衝動的に髪を染めた。あの瞳のような深紅色と呼べるほど綺麗には染まらず、薄暗く赤みがかった程度にしか色味がつかなかったのでなけなしのバイト代をはたいても美容院に行けば良かったと少しだけ後悔をした。が、これはこれで良い色かもしれない。
 染色で少し傷んでしまった髪の毛は、数年前に比べると随分と短い。あの頃自分がどんな服を着てどんな風にあの家で過ごしていたか、正直もうよく覚えていなかった。けれど、あのアイスクリームの味だけはいつまで経っても忘れらずにいる。
 きっかけを作ったのは彼で、気付かないフリをしたのは私だった。結局それが長続きしなくて逃げるようにあの家を飛び出したのは20歳の時のこと。忘れられると思っていたのに忘れられないままあっという間に3年の月日が経ってしまった。あの頃高校生だった彼は、大学生になったのだろうか。



「うわ、どうしたのその髪色」
「なんとなく染めたくなって」
「大学院で研究しすぎて疲れてるんじゃないの?」
「別にそんなんじゃないよ」

 カラン、と透明なグラスの中で氷が澄んだ音を鳴らした。季節は秋を迎えたはずなのに、まだまだ夏を引きずっている。目の前に座っている友人は夏のボーナスで買ったのだという煌びやかなネックレスを触りながら、妖艶に微笑んだ。同性の私から見ても、彼女は美しい。だらしのない恰好をしている私と大企業の受付嬢らしく着飾っている彼女が並んでいる様子は、傍から見れば不思議だろうなとぼんやり考える。そんな私の額を、桃色に塗られた指先がはじく。彼女に焦点を合わすと、大きな瞳が恨めしそうにこちらを見つめいていた。

「久しぶりにご飯行くんだからちゃんとお洒落してきてよ」
「ごめんごめん、服買いに行く時間もお金もなかったんだもん」
「まぁなまえのそういう飾りっ気がないとこ好きなんだけどね」

 学生時代も彼女はその言葉をよく口にした。いつも華やかな女の子や男の子に囲まれていた彼女と自然と行動を共にするようになったのはあの家を出て学生寮に入ってからだったような気がする。意外にも彼女は学生寮で地味に堅実に真面目に生活をしていて、彼女の人見知りをしない性格もあって気付けばよく話をするようになっていた。勉強している分野は違ったけれどよく一緒に図書館にも通ったりした。最初はこんな綺麗な女の子は住む世界が違うと思っていたけれど、人は見かけによらない。大学を卒業した今でも頻繁に連絡を取り合うのは彼女くらいだった。
 そんな彼女と、今夜は数か月ぶりに食事に行くのだが、私がこんな恰好をしていては入れるお店は限られてしまう。唇を尖らせてしまうのは仕方ない。

「この近くに美味しそうな大衆酒場見つけたの。今日はそこ行こうよ」
「うん。ビール一杯くらいならお詫びにご馳走するよ」
「私に奢る余裕があるなら服とか買いなよね」

 行こう、と華奢な腕が左腕に巻き付いた。彼女からほんのりと香るバニラの匂いは、昨日も思い出したばかりのあの夜のことを彷彿させた。


 入店当初はまだお店が開いたばかりということもあって私達含めほんの数人しかいなかったけれど、今ではすっかり満席になってしまっている。18時から飲み始めて3時間、私も彼女も大分いい感じになってきていた。
 バーで出される色鮮やかなカクテルやワインが似合いそうな彼女だけれど、テーブルには新しく店員が持ってきた徳利が置かれていた。相変わらず、お酒が強い。

「いい飲みっぷりだなー。良かったら一緒にどう?」

 彼女の飲みっぷりは見ていて気持ちが良い。と、たった今自分が考えていたことを口に出されたもんだからアルコールで重くなりはじめていた瞼がぱちりと開く。声がした方へ視線を向けると、隣の席に座っていたカップルと入れ替わりに入ってきた男がテーブルに肘をついてこちらを見ていた。
 顎髭がよく似合ってはいるが、恐らく年下だろう。おしぼりや取り皿は二つ用意されているがどうやら彼のお相手はまだ到着していないようだった。元々軟派な男なのか連れが来るまでの暇つぶしなのか分からない。大抵はこういう相手を上手くかわす彼女だが、今はお酒の影響力もあり、少しならいいよ、と笑った。

