気を失った。元の体に戻れるかは賭けだったが、廉を守れるのなら構わなかった。

気配を辿りついた場所では血の匂いがした。これは廉と矛兄さんの血の匂いだ。嫌な予感がする。廉が怪我をして倒れているその後ろで坊が震えていた。私の姿をした黒暗天は慌てて廉に駆け寄ると抱き起こし、安全な影のなかへと引き摺りこもうとした時、誰かの敵意に満ちた声を聞いた。廉と坊を狙っており、このままだと廉が刺されてしまう。咄嗟に呼び出した三叉戟で突き刺していた。赤い血が頬にかかり、生温い感触が掌に広がった。私よりもずっと大きな体格の男が倒れこんできた。この男を私はよく知っている。黒暗天の矛は確実に男の心臓を刺し貫いていた。破壊の神に与えられた三叉戟が狙いを外すことなど決してありはしない。男の血が体にかかっても呆然として動くことができなかった。私が刺してしまった人は間違いがなければ、男の体を起こし顔を確認した。やはり、間違ってはいなかった。
「ああ、嘘やろ…。矛兄さん。」
柔造とよく似た顔をしたその人は私の兄さんだった。志摩の家で唯一私を気に掛けてくれていた人。いつだって影に隠れてしまう私を迎えにきて、降りてこいと言って夕暮れの川沿いの道を肩車して家までの道程を歩いた。梔子の花の甘い匂いがした。白い梔子の花が咲いている木によく登り隠れていた。裏山にあった梔子の大きな木は私を隠してくれる格好の場所だった。ここに居れば誰も私を見つけられない。元々はみ出しものの私をわざわざ探しはしないだろうし、陽が落ちたこの時間こそ一番落ち着ける時間。このままここに居よう。沈み行く夕日を眺めながら、宵が来るのを待っている。甘い梔子の花の香りは気持ちを落ち着かせてくれるし、しっかりとした枝に身を預け目を閉じた。闇に身を落としてしまうの悪くはない。虚無界に魂が近い分、身を落とすように囁く声は多い。身を落としてしまえば楽だし、物質界に引き留めるものはいない。それでも身を落とせないのはまだ未練があるのだろうか。ここにまだ留まっている理由はいまいちわからないのに。私はまだここにいたい。梔子の花の香りに包まれるように、眠りに落ちた。
「 おい、帰るぞ。降りてこい。」
「…矛兄さん。」
「お前は何かあるとすぐここへと来はるんやな。」 
矛兄さんの声がする、木の下から声が聞こえた。目を開けて木の下を覗きこむと騎士団の制服をアレンジした大柄の男がいた。どうして矛兄がいつも私を見つけられるのだろう。手を開いた状態で矛兄は笑いながら降りてくるように促す。本当はいつも見つけて欲しかったのもしれない。我ながら面倒くさいとは思うが、兄さんがもし見つけてくれないと帰れなくなりそうになる。自分から行方をくらましているというのに、やはり心の何処かでまだ留まっていたいのだ。いつでも、虚無界には落ちることはできるかもしれない。兄さんがいてくれるのなら、まだ帰ってこれる。そう思えるのだ、闇に消えてしまっても後悔はない。木からするりと降りると軽やかに兄さんの腕の中へと落ちた。しっかりとした兄さんの腕の中は暖かく、随分と久々だと思った。騎士団の京都派出所に就職してから、会う頻度は減ってきた。志摩家の跡取りとして充分な教育をされ、周りからも認められる高潔な人物だ。どんなに考えが違っても兄さんは私を邪険にはしない。それだけで充分だった。私の存在を家族のなかで認めてくれるだけで、幸せな気持ちになれる。考え方はそれぞれ違うだろうし、違うものだと認めてもらえるだけでいい。ただ否定し押し潰されてしまうことだけが辛い。兄さんはいつものように私を肩車すると、家路へとゆっくり歩いていく。私の家に帰りたくない気持ちを察しているのだろう。言葉は少ないが、兄さんの頭を抱え口付けを落とした。この人は誰のものにもなれない人だ。たくさんの人のもので、いつか女性と結婚をして新しい志摩家の跡取りを設ける。私はそれが少し寂しくあれど、兄さんならこの志摩家を変えてくれるかもしれない。兄さんの将来を守りたい。
