それ自体が一つの家のように、何もかも完璧に揃えられたゾルディック家の私用船。
その上等なソファーに腰を掛け、選りすぐりの茶葉だけを使用した紅茶に舌鼓を打っていると、ついついこれが仕事だということを忘れそうになる。

しかし、仕事の内容を最後まで聞き終わる頃には、なまえは今自分の喉を通過して行った物の味も香りもわからなくなっていた。本気で言っているのだろうかと、依頼してきた男の顔をまじまじと見てしまう。
だが、相変わらず目の前のイルミの表情に変化はなく、なまえが彼を見つめた意図すらもわかっていないようだ。その証拠に、こてんと首が傾げられる。

「なに?問題でもあるの?」
「いや、問題っていうか……流石にこれは無茶しすぎなんじゃない……?」

ローテーブルの上にはこれから向かうビルの見取り図。
暇なら手伝ってよ、との連絡に、珍しいなと思いつつ報酬につられてやって来たのだが、流石にイルミが持て余すだけあって危険な依頼だ。なまえが1人増援に来たところで役に立てるのかどうか、それどころかなまえ自身が危ないのではないかと思わずにはいられない。

「無茶だと思ったからなまえを呼んだんだろ」
「いや、期待してくれるのは嬉しいけど、死んだら元も子もないし……」

考え直したら?という意味を込めて無茶だと表現してみたが、イルミにはこの依頼を断るつもりが全くないようである。普段は堅実に仕事をする彼なので、もしかすると上客からの依頼なのだろうか。確かに家の体面を気にする彼なら、多少無茶でもこなそうとするだろう。仕方なく、なまえは負担を減らす方向で話を進めようとした。

「イルミの家族は?」
「生憎全員他の仕事だよ」
「じゃあヒソカ」
「連絡がつかない。それに今回の仕事は陽動じゃないから、ヒソカだと目立つんだよね。ていうかそういうこといちいち言われなくても、ちゃんとこっちで考えたうえでなまえに頼んでるから」
「うん、それが頼んでる態度には思えないんだけど……」

早くも腰が引けているなまえに焦れたのか言葉に棘を含ませたイルミは、依頼を受けるのか受けないのかはっきりしなよ、と言わんばかりに「で?」と聞いた。一応質問の形をとってはいるものの、当然なまえに拒否権はない。仕方なく、報酬が法外にいいのがせめてもの慰めだと、なまえは自分に言い聞かせながら承諾する旨を伝えた。

「そ、よかった。なまえが受けてくれなかったらどうしようかと思ったよ」
「……よく言うよ、こんな命懸けの仕事に巻き込んどいてさ」

もし、これが自分に来た依頼なら絶対になまえは受けなかったし、助けを頼まれてもイルミでなければ引き受けなかっただろう。それはなまえにとってイルミが特別な存在であるとかそういうことではなく、単に断ったら恐ろしいうえに、貴重な人脈だからである。もちろん、引き受けた以上は全力を尽くすつもりだが、流石にイルミの為に死んでやる義理はない。

「イルミってほんと、いざとなったら友達の命よりお金を取りそうだよねー」

むしろ横暴なイルミにちょっとばかし腹も立っていて、なまえは本音という名の嫌味をぶつけた。

「なにそれ、人を守銭奴みたいに言わないでよ。オレだって物事の優先順位はわかってるつもりだけど」

すると意外にも、イルミはなまえの嫌味にぴくりと眉を動かした。てっきりイルミの性格上当たり前だろ、なんて取り付く島もない答えを返されるとばかり思っていたのだが、危険な仕事を前にイルミも気がたっているのだろうか。「ていうか、そもそもなまえは友達じゃないし」そこだけブレないのもまた腹が立つが、なまえは少しいつもと違うイルミの様子に興味を惹かれた。

「じゃあじゃあ、イルミは命とお金、どっちが大事だと思うのよ?」
「は?質問が漠然としすぎ。誰のお金と誰の命の話をしてるわけ?」
「誰の、とかそういう話をしてるんじゃなくてさ、命とお金どっちが重いかって話よ」