「こんな美女と飲めるなんてラッキー。時間にマメな連れが珍しく遅刻してさ」
「へぇ、そうなの。どんなお友達なの?それとも彼女?」
「はっはっは。それは来てからのお楽しみだな」

 黒目の大きい瞳が細められた。構える態度や雰囲気は私達の年齢に近いものを感じるけれど、笑ったその顔は、随分と可愛らしく年下らしさを醸し出していた。

 太刀川、と名乗ったそんな彼がビールを口にして笑って数十分経った今、どうやらお待ちかねの相手がようやく現れたらしい。入口で待ち合わせた太刀川君の姿を探して視線を動かすその姿に、私は絶句する。体が急激に緊張感に襲われ、こっちこっち、と手招きする太刀川君の手を咄嗟に掴んでしまった。

「急にどうしたの。積極的な子嫌いじゃないけど」
「あ、いや……ちょっと酔ったかも、私、トイレに、」
「大丈夫?付き添おうか?」
「遅れてすまなかった。…どうして、一緒にいる?」

 逃げるように席を立ち上がった瞬間、私の目の前に懐かしい人物が立ちふさがる。ほんの数センチだけ私より身長は高いけれど目線はほとんど変わらない。だからきっと顔を上げれば、あの赤い瞳と目が合ってしまう。ぼやける視界に入るテーブルの木目を数えることで、私はなんとか正気を保とうとした。

「そりゃ風間さんが遅刻するから」
「太刀川、お前に訊いてるんじゃない。俺はなまえに訊いているんだ」

 久しぶりに名前を呼ばれたというのにごく自然に彼の声は自分の中に入り込んだ。私の方が歳上だけれど、名字で呼び合うのはよそよそしい。同じ家に住むのだから名前で呼び合おうと提案したのは、私と同じく家族を失ったばかりの、会ったこともない遠い遠い親戚の男の子だった。そう言われた時、私は今と同じように緊張して何も喋れなかったんだっけ。彼は今と同じように何ともない顔をしていた気がする。

「風間さんと知り合い?」
「なまえの知り合い?」

 二人の声が重なった。項垂れた頭を持ち上げれば、二人ともが目を丸くして私を見つめていた。

「あ……えっと、その、簡潔に言えば、おとうと、かな」

 容姿は全然似てない。共通しているとしたら、一部分が赤いってとこくらいだ。疑うような視線が痛い。誤魔化すように笑って、私は彼を押し退けトイレを目指した。



「姉さん」
「っ」
「……自分でそうだと口にしておきながら、なぜそんな顔をする」

 あまりこもり過ぎていては心配をかけてしまう。でも、席に戻りにくい。そんな二つの気持ちがせめぎ合うこと十数分。逃げていても仕方がない、今もなおこんな気持ちでいるのは私だけかもしれない。いざという時は、本当にアルコールに逃げてしまおう。そう決意を固めてトイレから出れば、壁に背を預け腕組みをしていた彼が私を待ち伏せていた。
 鏡がないから、彼が言うそんな顔がどんな顔か分からない。少なくとも、笑顔ではないだろう。

「家族だと思ってくれていい、と両親は確かに言ったが俺は弟になったつもりはない」
「初対面の人や食事を楽しんでいる友人に、数年前に近界民の襲撃で家も家族も失いました。成人してはいないけど大学生だから自力で生きていけるだろうと見放された私を、息子を一人失ったばかりの遠い親戚の方が温かく受け入れてくれました。その方のもう一人の息子が君で、一年間くらい一緒に暮らしてました。って説明したら良かったの?そんな話、出来るわけないじゃん。簡潔に言えば弟っていうのはあながち間違いじゃないと思ったんだけど」
「同じことを言わせるな、俺は弟じゃない」

 冷やしたはずの頭に、一瞬で熱がのぼる。自分が孤児であったことは誰にも話したことがなかった。それに、蒼也の存在のことも。
 だったらあの場で何と説明すれば良かったというのだ。口の中で声にならない言葉がうごめく。家族でも恋人でも友達でもないじゃないか。そう、私達はなんでもない。あの頃の私はどうやって彼と向き合っていたのか、思い出せもしない。
 とりあえず、雰囲気からしてこの場にとどまっていても良い方向へ進むとは思えない。人の邪魔にもなるし、席に戻れば流石にあの二人の前では彼も今みたいな話を繰り広げることはないだろう。上手く回らない頭で必死に考えて足を一歩を踏み出す。が、手首を掴まれ、体がその場に留まった。