「兄さん、おおきに。」
「どないした?」
「いや。」
梔子の匂いは私の幸せな記憶。夕闇の光を反射して川の水面がきらきらと光輝いていた。また家に戻れば父さんと喧嘩をするかもしれない。きっとそのうち話をすることもなくなると思う。でも今のうちは兄さんがいてくれれればそれでいい。温かな記憶がどんどんと赤に染まっていく。川を流れる水が血に変わっていた。私は何をしたのだろう。流れる血がどんどんと染み込んでいく。兄さんの血、こんなに血が流れたら死んでしまう。本能的に三叉戟を抜きかけた手を止め、兄さんの体を両手で支えた。私は兄さんを刺してしまった。でも兄さんは操られていたらしい。黒暗天の目を通して見れば何本もの糸が絡みついているのが見えた。これは虚無界から伸びている糸だ。触れてみれば青い炎が流れていたらしく、指先を火傷した。サタンに操られていたようだった。輪宝で糸を切ると操り人形にされていた兄さんの体は完全に私へと倒れこんだ。もっと早く気付けたら兄さんの糸を裁ち切れたのに。抱え込んでいた兄さんの体を地面へと横にし、応急処置をする。ガンダルヴァを呼び出し兄さんへとソーマを与えるが治癒が効かない。矛の心臓への一撃が効いてしまっていたのか、確実に死へと追いやってしまっている。どうすればいいの兄さん、兄さん。何度なく兄さんの名前を呼ぶが反応がない。私は何てことをしてしまっただろう。許されることではない。私は兄さんの未来を守るためならいつか消え去る運命を受け止めるはずだったのに。闇へと消えても、廉と兄さんの幸せを守れるならよかった。奪ってしまったものはきっと帰ってこない。兄さんの手が伸びて俯いている私の頬へと触れた。掌はべったりとした感触がする。血に濡れているのだ。兄さんに掌を重ねて握り締める。  
いけるか、怪我はあらへんか。
「兄さん、兄さんいける?」
「泣くなや、何んとなく何にがあったのかわかっとる。お前のせいやない。」
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
どんどんと掌は冷えていく。急速にその体温を失いつつあるのがわかる。私も今は黒暗天の体を借りているだけだから温度はない。憑依している為に、消え行く兄さんの魂の炎を感じることができる。兄さんは瞳を閉じて力が抜けていく。何度も何度も、名前を呼び掛けるのに兄さんは反応を返してくれない。ソーマを飲まそうとするのに、もう飲んではくれないのだ。消える炎を留めようと魂を同調させるが、いくつかの映像を見せてくれるだけで、魂が消えていってしまう。サタンの糸に必死に抗っていた兄さんの魂は廉と坊を傷つけないようにしていた。立ち竦む坊の前で廉と立ち塞がり、傷を負ったのだ。廉の額へと錫杖の尖端が刺さった時、兄さんの意識はあり自分の弟を傷つけた瞬間死を願っていた。もう自分の行動をコントロールできないと感じ取っていた。二人を傷つけてしまうことに抗っていた。でも廉と坊には自分へと襲いかかる兄さんの姿しかない。記憶を改竄しよう、このままの記憶が残ることを私は許せない。坊へと無言で近寄ればもう気を失っていたのか踞ったまま、反応はない。とりあえずすぐは目覚めないだろう。放っておき、廉に近付けば額からの出血が多いのか意識が朦朧としている。この出血量は不味い。廉は必ず死なせない、私が今取れる手段はひとつだけだ。
「 オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ。」
