ランダムに選ばれた人間一人の命と引き換えに一億人の命が救えるスイッチがあるとしたら、あなたはそのスイッチを押しますか

ーーー安藤が俺に気があるなんてことは、俺がゴミ箱を漁るカラスに好意を抱く、と同じくらいにあるわけのないことだ。
「安藤さんチに、わざわざ?」
帰宅早々に冷蔵庫の缶ビールに手を伸ばす息子を御袋は一瞥し、親父に対するそれとは打って変わって可愛げのない声で鸚鵡返しをくれる。安藤さんとはみょうじ家のお隣さんで、高校生の兄弟が暮らしている。二人は小学生の頃にご両親を交通事故で亡くしていた。生前、夫妻によくしてもらっていた御袋は今ではその兄弟によくしている。息子よりもよくしている。
「しょうがないでしょう。なまえは手が掛からなくなったから」
以前、言うべきでない小言を酔った勢いでげろったら、そうらしい。高校生は可愛いらしい。
「放っておいたらカレーばかりねって、あの子達」
ほれ、ほれ、と目線で責付かれて、はいはいと今日は解放されたはずの革靴が再び足元に収まる。スーツ、着替えりゃ良かったな。
「カレーに野菜も入ってるけど」
持たされたお裾分けは重たかった。

「……パジャマで、すみませんけど」
玄関から出てきたその目が確かにとろんとしていて、こんな時間に訪ねる方が申し訳なくなる。眠そうだなとへらへら笑うが、対して安藤は結構真剣な顔をして「ベーコンのことを考えていて、」とぼやいた。
「ベーコン?」
ベーコンってあの?と冷やかしを口に出す前に、早口の応酬がある。いつものことである。
「イギリスの哲学者で、じゃあ、有名なのだと『知は力なり』って聞いたことある?その人の理論にイドラという提唱があって、その劇場のイドラっていうのが……」
しかし、そこで言葉を切った安藤は危ないあぶないと頭を振った。小学生の頃にその癖のせいで友達を一時一掃したらしいと、誰かからそう聞いた。
「俺もフロイトなら分かるんだけどなー」
「ああ、エロスとかタナトスとか」
「リビドーとか」
「はあ……」
普段の安藤は滅多に笑わない。そのお陰で、俺はいつも自分のユーモアが寒いと気付くことがしょっちゅうで過信することもない。ーーー安藤が俺に気があるなんてことは、俺がゴミ箱を漁るカラスに好意を抱く、と同じくらいにあるわけのないことだ。
「なぁ、カレーばっかり食べてんの?」
一度落ちた気分のままで帰りたくはなくて、まあ、でも、俺は男だからこんな時間に訪ねても追い返されないんだなと無理矢理に気持ちを上げる。
「カレー、上手いっすよ」
はにかむような、やっと若者らしい顔を見せる。
「御袋が食物繊維とビタミンディーとれって」
「肉を入れてよ、それよりさあ!」
安藤の脇から天真爛漫な弟が顔を出していた。彼もまた風呂上がりのようで、俺はそこでやっと退散する。俺が安藤を好きなのでその弟も高校生になったときたら、そろそろ”具合”が悪いのだ。残念ながら差し入れは肉ではなかった。

「みょうじさん、」
俺は振り向いたのに、安藤が呼んだのはどうやら御袋の方だったらしい。翌朝の公道でごみ袋をぽーんとやった彼女からは、小学生相手に向けるような優しさが滲み出ている。俺もこんくらい、安藤に向けてやれば懐かれたか一線を引かれたかどうかは流石に分かんねえや。
「なまえ、途中まで送ってあげたら」
「二ケツを勧める親があるか」
俺の自転車が警察に止められる以前にそもそも心臓が持たない。その上、嫌々乗られたりしたら、したら、さらに所在がない。
「猫田東だっけ、高校」
話を変えようとした結果、治安とかは大丈夫、なんて尋ねる俺の大層な表現に横から刺さる視線が痛い。居心地の悪さについ尻尾を巻くようにゆらりゆらると歩き出すと、安藤も自転車の反対側からついてくる。

誰もが、もう既にいろんなことがおかしな方向に回り始めていることに気付いているはずだった。御袋は怯えている。新都心計画を謳う街では警察と暴徒が衝突を繰り返している。日を増すごとに目覚ましい活躍を見せる自警団を今日も誰かが誉め称えている。猫田市ばかりが損をしている。俺が覚えているだけでも、誰かのせいで火事が起きた。暴走族が抗争ばかりを起こす。市長は死ぬ。都内の遊園地も整備不良で事故だなんだと、そう、すごく楽天的な言い方をすればつまりは大殺界の年だ。そして、それは安藤兄弟の通う公立高校も例外ではなく休学を余儀無くされた生徒が複数出ていると聞いた。
「進むしか、ないんだと思って」
早口だった。
進む?また、不安を煽るようなことを言う。
「通うしかないってこと?」
「対決するしかないってこと」
かもしれない。その後を小さくそう付け加えた。不良と?
「訳が分からない」
「……みょうじさんに、一つ聞いていい?」
そんな風に言われたのは初めてだった。普段の安藤なら、一人で事足りる。討論など必要のない、考察を楽しんでいるようなやつだ。何?と口を挟んだ俺の声も危うく弾んでいたかもしれない。

ランダムに選ばれた人間一人の命と引き換えに一億人の命が救えるスイッチがあるとしたら、あなたはそのスイッチを押しますか

「迷うね」
別れ道に差し掛かったところでタイムアップ。
珍しい出来事というのも相俟って回答を持ち帰ることにした俺は、仕事を終えて隣家に上がり込んでいる。迷うんだ、とキッチンに立つ安藤の顔がかおだけ笑うので、俺はえー!?と思う。
「押すんだ?」
意外そうな声音に安藤の顔が歪んだ。「……なんとかなるでしょ、どうでもいいんじゃないの?関係ねぇよ」ぶつぶつと、不慣れな言葉まで遣う。
「迷う要素はここね、『ランダムに』」
自分か、死んでほしいやつか、選べるなら押しちゃうね。
安藤は聞いているのかいないのか相槌がない。
「考察しながら包丁持つなよ、コエー」
お節介かと思うが、近くに行ってそれを奪う。あんまり切ったことがないけれど、俺だってトマトくらい切れる。と油断していたら、キッチンの主の目に入るところで指を切った。誤算だ、対象との距離が少し近かったかもしれない。安藤は結構青い顔をして、すぐに止血までしてくれた。手際がいいので、されるがままにそれを眺めている。
「ボタン押すくせに、」
ぽつりと滑り落ちた言葉に、みょうじさんは鈍臭い、と話をすり替えて息を吐く安藤を見て、俺はなんだか長いこと笑ってしまった。だってこのくらいの怪我ですごい顔するんだ、すごい顔できるんだ……。
「優しいやつだ」
静かに、と顔を赤くする。