私の弟は昔から優秀だった。よその家の子どもと比べるとずいぶんおとなしく、その割にしっかりしているもんで先生やよその家のお母さんたちからもずいぶん好かれていた。顔立ちが整っていたこともきっと関係しているに違いない。本人がどう思っていたのかは知らないが、そのころから私は弟、京治のことを自慢に思っていたし密かに羨んでいた。私が京治の歳の頃は周りの子どもたちと何ら変わらない少女で、平凡な私が何かと注目を浴びる彼の姉であることに幼いながらも引け目を感じていた。それからもういくつも歳を取り、私は無事大学2年生に、京治は高校2年生になった。私は相変わらず平凡なままだが、京治はあの頃に比べ顔立ちはそれこそ精悍な青年のそれになり、いつの間にか追い越されていた身長は180センチを越える大男となっていた。私の大学は都内にあるが、家からだと少し時間がかかるので大学に近いところにアパートを借りて一人暮らしをしている。私を変わらずしっかり者の京治は心配して、週に三回ほどはうちに泊まりにやってくる。そのせいでなのか、彼氏ができても家には呼べないし、京治は京治でそんなのお構いなしにどんどん私物を置いていく。例えばTシャツとか下着とか買ってきたマンガ雑誌とかゲームとか。ゲームやマンガ雑誌なら誤魔化せそうだがTシャツや下着はどうしようもない。ついにはホームセンターに行き自身専用の三段ボックスを買ってきた。これにはさすがの私も異論を唱えたがやはり京治はどこ吹く風である。結局私が折れて、ついでに大学生の間に彼氏を作ることも諦めた。

週三回我が家にやってくる京治だが、ここ最近は来る時間がずいぶん遅くなっていた。おそらくもうすぐ行われるであろう部活の大会が近いせいだ。余程厳しい練習をしているのか、我が家に着くなりお風呂に入り、私の大しておいしくもない晩御飯を食べすぐに眠るという生活を送っていた。彼が我が家にやってくる曜日はランダムで、本人曰く「気が向いたら来る」らしいのだが、京治が来た次の日の朝は慣れない弁当を作らなくてはならないため、常に冷蔵庫の中は食材でいっぱいだ。一年半も作っていれば初めは不格好で焦げ目が多かった卵焼きも何とか形になるものである。その辺は彼に感謝するべきなのかもしれない。京治は我が家に来る前に必ず連絡を私に入れる。一度、友人たちと食事をしている最中に連絡が入ったことがある。そのときに限って電話での連絡で、電話が終わったあとすぐ「ついに彼氏か!?」とずいぶん冷やかされてからは夜の外出の際は先に京治に連絡を私から入れるようにしている。ちなみに、私と京治の顔立ちは全く似ておらず、街を歩いているとよく恋人同士に間違われる。間違われるたびどこかムズムズしている私の事など京治は知らないだろう。間違われるたび、京治は「それじゃあ手でも繋ごうか」などと抜かしてくるのだ。意地の悪い弟である。

その日は一番授業が多い日で、最後の授業が終わったのは19時を過ぎた頃だった。仲の良いメンバーとこのあと飲みにでも行こうという話になり、学校から少し離れた居酒屋に入った。その時京治から連絡が入っていたのだが、私のスマホは授業時のマナーモードの設定のままで、私はそれに気づかなかった。居酒屋に入り席に着くと、私たちの席に1人の男がやってきた。私は見覚えがないので無視してメニューを開く。どうやら、私たちのメンバーの一人の女の子とサークルが同じらしく、その男は私たちの席に混ざって飲みだした。私と女の子の間に座られたせいで男の香水と酒の匂いが鼻にあたる。くらくらして気持ち悪い。それでも我慢して適当にジュースを頼んで酒のあてに頼まれた料理をつついていた。次第に男の友人たちもこちらに混ざり、酔っているのもあってか一気に騒がしくなる。女の子特有の甲高い笑い声と男の下卑た笑い声が入り交ざって耳が痛い。そろそろ帰りたくなってきた。

