放課後の教室に残っているのは私と佐伯だけだった。少し教室が夕焼けで赤みがかる。そうだ、これが少女漫画だったのなら私は佐伯に告白でもするんだろう。

「はい、佐伯くん」
「え、いきなりどうしたの?」
「うーん、戸惑う姿も格好良いね」
「はは、褒めても何も出ないよ」

やはりコイツはイケてるメンズ略してイケメンだ。しかし私が今佐伯を指名したのは佐伯がイケメンなことを読者に再確認させたい為ではない。寧ろそんなことをせずとも皆さんは佐伯が無駄にイケメンなことをご存知だろう。私が言いたいのはもっと哲学的な話だ。そんなことを考えているといつの間にやらしかめっ面になっていたらしく目の前から佐伯が右手の人差し指を私の顔に向かって伸ばしてくる。何事かと思っていれば私の眉間をつん、とつついた。

「どうしたんだい?考え事かな」
「どうして人間は勉強しないといけないんですか」

目の前には数学のテキストやら英語のワークやらが沢山ある。そいつを睨みながら私は佐伯に質問した。佐伯は目を丸々とさせ、そんなことが聞きたかったのか、と言わんばかりの声色で口を開いた。

「それは君が課題を期限までに提出しなかったからじゃないかな。ほらほら、現実逃避はそれくらいにして進めないと本当に帰れないよ」
「帰れるまで遊べば良いんだ」
「そんなんだから居残りになってるんじゃないか」

彼の言う通り私は直前の中間テストまでに提出せねばならない課題を何一つ出していなかった。そして担任から死の宣告(要するに課題を提出するまで毎日強制居残り)を受けたのだ。何とも厳しいことである。この世は世知辛い。普段は先生と二人きりで教室に残り監視されてるのだが、今日は先生が出張ならしく代わりに日直だった佐伯が監視役に駆り出されたらしい。彼も迷惑な話だろう。

「ごめんね」
「ん?何が?」

なのに、白々しさを感じさせることなく見事に惚ける彼のイケメンな大人の対応ときたら感動ものだ。ジャ◯ーズがこんなイケメンを放っておいて良いのだろうか。彼が監視役を勤めているのだから彼の面子を立てるためにも私は普段よりは課題を進めなければならないだろう。そう決意して数学の問題集を開いた。シャーペンを持ちノートを開く。解きながらクルクルとシャーペンを回す。自分で言うのも何だが私は馬鹿ではないので割りとすらすら解ける。今日は集中出来ている気がする。何とも良いことだ。どれくらい時間が経ったかは分からないが、ふと視線を感じて顔をあげると何故か佐伯が私の顔を見つめていた。

「ど、どうしたの」
「俺は視野を広げるためだと思う」
「いきなりどうしたの?」
「勉強する理由だよ」
「あー……って遅!」

私の軽快なツッコミを微笑みでスルーした佐伯は続けて、勉強すると知識が増えるだろ?そうすると同じことでも解釈に幅が出来るんだよ、と話した。何を言ってるかは良く分からなかったが取り敢えず勉強はした方がいい、ということなのだろう。

「いまいち分かってないだろう」
「あ、バレた?」

佐伯は私のいまいちな顔から読み取ったのか分かりやすい具体例を話してくれた。“失笑する”という言葉は今でこそ馬鹿にして鼻で笑うみたいなイメージがあるが本来の意味は“堪えきれずふきだして笑う”らしい。例えば“黒羽が転けて失笑する”という文があったときに、黒羽が転けたことについて、呆れて笑っているのか、心底面白かったのか二通りの見方が出てくる。それが面白いらしい。私は彼らしいと思った。私なら本当の意味を知っていれば間違った使い方を聞くと、違うのに、と思ってしまう。しかし彼はそれを二つ意味があるんだな、と解釈するらしい。面白い。

「人によって全て違うからね。誰が良くて誰が悪いとかないよ」

彼は考え方の違う人間を傷つけないように配慮もしながら言葉を選んだ。彼なら私の長年の疑問に答えてくれるかも知れない。そんな期待を込めて静かに口を開いた。

「じゃあ……どうして人間は生きるの?」
「……何か悩んでるの?」

佐伯はいつもの営業かは知らないが私にはそう見える笑顔をしまって真面目な顔で私の顔を見つめる。彼と視線を合わせることが何となく気まずく感じてしまい私は視線を下げた。シャーペンを置き机に開いて置いていた参考書を手に取り顔を隠す。

「……人それぞれ違うと思うよ」
「無難な回答だ」
「はは、気に入らなかったかな」
「……佐伯は?」

参考書を少しずらし目だけを出して佐伯を確認すると少し困った顔で窓の外を見ていた。そして、うーん、と鼻から息を漏らすようにため息をつけば彼は爆弾を落としていった。

「君と話したいからだよ……」

チラリと此方を見て目線が合う。眉をハの字にしながらも笑顔を作って、なんてね、と佐伯は言った。なんてね、じゃねえよ。冗談かよ。焦って損したわ!と怒ったように参考書を少し勢いよく机の上に置いた。佐伯は少し目を丸くして驚いたように見せたが、また直ぐいつもの笑顔に戻り、こう言った。

「嘘は言わないよ……どうかな?」
「ど、どうかなって……」

それはもう凄くドキドキします。