天童覚のはなし


 二人はどうにも歪だった。ぱっと見は似ていなくて、実のところよく似ている。無関心のふりをした関心が鋭く向かい合い言葉少ないまま傷をつけあう、まさに山嵐のジレンマという言葉がぴったりの関係だった。まあ動物で例えるなら鷹と虎の、爪と牙の戦いのほうがしっくりくるような二人だけど。
 ともかくそれは端から見ていればひどく滑稽でもあったけど、俺は最後まで本人たちにそれを告げなかったのだ。なにせそんな歪な二人の関係を俺はたいそう気に入っているのだから。じゃないと、わざわざ自分から噛みつかれにはいかないよね。そういうこと。


 彼女を初めて見たのは二年に上がりたての頃、昼休みたまたま覗いた美術室。人を殺しそうな顔つきでキャンバスに絵筆をのせている姿だった。油絵の具の特徴的なにおいのなか、やけに力強く突きつけるような気迫と真っ直ぐ伸びた背筋に、なんとなく既視感を感じてその場から離れずにいると、ふとこちらを向いた彼女と目があった。獣に似た獰猛さを理性の光が覆っているのを見た瞬間、ぞくりとする。素直に言えば、興奮した。
「なにか」
 女の子にしては低めの落ち着いた声がして、彼女の口から出てきたのだと一拍遅れて気付く。その顔に、声に、やはりどこかでと考えを巡らせたその時。美術準備室から首だけ覗かせた教師が声をかける。
「牛島さーん、そろそろ午後の授業始まるから片付けてね」
「はい」
 落ち着いた声で返事をしたその人は、もう一度俺を見て小さく首を傾げながら背を向けた。
 牛島、うしじまさん。その名字で思い浮かぶ人間なんて一人しかいないわけで。ああなるほど、確かにどこか似ている。そうかそうか。
 ようやく納得して美術室から離れることができた。鼻の奥に油絵の具のにおいがいつまでもこびりついている。


「姉だ」
 端的に迷いなく答えたその様子に、ああやっぱり似てるなあとしみじみ思った。見た目はそこまでじゃあない――むしろ若利くんに瓜二つの女の子だったらある意味すごい――けど、立ち振舞いや醸し出す雰囲気が、同じ血でつくられているとよく分かる。
「オネーサンがいるなんて知らなかった」
「言っていないからな」
 まあ確かにそうだ。聞いてもいない。
「試合とか、応援に来たことある?」
「さあ」
 知らない、と淡々と答えるその様子に別段嘘はみられない。いつもの若利くん。でも。
「今度オネーサンとお話してみてもいい?」
 首を傾げてそう言った瞬間、真っ黒でいつも揺るぎない若利くんの目を形容しがたい色がよぎる。素直で純粋で真っ直ぐで、分かりやすい。けど俺は知らないふりをする。
「好きにすればいい。俺に断る必要はないだろう」
「ふーん」
 口から出たのは当たり障りのないいつもどおりの答えだった。


「オネーサン」
 数日後、美術室でほんとうに声を掛けてみた。相変わらず人を殺しそうな顔で色を重ねていた彼女は手を止め、ゆっくりと振り返る。
「きみのような弟を持った覚えはないけど」
 なるほどこの返しかたは確かに血筋のようだ。
「俺、若利くんのマブダチなんだ」
 唐突に出した実の弟の名に、一瞬、その真っ黒な瞳に色がさす。ああ、こういうところもよく似ている。表情の変化はあまり多くないし瞳はただひたすら真っ直ぐではあるけれど。だからこそすこしでも揺らげばよく分かる。
「オネーサンと話してみたいなって思ってさ」
 相変わらず油絵の具のにおいが充満する空間、ちゃっかりとそんなことを告げた俺を背筋を伸ばし見据えている。
「なにもおもしろい話は出来ないけど」
「別にいーよ」
「そう」
 それだけ答え、彼女は背を向けて再び絵筆を動かし始めた。これは許されたと捉えていいのか。自分のいいように解釈してひょいと美術室に踏み込み、真後ろに立つと改めてそのキャンバスを見る。抽象的すぎて何を描いているのかはちっとも分からない。ただ、ひたむきな力強さを感じた。御託をねじ伏せてしまうような圧倒的なもの。
「テーマとかタイトルは?」
 美術の知識なんてない。塗りたくられた色は決して人のかたちをしていない。聞いたって分からないだろうが、本能がなんとなくの直感を呼ぶ。
 ほんの少しだけ首を向けた彼女の瞳はぎらぎらと獣のように輝いていて、それはそれはうつくしい。誰かさんの跳ぶ姿にどこか似ている。
「そんなものはないよ」
「なるほどねえ」
 確かにそう言えば収まりはいいけれど。
「最愛の弟、とかじゃあないんだ」
 再び手を止めて振り返り、今度こそこちらを見据えたその顔は想像よりもずっと無表情だった。
「おこがましいね」
 あれは紙の上にあらわせられるようなものじゃあないもの。
「……なるほど」
 考えていたよりもずっとずっと根深かった。それが妙に嬉しくてつい笑いを零してしまえば、絵筆を置いた彼女が改めて身体ごとこちらを向いた。ようやくちゃんと、俺を認めてくれたらしい。
「きみの名前は」
「天童覚だよ」
 よろしくね、と告げれば彼女はほんとうに薄く、かすかに笑う。
 若利くんもこんな顔をするのだろうかと、そんなことを考えた。


