学部は違うけどたまに授業が同じになる、トーマというやつがいる。穏やかで人当たりのよさそうな男だ。友達が多そう。そいつとお昼ご飯を一緒に食べる機会があって偶然、トーマもデスティニーキングダムというゲームが好きで、シリーズ全部持ってることが判明した。
 それから少し、仲良くなった。

「おはよ、トーマ」
「おう、おはようなまえ」
「ねえねえ明日の課題やった?最後の問題わかんないんだけど」
「ああ、あれなー。問一と同じように考えるんだよ」
「えー、そんで?」
「あとは自分で考えな」

 人当たりがよくて面倒見のいいトーマだけど、甘やかしてくることはない。その線引きが絶妙で、ただの友達付き合いにしては優しすぎるトーマのそんな部分を、どうやら私は気に入っているらしい。


 トーマと少し仲良くなったら、会話のいたる所に彼の二人の幼馴染が登場するようになった。1つ下の女の子と、2つ下の男の子。一人っ子だったトーマは昔から、その二人を妹や弟のように思っているそうだ。
「そんなこと言い出すからさ、ほんっと目が離せなくて」
 その「妹」について話すトーマはうんざりした口調でも嬉しそうな顔を隠しもしない。

「仲良いよね。小さい頃からの幼馴染が、こんな年になってもそんなに交流あるって珍しくない?」
「あー、そうなのかもな。でも俺たち、つーか俺が、兄貴みたいな気持ちでほっとけなくてさ。今更会わなくなんのもなんか寂しいし」
「あれ、もしかしてその二人はあんまトーマのことお兄ちゃんとか思ってないの?」
「いやー、あいつの方は結構まだお兄ちゃんみたいだっつって頼ってくれるんだけど。でも、シンは全然だな」
「えっと、いま高3だっけ?まあ、そりゃそうなんじゃない?」
 実の兄弟だってきっとそんなもんだろう。仲が良すぎるくらいだ。昔は可愛かったんだけどな、なんてぼやき始めるトーマを見ていて、ふとあることに思い当たった。
「そういやさ、トーマって現役入学なんだ?私浪人してるから、いっこ上だね」
 なんとなくトーマは落ち着いて見えるから深く考えたことはなかったけど、今高3の子が2つ下ならそういうことになる。なんてことない発言のつもりがトーマは結構驚いたらしい。
「え、なまえ年上だったの?普通にタメかと……でも今更敬語とか、いい、よな?」
「あれ、トーマそういうの気にするタイプ?全然気にしなくていいのに」
 だよなーとトーマは笑った。その顔になんとなくムカついた。
 私の方が年下だったら、私の事も妹みたいに可愛がってくれたのかな、なんてちょっと考えた。くだらない考えだ。比較にもなっていない。それに私、トーマに可愛がられたいわけじゃないし。

 * * *

 ゲーム貸してとか返すとか、ホットケーキ焼くの上手いなら食べさせてとか、課題見せてよとかそのお礼だとか、なんだかそんなことをしているうちに私達は互いの家を行き来するほどに仲良くなった。

 トーマの焼くホットケーキはお店で出てくるみたいに分厚くてふわふわだった。どうやったらこんな風に上手に焼けるのか、喫茶店でバイトしているからといって家でもこんなことが可能なのか、怪しい薬品でも入っているのか。
 そんなくだらないことを考えながらホットケーキをフォークに刺して、目の高さまで持ち上げて食べずにじいっと見ていたら、バターが手首までたれて来た。
 舐めようかどうしようかでもトーマもいるし、あ、とりあえずこれ食べちゃってから拭けばいいかななんて迷っていたら、横からトーマの手が伸びて来た。

