猫を浴槽に浸した事がある。


小学一年生くらいの時だ。どこでどう手に入れたのかもうよく覚えていない。ともかく、野良猫を手に入れた。薄い縞の入った猫だったと思う。薄汚れていた。それは確かだ。

洗ってあげよう。

どちらが言い出したのだか、それもあやふやだ。

私達は、はりきって、自宅のバスルームに猫を離した。浴槽に栓をし、浅くお湯を溜めた。

ボディーソープを泡だて、猫の背中に擦りつける。

当然、じっとしている筈が無い。

人間の子供の玩具にされるという、身の危険を感じ取った猫は浴槽の中で、鳴き声をあげ、飛び跳ねた。

辺りにボディーソープの泡が飛び散り、猫の身体についていた泥も飛び散り、浴室は惨憺たる有り様となった。

私達も、泥水を顔に被り、慌てて、猫を外へ逃がした。

仕事から帰った母がその惨状を見て、絶句した時の顔といったらなかった。

何せ、子供は兄妹揃って泥と泡まみれになり、ケロリとした顔で、リビングのソファーでくつろいでいたのだから。

激昂した母に急きたてられる様にして、2人、服を脱がされ、清潔に磨かれた浴槽に押し込められた。

先刻まで、猫のいた浴槽に。

しっかり洗って綺麗になるまで出て来ちゃ駄目よ。

母は言った。

私達はお互いの身体を洗いあいっこし、しげしげと自分達の身体の造りの違いを見つけては、笑い合った。

叱られてひどく落ち込んでいた筈なのに、それは楽しい思い出として残っている。

「お兄ちゃん。あの猫、飼いたかったね」

そうだね、と当然言ってくれるであろうと思っていた兄が首を横に振った事に、私は仰天した。

兄は何かにつけ、私には寛容だと決まっていたからだ。

「なまえ。お兄ちゃんはもう止めよう」

「やめる?」

兄の一言に、私は途端に不安になった。

あの頃の私は、遊びにしろ、何にしろ、兄に心酔して真似ばかりしていたし、そんな兄が大好きだった。
そんな兄が、私の兄をやめると言う。

6年生きてきた内、ベスト3に入る非常事態だ。

「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃなくなるの?」

「一静だよ」

「いっせい?」

言ってごらん。と促され、私は兄の名前を口にした。

それは不思議な響きだった。

何をしても、やらせても、私は兄に敵わなかった。勉強も。スポーツも。遊びですらも。

自分より秀でる存在を、初めて呼び捨てにした瞬間、幼い私の身体を何かが走った。

「いっせい……」

そんな私を眺めて、兄は満足そうに頷いた。それから優しく言った。

「これからはお兄ちゃんの事、そう呼ぶんだよ」

私はうん、分かった。と言った。誇らしい気持ちだった。兄と対等に並んだかの様な。高揚感に満たされた。

それからどんなに、両親が止めさせようとしても、周囲に窘められても、私は兄の呼び方を変えなかった。

あれは一種の契約だったと思う。

もしくは魔法。

あの瞬間、一静は一静でしかなくなった。

私もそうとしか彼の事を見れなくなったのだから。



「一静」

部屋をノックし、返事を待たずにドアノブを捻る。

ベッドで横たわり、まだ部屋着のままの一静が、視線だけ、こちらへ向けた。

「どうした」

「今日の晩御飯、どうする? パパもママも出張でいないよ」

「作るの面倒くさいから、適当に俺買って来るわ」

「一静の部活終わるの待ってたら、限界を超す」

「出来るだけ早く帰ってくるから」

「嘘」

「嘘じゃねぇよ」

じゃあ、面倒臭いから別々に食べよう。とは一静は言わない。

それを知っていているから、私も駄々を捏ねられる。

「彼氏からメール来た。ご飯奢ってくれるって」

「例の大学生?」

「うん」

「……お前、男の趣味悪いな」

「一静に言われたくない」

「夕飯は家族と食べましょう。松川家の家訓」

「……。初めて聞いたけど」

「今作った」

「一静も彼女と食べてくれば?」

「だから、家訓だって」

しようがねぇな。嘆息を零し、一静はのろのろと身を起こす。

癖のある髪を掻いて、じゃあ、こうしようと言った。

「今日、俺の部活終わったら、そのままファミレスでも行こう」

「ケーキ付き?」

「お好きにどうぞ」

ダイエットはどうなった? という声には耳を貸さず、家を出る。

一静と私は2つ違い。彼は青葉城西というバレーの強豪校に通い、私は、女子高に通っている。

バスの中で、友人のさっちゃんに出会い、おはようと挨拶を交わした。

開口一番に聞かれる。

「どうなった? あの大学生とは」

「うーん。ご飯に誘われた」

「行くの?」

「行かない」

一静と食べる。家訓だから。と言うと、さっちゃんは不思議そうな顔をした。

「誰。一静って」

「お兄ちゃん」

「名前で呼んでるんだ」

外国の家族みたいだね。

さっちゃんの言葉に、私は笑った。

一静は家族だ。間違いない。