 それ以来、絵を描く彼女と時々話をした。大概はとりとめのない話題だったけど、稀にバレー部の様子を交えてみれば彼女の瞳はうっすらと色を変える。それが面白くて楽しくて哀れで、すっかり気に入ってしまった。
「オネーサンはさ、バレーやんないの?」
「やらない」
 即答したその答えは迷いがない。
「なんで?」
「さあ」
 自分のことなのに他人事のようにそう言って、キャンバスに色を塗り続ける。
 基本的に彼女と若利くんはよく似ていた。だけどもちろん明確な違いもあって、こういった曖昧な物言いは彼女にしかないものだった。
「じゃあさ、バレーの試合なんで見に来ないの?」
 何色と形容したらいいか分からない、相変わらず微妙な色を重ねていた筆先が止まった。ゆっくりとこちらを見る彼女の視線は少しばかり非難じみている。
「聞いてどうするの」
「べつにー」
 そう、別にどうでもいい。ただこの問いかけにどんな反応をするのかと思っただけ。
 悪びれもしない俺をしばし見つめたあと、ちいさく息を吐いた。こうして過ごしてみて分かったのは、彼女は若利くんよりも感情的でありわりと普通の女の子だということ。まあこの場合の「普通」は比較対象が若利くんだから、世間一般でいえば大いにずれてはいる。俺もひとのことを言えたもんじゃあないけど。
「泣かないんだ」
 ぽつんと落とされた言葉が唐突すぎてうまく理解できなかった。目を瞬かせて彼女を見ると、絵筆を止めたままこちらをじっと見つめ返している。
「あのこ、泣かないんだよ」
 遅ればせながら誰のことを指しているのか分かった。
「ちいさい頃から、勝っても負けても。なんにでもそうだけど、バレーに関しては特に」
 絵筆が再び動き出す。パレットのうえで色が混じっていく。
「たぶん、終わりがないんだろうね。勝っても負けても、あのこにとってのバレーは続いていく。ひとつの勝ち負けなんかじゃ揺るがないのを知っているから」
 すうと細めた目は絵の具に向いていたけど、その先に見ているのは描きかけの絵ではない。
「怖いだけだよ。いつか来る終わりを、あのこが知ってしまうことが。訪れた終わりを見たあのこが泣く姿を見てしまうことが。バレーに限ったことじゃないけど、あのこはまだ終わりを知らないだろうから」
 ただ勝つだけならいい、ただ負けるだけならいい。そんなの何十回何百回と経験してきたしこれからも経験していく。彼女が恐れているのはいつか必ず訪れる一回。最後の一回。十年後、二十年後かもしれないそれは、もしかしたら次の大会かもしれないし今日明日の練習かもしれない。本人の意思かもしれないしそぐわない怪我の可能性もゼロじゃない。ただそうやって終わりを迎えたその姿を自らの目で見てしまうことが、ただ怖いという。
 そしてそれはバレーだけに限った話でもない。
 見てしまったらきっとぜんぶ、終わって、変わってしまうから。
「随分傲慢だねえ」
 素直な感想だった。
 生まれた時からそばにいて、誰よりも強く美しく輝く瞬間を知りそれを見続けることができるというのに。勝手に終わりを想像して怖れて目を逸らすなんて。俺なら勿体なくて出来やしない。
 その言葉に彼女はぱちんと瞬き、それからじわじわと口元をゆるめ、ついには声をあげ笑いだした。
「きみは、あの子のこと、好きなんだねえ」
「そりゃあマブダチだからさ」
「そう」
 おかしそうに破顔するそのさまは初めて見るもので、柄にもなくちょっと感動した。だから。
「なまえちゃん」
 半分の出来心と半分のおせっかいで、こんなことを言ってみた。
「俺と付き合わない?」


 その日の夜、若利くんの部屋に突撃して告げた。
「なまえちゃんと付き合うことにしたよ」
 若利くんは一瞬瞠目して。けどすぐにいつもの調子で「そうか」と言うだけで、案の定泣かなかった。