「あーもうなにやってんの。ほら」

 彼は手早く私の手からフォークを奪うと皿に戻して、いつの間にか持って来ていたお手拭きで私の手を拭った。仲良くなればなるほどに、トーマは面倒見が良くなって、線引きが甘くなる。
「まったくお前、年上のくせに手がかかるよな」
 あいつみたい、とトーマは言った。これだけ距離が近づけば嫌でもわかることがある。トーマの、その子への気持ちが、「兄妹」をとっくに超えていることとか。指の間まで拭いてくれているトーマの手をぼんやり見つめた。
 ぼーっとしていたらいつの間にか、トーマがあの子にどんな風に優しくするのか想像を始めてしまって、慌てて振り払った。
 なにかから逃げるみたいに思考がぐるぐる回る。回りすぎるとバターになるんだっけ。トーマが拭いそこねた一滴のバターを反対の手で掬いながら、私は昔読んだ絵本へと思考を飛ばした。

 * * *

「付き合おっか、俺ら」
 二人で遊ぶ時期がしばらく続いたあとでトーマがそう言った時、私は例の妹のことは口に出さなかった。私もトーマのこと好きだったんだ、トーマも私が好きってこと?嬉しい、などと必要以上にはしゃいで見せた。別にそれが本心じゃないということはないけれど、どうしてもあの子のことが頭をよぎるから、それがトーマにばれないで欲しいと思っていた。

「ほら、おいで」
 トーマは優しい。付き合い始めてからは余計に優しくなった。デートの時には必ず手を繋いでくれるし、私の準備が遅くても文句も言わない。きちんと恋人らしく甘やかしてくれる。料理もうまいし連絡もマメだし紳士的だし、文句なしに素晴らしい彼氏だ。
 私達はなかなか上手くやっていると思う。トーマはあの子と会う機会を減らしたようで、それこそ本当の兄と妹ぐらいの距離感になったみたいだったし、話題に出すのもそこそこ気を遣ってくれているようだった。
 甘やかされるたびに私が、あの子にもこんな風に接しているんだろうかなんて考えてしまうのは、私の問題。優しくされるたびに、今私にあの子を重ねなかっただろうかなんて勘ぐってしまうのも、私の問題だ。
 トーマを追いかける私と、私の背中にあの子を重ねるトーマと、そんなトーマから逃げ出したい私。前にも後ろにも進めない私達は、何も言えないまま同じところをぐるぐる回り続ける。

「どうした?なんかあったか?」
「え、なにが?」
「お前ぼーっとしてるぞ」
 デート中にも関わらず考え事をしていた私の顔をトーマは心配そうに覗き込んできた。こうやって見られると、私のいろんな気持ちを見透かされそうですどきどきする。気付いても黙っていそうなところがトーマの嫌なところだ。

「また寝不足か?気をつけろよ」
 こんな爽やかな顔で私の心配なんかしてるけど、トーマの中身だってきっとどろどろのぐちゃぐちゃなんだ。
 幼馴染のあの子になんてとても見せられないくらいに。昔から溜め込んできた思いや押し込めた嫉妬や性欲や、きっとそういう物たちを整理できず散らかしっぱなしに違いない。

 トーマは馬鹿だ。あの子に頼ってもらえたらなんだってできちゃうくせに、自分じゃ何にもできないところも、彼女作って交流減らしたのは自分なのに、それを寂しく思ってるところも。
 そんな馬鹿なところさえ愛おしいと思ってしまう私も、十分馬鹿なんだろう。

 * * *

 その日、帰ってきたトーマの様子は明らかにおかしかった。会話は上の空だし、フォークにスパゲッティを巻いて解いてを繰り返している。その割に私が話しかけると思い出したようにいつも通り振る舞おうとしてくるから、なんとなく言えずにそのまま気づかないふりをし続けた。