彼女の健やかな発想が微笑ましく、同時に、おかしく感じた。

女子高に入って、頻繁に男の人を紹介されるようになった。

さっちゃん曰く、花の女子高生がフリーなのは、青春を無駄にしているのだそうだ。

例の大学生は文学部で、私はその人が、嫌いでもなければ、好きでもなかった。

悪い人ではない。と思う。

手を繋ぐ度、キスをする度、

なまえは何も知らないんだね。

そう口にする癖はあるけれども。可愛いものだ。

一静に比べれば、大抵の男の人は皆可愛い。

私がそう思っている事を知ったら、あの人は、一体どんな表情をするのだろう。

「どこまでいった?」

さっちゃんが興味深そうに尋ねる。

女の子だって、男の子と大差ない。

「もう、済ませた?」

バスが校門前で停止した。身体が揺れて、釣り輪を握る手に力が入る。

曖昧に笑ってその場は誤魔化した。


私に恋人が出来るより早く、一静に恋人が出来た。

一静の腕に自分の腕をからめて、彼女は大木に群生する蔓のように、身体を支えていた。一静が別れる、なんて言ったら、さめざめと泣きだすような人だろうなと思い、実際、その通りだった。

退散するより早く、向こうがこちらに気付き、「誰?」という不信感を込めた笑い声と、「
妹」簡潔に答える声が続いた。

「可愛いね。全然似てないー」

安堵の滲んだ声音で、ああ、この人はあまり賢くない。私は彼女に対して、評価を下した。


青葉城西のグラウンドは広い。

他校の制服を着た私は当然目を引き、振りきるように体育館へ向かった。

ボールを打つ音が次第に近くなり、熱気を逃がす様に開け放たれた体育館の入り口で、目的の人物を見かけた。

「一静」

ひとりごちた言葉は意外にも彼に届いた様だ。

タオルを肩にかけた一静は振り返り、私を認めると、笑った。

誰? 一緒にドリンクを飲んでいたチームメイトの一人が尋ね、「妹」一静が答える。

へぇ、と言って、その人は私を見つめると、目を細め、バレーシューズのまま、近づいて来た。

私はおろか一静ですら、予測のつかない素早さだった。

「こんにちは。名前何て言うの?」

その人は、私を真っ直ぐ見て、そう尋ねた。

私だけを、見て。

私は一静を見た。

彼は口を閉ざしたままだ。

「……なまえです」

「なまえちゃん。俺、花巻貴大。よろしくネ」

アイツに聞いても、と花巻さんは続けた。

「絶対、君の名前教えてくれなかったんだよね。妹、としか言わないし」

覚えた。なまえちゃんね。

花巻さんは私の手を掴むと、一静の所まで、引っ張って行った。

「はい。なまえちゃん。中で見学してもらえば?」

外で待たせておくより安全デショ?

花巻さんの手は大きい。

多分、一静とそんなに変わらないな、とぼんやり思う。

「……もう少しで終わるから」

待ってて。

私に向かってそう言った一静を一瞥して、花巻さんは、愉しげに、口角を持ち上げた。



「どう思う?」

ファミレスの帰り路、不意に口を開いた一静は私に尋ねた。

主語が無い。

「花巻の事」

「なんで?」

「お前、頭悪い奴嫌いだろ」

似合わない制服のタイを一静は緩め、私はそれを眺めた。

「花巻さんは」

私は言葉を選ぶ。

「頭、悪くないと思うけど」

「だからだよ」

明日は雨、と天気予報のお姉さんが言っていたのを思い出す。

星が無い。

家の錠が外れる小さな音。

一静は笑っていなかった。


家に帰って、真っ先に、一静は浴槽にお湯を溜めた。

Yシャツのボタンを外し、私に一言。

「一緒に入るよ」

声をかけた。

浴槽の中で一静の身体を眺めたら、全てが大人の人のものになっていて、私は思わず口を突いて出た言葉を止められなかった。

「昔も一緒に入ったね」

「……」

「野良猫を洗おうとしたの覚えてる?」

「なまえが言ったんだよ」

「え?」

「猫さんを綺麗にしてあげよう、お兄ちゃんって」

「……」

私は花巻さんの上がった口角を思い出した。成程、彼は教えてくれたのだ。とても賢いやり方で。

「お兄ちゃん」

「……」

私は一静を久方ぶりにそう呼んだ。

次の瞬間、私の頭は引き寄せられ、乱暴に、キスをされていた。

全体を揉みほぐしていた指が胸の突端を摘む。

口腔内のほとんどを舌で侵食された頃、足首を持ち上げられた。

水面上で、大きく開かれた股は一静から丸見えで、私は自然に足を閉じようとする。

「……止めて欲しい?」

そんな私を観察し、一静が、尋ねた。

今頃私は彼が怖くなり、それ以上に、自分が怖くなっていた。

なにせ、全てが、私の計った通りに叶っていた。

私は魔法の言葉をかつて一静から教えてもらった。それは何をすれば彼が喜び、嫌がるのかを同時に私に学ばせた。

「お兄ちゃん」

笑うのを堪えて、そう彼の事を呼ぶと、彼は露骨に表情を歪めて、一切の手加減を止めた。

「お前、あの時の猫みたい」

本当にそうだと、宙を見上げて、思った。