 一つ年上の彼女は、三月になりあっさりと卒業していった。しかも海外にいるお父さんのもとに行くのだという。
「めちゃくちゃ遠距離じゃん」
「まあ、電話もメールも繋がるし」
「俺を捨てないでねー」
 冗談めかした言葉に、ここ数ヵ月で以前より笑うようになった彼女は楽しそうに答えた。
「それはこちらのセリフだよ」
 花をつけ、証書の筒を持ち、最後の制服姿で去っていく彼女を見ても若利くんはやはり泣かなかった。「別にこれが今生の別れではないだろう」と、いつもの顔と口調でただ見つめるだけで。その横顔はあの日キャンバスの前で傲慢な恐れを口にした彼女とよく似ていて、やはり二人は姉弟なのだと思った。
 彼女の描いたあの絵は、何の賞にもひっかからなかったらしい。まあ当然だ。


 それから何年も経つ。俺はいつの間にか大人になり、社会人となってあくせくと働くようになった。若利くんは言わずもがなバレーを続けトップ選手として活躍している。残念ながら情熱大陸にはまだ出ていない。気長に待ってるけどね。
 彼女とは時々連絡を取った。時差の関係もあってほんとうに稀だったし、果たしてこれはお付き合いと呼べるのだろうかとも思ったけど、お互い別れ話も口にしないし何も変わらず、ほんとうにそのままだった。
 そう、全く、そのまんま。どいつもこいつも気長だと思う。もちろん自分も含めてなんだけど。

「なまえちゃーん、久しぶりー」
 今年も定禅寺通りの並木がイルミネーションで飾られる季節になった。クリスマスにも年越しにも微妙に早い十二月、この時期はなんだか懐古的な気持ちになる。そんななか近付いてくる待ち合わせ相手に手を振り声をかけた。数年ぶりでもすぐに分かる、ぴんと伸びた背筋は変わることがない。
「こんばんは、覚くん」
「こんばんは」
 最後に会った時と変わらない、ひっそりとした笑みを浮かべ現れた彼女の鼻先は子どものように赤かった。うーん、かわいい。
「寒いなかごめんね」
「ぜーんぜん」
 むしろ謝る彼女のほうが寒そうだ。場所を移動するべく早々に「じゃあ行こっか」と歩き出せば、おとなしく着いてくる。
「いつ日本に帰ってきたの?」
「昨日。都内に用があって、仙台にはさっき着いたばかり」
 だから牛島の家にはまだ顔を出していないんだ、と静かにそう言った。そのわりに荷物は小さなボストンバッグひとつで、相変わらず荷物をもたないひとだなあと妙に感心する。年頃の女の子は帰省や旅行のたびにキャリーバッグをゴロゴロ転がすものという偏見があったのだけど。
「帰ってくること、若利くんには連絡した?」
「いや」
 苦笑じみた顔をして彼女は白い息を吐く。
「今どうしているかも、どこに住んでいるかもしらない」
「へえ」
「覚くんは連絡とってるんでしょ」
 薄笑いのまま彼女の瞳はイルミネーションのひかりを浴びてきらきらと輝く。おどろくほどきれいだ。
「まーね、親友だし」
「親友」
 その言葉に小さく、至極おかしそうに目を細めた。昔見た、キャンバスに向かう横顔や卒業証書を片手に去っていく姿を思い出す。表情はどれも全然違うのに、彼女はいつだって若利くんをそんな目で見ていた。たぶん本人も気付いていないのだろうし、大概は二人が向けあう鋭さの裏側に隠れているのだけど。
「若利くんも元気だよ」
「そう」
「バレーも続けてるし」
「うん」
「ぜんぜん、変わらない」
 その言葉に、一瞬目を閉じ、それからゆっくりと息を吐く。
「そうかあ」
 その本心を暴きたてる心算はない。ないのだけど。
「なまえちゃん」
 高校二年のあの日のようだ。あれも何の変哲もない日で、ずいぶん唐突だねと彼女はちいさく笑ったのだ。
「結婚しよっか」