 でもさすがに、並んで見ていたテレビの内容についての会話すらまったく噛み合わないのを無視できなくて、ついに私は聞いた。
「ねえトーマ、なんかあったの?」
「いや、えっと……俺、顔に出てた?あー、お前には敵わないな」
 トーマがポーカーフェイス得意なのは知ってるけど、あの子のことになるとまた別だ。顔どころじゃなくいろんなところに出ているのに、それに気付きもしない。
「いや、あいつに彼氏ができたってシンから聞いてさ」
 トーマは動揺を押し込めてそう言った。動揺してることも、それを隠そうとしてるのもばればれ。やっぱり、あの子が絡むとトーマはおかしくなる。
 ああでも、そっか。彼氏が出来たんだ。めでたいことじゃないか、あの子にとっても私にとっても。それでいいはずなのに、そう思ってしまったことについてなんとなくトーマに罪悪感を抱いた。そんな義理ないはずなのに。だって私はトーマの彼女なんだし。

「そっか……昔から仲良い幼馴染とかに恋人できると、複雑だよね」
 またこうやって、トーマが自分の気持ちに気づかないふりをする後押しをして、理解のある風に振る舞ってしまう。こんな自分が嫌になる。だけどこんなタイミングでトーマの気持ちに気付いてただなんて言い出せない。だってそんなことしたら、トーマはごめん悪かった別れようとか言い出しかねない。
 だから私は、トーマの嘘に乗っかるしかない。

「そうだなー。あの頃あんな小さくてすぐ泣いてたあいつに彼氏とか、なんか感慨深いわ」
 嘘だ。ただ悲しいだけのくせに。好きだった娘に彼氏ができて、自分の手から離れていくのが悲しいだけのくせに。だって、そんなことを言いながら顔が泣きそうになっている。
 私はトーマの頭に手を乗せた。口を開けば建前しか言えないんなら、態度で示せばいい。いつも隙のないトーマがこんな風になっているのはあの子のことだからか、それとも私の前だからか。まあ、どっちだっていい。私に弱った姿を見せてくれるんならそれでいい。私にだけ、見せてくれるんだったら。

「ほら、よしよし」
「な、なんだよなまえ」
「遠慮しないの。そうだ、私のことお姉ちゃんだと思っていいよ」
「は、はあ?」
「だって、私のほうが年上だし!お姉ちゃんだと思って甘えてみなよ。ほーら、お姉ちゃんって呼んでみ?」

 へこんだトーマが別れようなんて言い出さないように、必要以上に明るく言った。それから、私が予想外に動揺しているのがばれないように。
 呼んで、と言うのはちょっとやりすぎな気もしたけれど、トーマはしばらく逡巡した後口を開いた。

「……ね、姉ちゃん?」
 まさか本当に言うとは思わなくてちょっと気恥ずかしくなったけれど、それ以上にトーマの耳が真っ赤になっていた。
「うっわ、これはずいな……シンが嫌がる訳だ……」

 顔を赤くして手で覆ったトーマが妙に可愛くて、なんだか本当に面倒を見てあげたいような気持ちが湧いてきた。ねえ、こんな馬鹿なあなたのこと、まるごと愛してあげられるのなんて私くらいだよ。

「でも、お前が姉ちゃんってのも意外としっくりくるかもな」
 泣きそうな顔でそう言って笑ったトーマが、少し癇に障った。自分で姉さんと呼んでみろなんて言ったくせに、私は勝手だ。妹にだけはなりたくない。けれど、姉にだってなる気はないんだ。

 きっとあの子は、トーマのこんな顔なんて見たことはないんだろうな。顔を伏せてこっそり涙を流すトーマがいつもよりずっと小さく見えて、私はおもわず彼を抱きしめた。トーマの肩は少し震えている。
 もしかして。私がそう思いたいだけかもしれないけれど、もしかして。もしかしてトーマは、本当に自分の気持ちに気づいていなかったのかもしれない。だから私にも優しく出来たのかも。
 だとしたら、こんなに馬鹿な人は他にいない。

 嫉妬と羨望と優越感で、もう私の中もぐちゃぐちゃだ。トーマだってきっとそう。昔から溜め込んできたいろんなものでぐっちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃの私たちが追いかけ合ってぐるぐるまわって、いつかバターになってしまえたらいいのに。