この真言は彼に届くだろう。そして呼び掛けには必ず答えるはずだ。彼は元々、悟りを拓くまで至った僧の化身。以外と情け深いところがあるのだ。志摩家の本尊、夜魔徳を呼び出した。彼と話をするのは久々だが、今は志摩家と夜魔徳の魂の繋がりを使うことでしか廉を助けられない。失ってしまった魂を夜魔徳の魂で補う。廉の意思はないが契約させ、夜魔徳の治癒力を持ってして命を救わなければ助かる道はない。黒い炎が陽炎のように揺らめき不安定な体を形成している。夜魔徳は物質界へと来るのに依り代を必要としない。水牛の角は残ったままの陽炎が私を覆い尽くそうとするが無言で睨み付ければ、炎は消え去った。
「何用だ?お前に呼ばれるとは珍しいな。黒暗天。」
「 契約をしよけ。あんたん願いを叶えてやるかわりに、廉と契約しいやもらおう。志摩家ん本尊としいやん役目を果たす時や。」
呼び足された理由をわかっているはずなのに、嘲笑いながら私を見下してくる。夜魔徳の喉元へと三叉戟の矛先が向けた。悪魔と契約を交わすことは即ち、滅びへの道だ。私は廉の魂を勝手に悪魔へと渡そうとしている。それでもここで死なせてしまうよりはずっといい。最近では夜魔徳と契約を交わすことのできる志摩家の人間はいなかった。廉をこの家に縛り付けてしまうことになってしまう。それでも生きていて欲しい。
「相変わらず気の強い女だ。契約をしてやろう。ただし、お前が死んだとき魂を俺のものにする。永遠に器虚無界をさ迷い、天国へと行くことはできない。お前ほどの魂を食らえば力が強くなるからな。」
「 ええやろう、契約をしよけ。違えた時はあんたん魂をきっと消滅させる。そないゆー約束や。黒暗天ん名ん元に誓う、私はあんたと契約をしはる。」
三叉戟を下ろし、夜魔徳の炎が私の魂へと刻まれる。私の魂は未来永劫、輪廻の輪に乗ることはできない。黒い炎は徐々に収束し廉の体へと向かって吸収されていく。青白い頬に赤みが戻り、冷たくなっていた体も確かに温かい。小さな廉の体を抱き寄せると安堵から息を吐いた。輪廻転生できなくても廉が生きていてくれれば構わない。私の魂なんて対した代償ではないし、兄さんを殺した罪は背負わなければならない。命は命を持ってして代償は支払われる。当たり前のことだ。志摩と坊の記憶を操作するために近寄れば、体から魂が離れたことにタイムリミットが来てしまったのか。視界がブラックアウトしてしまいそうになるが、志摩の体を抱え坊の額へと手を伸ばした。二人の体をしっかりと抱え、兄さんの体を影の中へと取り込み寺へと飛んだ。寺へとたどり着いた時には私の魂は体へと引き戻され、坊と廉の体と兄さんの遺体だけが石畳の上にあった。私は一生幸せにはなれない。廉を守ることだけが全て。

私の幼馴染みは随分と変わった奴だった。今日、志摩家を破門されて出ていくことになったが、後悔はないだろう。元々、志摩家いや明陀が嫌いだったから破門されて万々歳かもしれない。破門の直接の理由は志摩家の本尊たる夜魔徳を勝手に末の弟と契約させたからだ。あの夜の後、八百造さんと大喧嘩をする声を皆が聞いていた。矛造さんの遺体と竜士さまと廉造の体を連れて帰ってきた影を私は見たことがある用な気がした。影から溢れてでいた白い腕はきっと、黒暗天のものだろうが私の腕の中で彼女は気を失っていた。青白い顔からは血の気が失せ、私よりも小さな体は細く軽かった。私は彼女を抱えたまま譫言を繰り返していたが、影から寺の石畳へと三人が戻ってきた時に慌てて走り寄るがよろよろとしたまま、壁へと倒れた。
「 おい、どもないか?」
「かんにん、蝮連れていってくれやらん。」
「構へんが、無理しはるなよ。」
「おおきに。」