 アパートに帰り鍵を開ける。扉の向こうから暖房であたためられた熱気がむわりと襲いかかってきて、身体がかなり冷えていたことに気づかされた。
「ただいまー」
 煌々とついた明かりのなか、ワンルームの狭い部屋ではすぐにその様子が見える。
「おかえり」
 真っ直ぐに伸びた背筋と真っ直ぐな視線。なんの揺るぎもないそれは、ほんとうにほんとうになにも変わることがない。だからこそ高校からずうっと、俺は彼のマブダチだと嘯くことができるのだ。
「遅かったな」
「うん」
 忙しい身だというのに遠征やら用事やらでこちらに来る際に都合があえば、こうして会ったりすることもあった。俺のほうに用事があるからと、合鍵を渡し家で待たせることも一度や二度ではない。けど今日はちょっと違う。
「若利くん」
 部屋で待っていた彼をコートも脱がず立ったまま見下ろす。いつだかの日、あのこは泣かないんだよと言っていた彼女の姿を思い出した。
「なまえちゃんに会ってきたよ」
 僅かに目をみはるその顔はとてもレアなんだけど、堪能する余裕はこちらにもない。
「今日は実家に帰らないで駅前のビジネスホテルに泊まるんだって。ちゃんと送ってきたから安心して」
 安心も何もないんだけど。ああ長かった、今までほんとうに長かったと思う。
 ご飯を食べたあと彼女を送り届けたホテルの名をごく自然に告げながらも今までのことが頭をよぎっていく。懐古主義もいいところだ。
「ねえ若利くん」
 こちらを真っ直ぐに見つめるその瞳は、やはり彼女とよく似ている。キャンバスに向ける、激情と執着。長い付き合いの俺には分かる。若利くんはバレーにはそんな目を向けない。俺にも他の人間にも向けない。だけどひとつだけ、ずうっとひとりにだけ。
「プロポーズしてきた」
「……は?」
 低い低い声。部屋の暖かな空気が一瞬で凍りつく。突き刺さるようなその音に口元が緩むのを押さえられない。
「なまえちゃんと結婚しようと思って」


 高校時代、彼女と出会ったその時に描いていたあの絵。描きあげたのは卒業の少し前のころで、結局最後まで何が描いてあって何を表現しているのかさっぱり分からないような代物だったけど。完成したそれを並んで見つめながら彼女はいつもどおり淡々と言う。
「以前、覚くんはこの絵を『最愛の弟』と形容したね」
「あーうん。そんなこと言ったっけね」
 実際のところ、この頃には少し見解が違っていた。キャンバスに描かれた絵は若利くんではなく、違うものだと気付いたのだ。これは。
「今、これに題名をつけるなら何にする?」
「んー」
 黒々とした瞳はおなじ。激情と執着。これは愛する弟などではなく、その男を見つめる彼女の鋭い爪と牙を描いたものだ。だから。
「自画像」
 俺の端的なその言葉に彼女は瞠目したあと、ゆっくりと小さく笑ったのだった。
「いいね」
 その絵はなんの賞にも引っ掛からず評価すらされず、美術室の片隅に放置されたまま彼女も俺たちも卒業していった。今はどうなっているのか、知るよしもない。


 そんなこともあったなと、しみじみ思い返す。俺しかいなくなった部屋はまた暖かさを取り戻していて、ようやくコートを脱ぎ荷をおろした。
 親友は今頃きっと、夜の街を走って向かっているに違いない。あの男はタクシーで駆けつけるなんて考えの及ばないタイプなのだ。それでも今、初めて見えてしまった「終わり」に、きっと心底焦っていることだろう。
 部屋の入り口に立つ俺の横をすり抜け、真っ直ぐに前だけを見つめて、上着と財布をひっ掴み外に飛び出す直前に聞こえた呟き。
「ねえさん」
 二人はどうにも歪だった。似ていなくて、実のところよく似ている。
 それは端から見ていればひどく滑稽でもあったけど、俺はそれを本人たちには告げなかったのだ。なにせそんな歪な二人の関係を気に入っているのだから。じゃないと、わざわざ自分から噛みつかれにはいかないよね。
「長かったなあ」
 あのこは泣かないんだよと零した彼女だって一度たりとも泣かなかった。だけどきっと今日はお互いに泣くのではないだろうか。恐れていた終わりを見て、それから始まる先のことはさすがに俺の預かり知らぬところだ。
 ただこの何年もかけた長く盛大なお膳立てが、大好きな二人へのプレゼントってことで。
 ふと思い出してスマホをひらく。今どきメッセージアプリのひとつも使えない彼女とはメールでのやり取りをしていたのだけど、この時ばかりはそれでよかったと思う。読んだか読んでいないか分からないほうがいいこともあるのだ。彼女宛に素早く一言をうつ。
 前々から思っていたけど、あのひとはどうにも若利くんを神聖化したがる。確かにバレーはすごいし性格も実直で嘘のつけない人間だけど。決して無欲な訳でもなければ無敵な訳でもない。弱いことも痛いことも、したいことも欲しいものも、人並みにちゃあんと存在するのだ。まあ神様かなにかだと思っているのもお互い様なんだろうけど。そしてそれは俺もまたおんなじなんだけど。だから若利くんもなまえちゃんも俺も、何一つ間違っちゃあいないんだ。爪と牙は自分にではなく、他人に向けてこそうつくしい。
「すきだよ」
 本人たちには言わないけど。
 彼女に向けて送信ボタンをタップした。若利くんが着くまでにこれを見るかどうかは分からないけど、俺からの最後のおせっかい。

――あれは噛むからね。

 そして俺も、ようやくちょっとだけ泣けた。