「この子のさぁ、弟くんすっごいかっこいいんだけどぉブラコンらしくてぇ連絡先教えてくんないの!連絡先くらいいいじゃんねぇ!そう思わなぁい?」

私の友人が突然話を振ってきた。それも京治の話題である。たしかに連絡先は何度も聞かれた覚えはあるが、京治はそういうのをあまり好まないので断り続けていた。まさかこの場で、しかもブラコンと言われるとは思っていなかった。彼女も酔っているので仕方がないのだろうが、私の隣に座っていた男がそれに興味を持ったことが厄介だった。男がこちらに顔を向ける。香水と酒の匂いが一層きつくなった。私は反射的に顔を顰めたが男は気づかなかった。

「どんなのなの?写真見せてよ」
「い、いや、あんまりそういうの好きじゃない弟で。だから連絡先も教えてないの」
「そいつ弟が原因で全然彼氏できないんだよ、ねぇなまえ」

お酒の力は時に厄介だ。余計なことを言うんじゃない。なんとなく嫌な流れになってきたので自分の勘定分だけおいて帰ろうと席を立つと、「送っていくよ」と隣の男も一緒に席を立った。思い出した、この人たしか送り狼なんて言われている人だ。「いや大丈夫だから」と断るものの、「いいからいいから」と言いながら私の背中を押す。とりあえず店からは出なければと思い、押されるまま店を出る。店を出ると右腕を捕まれた。気持ち悪い。このまま家まで付いてこられるのは非常にまずい。それに私はこの男にいい印象を持っていない。なんとか断ろうと振り向いた時だった。

「なまえ」
「京、治」
「は?んだよ男いたのかよ」

そこにいたのはいるはずのない京治だった。左手で鞄を探りスマホを取り出すと、三件ほど連絡が入っていた。すべて京治からのものだ。画面から目を離してもう一度京治を見る。京治は無言のまま私たちに近づいてきた。私の腕をつかんだままの男はいきなり現れた、それも比べ物にならないくらい顔立ちの整った彼に動揺しているようだった。京治は無言で私と男を引き離す。私は京治の後ろに隠れた。

「何すんだよ!」
「それはこっちの台詞です。あなたこそ、俺の彼女になにしてるんですか」

その言葉に思わず動揺して肩が揺れる。ちらりと京治を見上げるが彼は表情を一切変えない。男は「くそっ」とだけ吐き捨てて立ち去った。深く息を吐いた京治が私を振り返って、「帰るよ」とだけ言って私の右手を引いた。そんなことするとまた恋人に間違われるよ、と言いたくなったが、京治の大きな手が心地よくてまあいいかなと思った。私と京治は家に着くまで無言だった。

「来てくれてありがとう。助かった。けどなんであそこだってわかったの?」
「なんとなく。…スマホ、気づかなかったんだね」
「ごめんね、マナーにしたままだった。次からは気を付ける」
「なまえさ、もっと警戒心を持ったほうがいいよ」

京治はそういうと私をベッドに押し倒した。突然の事に私は驚きを隠せない。京治との距離がいつもよりずっと近くて心臓がドキドキと音をたてる。京治の切れ長の目と合った瞬間唇を塞がれた。反射的に彼の胸を押すがびくともしない。それどころかだんだん深くなるキスに絆されていった。唇が離れるとまた京治の目と視線があう。初めて見る熱っぽい視線が逸らせない。私はゆっくり口を開いた。

「京治?なんで?」
「ずっと、こうしたかった。でもダメかと思って今までしなかっただけだよ」

そういえば、いつから京治は私のことを「姉さん」ではなく「なまえ」と呼ぶようになったのだろう。彼はもうずっと前から私を「姉さん」とは呼ばなくなっていた。もっと、早く気付くべきだった。

「好きだよ、姉さん」

京治の熱っぽい視線が私に注がれる。私は目を閉じた。もう、すべてを京治にゆだねよう。京治はいとおしそうに私の額に口づけた。