彼女に肩を貸しながら進むが異常に消耗しているのか、時折えづきながら必死に歩ゆみを進めていく。こんなに辛そうなのに辛いとも言わず、寺へと無言で進む。話をすることもキツそうに見えるが、それよりも酷く辛そうな表情をしている。こんな表情をする彼女を初めて見た。石畳の長い階段を登りきると、私を突き飛ばすようにして、三人を囲んでいた人混みを掻き分け走り寄った。そんな体力がどこに残っていたのかと驚いたが、あんな必死な彼女を初めて見た。廉、廉造と泣き叫ぶような声に周りは驚いていた。竜士さまに目をやることもなく、志摩家の末の子に構う人間は少ない。志摩家の鬼子の取り乱した様子は初めて見るものばかりだろう。鬼子、そう呼ばれてきた彼女の鬼気迫る様子はさながら本当の鬼女だった。廉造を抱えた様子の彼女は子供を守る鬼子母神にも見えた。廉造を抱えたまま、矛造さんの遺体へとすがり付き泣いていた。兄さん、兄さんと何度も名前を呼びながら周りの人間が近寄ることを許さなかった。私の隣に柔造が隣へと近寄ったことも気づけなかった。矛造さんにすがり付いて泣いている彼女の姿を見て、柔造は声も出ないのか感情が見えない表情をしている。思わず柔造の手を握り締めると強い力で握り返された。
「私が側におるよ。」
この時ばかりは柔造への態度が変わった。今の柔造を一人にすることはできないと思ったのだ。これからは柔造は志摩家の跡継ぎとなる。矛造さんのあとを継ぎ明陀の礎として守っていかなければならない。その重責を思えば今だけは側にいたい。明日からは全てが変わる。柔造を取り巻く環境は大きく変わり、志摩家の正統な跡取りとして扱われる。私だけは変わらない態度接したい。この先何があっても変わらないとは言い切れないけれど、今は信じていたい。握り締めた掌を忘れないよう祈った。
「結婚おめでとう。蝮は幸せになってね。柔造のこと頼んだよ。」
廉造を抱えて再び表れた時には、彼女の容貌は大きく変わっていた。白い肌は透き通るほど白く、濡れた鴉の羽根のような黒髪は梔子と同じ色になっており、瑠璃色に輝いていた瞳は深緋色になっていた。白蛇、といってもいいのかもしれない。私の使うナーガとよく似た色をしている。魂が既に人間のものでは無くなってしまっていた。今までに何があったのだろう。もう半分悪魔堕ちしているのだ。黒い騎士団のコートを着て、ブーツの踵をうちならし歩む姿はまさしく死神のごとくであり、喪服のようでもあった。歩く葬列、と言えばいいのか。廉造をおぶさり私へと近寄り、何かを手に落とした。桃の花びらを掌に落とし微笑んだ。魔を払う桃の花ーーー黒暗天の加護がある。黒暗天は信仰するものには災いを打ち払う力を与える。災厄を司る者であればこその加護。前を向けば廉造を背負ったままの彼女はもういない。花を握り締めれば甘い匂いと一緒にどこからか梔子の花の香りがした。彼女はただ愛情を求めていただけだった。桃の花びらは右目に残っていた不浄王の邪気を払い、イルミナティにばら蒔かれた邪気をゆっくり払っていく。こんなに美しい光景を私は見たことがない。空を美しい天女が舞い踊る度に桃の花びらが舞い散る。土地は浄化され清廉な空気を帯びていく。黒暗天も吉祥天は二つでひとつ。切っても切れない関係なのだろう。光も闇も全てはひとつのもの。この美しい光景を彼女が作り出したというのなら、きっと彼女は大丈夫だと思いたい。
駆け寄ってくる柔造へと笑みを向けた。 
「 なんてうつくしいんや。お帰りよし、柔造。」

「廉造、これからずっと姉ちゃんはずっと側におるからね。」
「ほんま?そらえらい嬉しいなあ。 」
俺は夢を見ているのかもしれない。血を流し過ぎて頭がおかしくなっているのかと思えば、俺を背負う姉ちゃんの温もりは本物だった。もう俺は一人じゃない。大丈夫、これからもきっと生きていける。