「都合が悪くなったら逃げる、変わってないなそういうとこ」
「っ!…蒼也の年下のくせにその何でも分かったような口調も変わってないね」
「不安になったら喧嘩腰になるのもそうだな」

 小さな唇が、歪む。

「何年経とうが結局俺はお前を姉さんと呼ぶ気にはなれなかった」

 手首を掴まれてはいたけれど、抵抗しようと思えば出来たはずだった。だけど、あの時と同じように私はただ力強く目を閉じただけだった。重なった唇は、あの時のように甘くはない。
 瞼を上げれば、あの赤い瞳が真っ直ぐに私を見つめている。もう逃げられない、そう強く感じた。

「酒の味がする」

 今でも高校生だと言われれば信じられる外見をしている蒼也の口から酒という単語がこぼれるのは不思議な感覚だった。毎回絶対に年齢確認されてるんじゃないだろうか、と考えると肩の力が抜けた。

「今、付き合っている男は」
「……いないよ、勉強で忙しいの」
「そうか。それは好都合だ」
「は?」
「太刀川のお陰で探す手間も省けたし、お前に男がいなければ奪う手間も省けた。俺は、子どもでも学生でもない身分になったら迎えに行くと、お前が家を出たあの日からそう決めていた」

 そう言って、自信あり気に微笑む蒼也。肩だけでなく足の力も抜けてしまうのを感じた。ずるりとその場にへたり込む私から一秒たりとも蒼也は目を離さない。
 迎えに行くと決めていたって、馬鹿じゃないの。そう言ってやりたかったのに声にならず、代わりに涙が床に落ちる。

「俺が大学を卒業したら、姉としてではなく恋人として、家族にならないか」
「居酒屋のトイレの前でプロポーズする馬鹿がどこにいるの…っ」
「すぐ言葉にしないと逃げられるってことを学習したからな」

 私と視線を合わすように蒼也も腰を屈める。彼が吐き出した言葉で、あの夜、私が本当は寝たふりをしていたことに気付いていたのだと感じた。
 リビングでお揃いのアイスクリームを食べながらソファに並んでテレビを見ていたあの夜、お風呂に入ると蒼也が腰を上げたのをいいことに私はソファに寝転んだ。幼い頃何度も見た小さなネズミが大冒険する映画を、ぼんやりと眺めていたらいつの間にか意識は遠のいていた。そのまま朝になってくれれば良かった。けれどふわりと香るシャンプーの匂いで目は開かないものの、意識は暗闇の中戻ってこようとしていた。そんな時だった、温かみのある柔らかな唇が重なったのは。

 目を開けちゃ駄目だ。声を上げても駄目。とにかく、反応しちゃ駄目。急激に呼び戻された意識の中、必死に考えた。
 私を見る視線が、他の人と違うことには薄々気付いてはいた。きっとそれは私も彼を見る目が違ったから。ただあの頃は、同じ屋根の下で歳が近い男の子と暮らしたからそういう風に意識してしまったのだと思っていた。そしてなにより、私を引き取ってくれた二人に、同居している男の子に手を出してしまうような節操のない子だと思われたくなかった。
 だから、蒼也の私への恋心が確信に変わったあの瞬間から、すべてを忘れようと決心した。お互い何もなければその内どちらかに恋人が出来るだろうと思った。けど、何ヶ月経っても蒼也の私を見る目は変わらなかったし、私は私で、蒼也に触れたくなる気持ちを抑えるのが限界だった。そして、20歳になったのをきっかけにあの家を出た。一緒にいなければ忘れられる。忘れてもらえる。時間が解決してくれる。そんなの、嘘だった。ことあるごとにあのキスを思い出して、まるで呪いのように忘れることを許されなかった。

「なまえ、」

 優しく、名前を呼ばれる。みっともなく歪んだ私の顔を、決して大きくはない掌が撫でる。

「蒼也、もういっかい…」
「…一回だけだ。続きは帰ってからにしよう」

 縋るようにその掌を掴めば、あの赤い瞳がゆっくりと閉じられた。あの日甘ったるい味と一緒に運び込まれたのは、毒だったのかもしれない。全身に蔓延るそれから逃れる術を知らないし、知りたくもない。忘れられなかったのではなく、本当はあの舌先に残った甘い夏の夜を恋しく思いながら、彼がもう一度私の目の前に現れてくれることを、ずっと期待していたのだ。
 もう一度唇が重なったことにより、私の脳髄は甘く痺れた。