相変わらず、仮定の話が苦手というか、いちいち細かい所を突っ込んでくる男だ。なまえは若干うんざりしつつも、イルミの答えが気になったので我慢した。この手の正解がないような質問にこそ、答えから人となりがよくわかるというものだし、なにより彼がこんな不毛な会話に付き合ってくれること自体珍しい。
イルミは僅かに眉を釣り上げたまま、だからさ……と不機嫌そうな声を出した。

「オレの命と他人のお金なら命のほうが大事だし、オレのお金と他人の命ならお金のほうが大事でしょ。オレの物じゃないなら命もお金もどうでもいいね」
「うわぁ……」

予想していなかったわけではないが、ここまで酷いとは。なまえは呆れるやら感心するやらドン引きするやら、全ての感情をうわぁ、の一言に込めた。
まぁ、ある意味この答えもイルミらしいと言えばイルミらしいのだが、それにしても正直すぎやしないか。これは本格的に自分で自分の身は守らねばならないな、となまえはこっそり覚悟を決めた。

「さ、もう下らない話はいいでしょ。仕事のことに集中して」

なまえが絶句したせいで流れた沈黙。それを打ち破るように、イルミはぽん、と手を叩いてから、テーブルの上の見取り図を手元に引き寄せた。珍しく雑談をしたとはいえ、やはり彼の頭の中にあるのは仕事のことばかりのようで、迷うことなく図に印をつけていく。なまえはそれを見ながら、引き受けた以上はちゃんとやるよ、と力なく呟いた。

「とはいえ、死なない程度にね」
「え?」

イルミの走らせるペン先ばかりに気を取られていた矢先。不意に聞こえてきた呟きに、なまえは思わず顔をあげた。けれども依然としてイルミの視線は見取り図に注がれたままで、印をつける手も休まることはない。なまえは自分の聞き間違いだったのかと思って、再び仕事の方に意識を集中させようとした。

「言ったでしょ、オレの物なら大事だって。だから死なない程度に」
「……」

きゅ、と音を立てて最後の印をつけ終わったイルミはいつもと変わらぬ涼しい顔をして「じゃあなまえはこのルートから侵入してね」なんて指をさす。流石に二度目となれば聞き間違いではないようで、なまえはまじまじとイルミを見つめた。

「なんか……色々と矛盾してるよね……」
「そう?」
「イルミのせいで仕事に集中できなくなったんだけど」

こちらも曲りなりには同業だ。そう簡単に感情を表に出さないように気を配っている。けれども心臓の鼓動まではどうしようもなく、今のイルミの発言にどくどくと騒がしい。一体今のはどういう意味なんだろう。あぁ、でも期待したってイルミのことだから、きっと俺の駒だとか、そういう類いのものだろう。いや、そうに決まってる。だって本当に大事に思ってるなら、そもそもこんな危険な仕事を寄越すわけがないじゃないか。第一、なまえはイルミのことが好きというわけではないのだから、こんなにドキドキする必要は無いのだ。

そう考えて自分で自分を落ち着かせようとしていると、そんななまえの内心の動揺を知ってか知らずか、イルミは容赦なく次の爆弾を投下した。正面から見つめあった真っ黒な瞳はいたって真剣で、冗談でしょ、と笑い飛ばせるような雰囲気ではない。

「まあこの仕事クリアできたら、母さんもなまえのこと認めてくれると思うし」
「……み、認める?」
「うん、そろそろ結婚してもいい頃かなって」
「は?え、結婚?誰が?誰と?」

突然すぎる話になまえはついていけてないが、どうやら今日のイルミはやたらと雑談をしたがるようだ。結婚だなんてそんな、プライベートな話をふってくるなんて。
頭に疑問符を浮かべまくるなまえに、彼はようやくそこで怪訝な顔をした。

「何言ってんの?オレとなまえだよ」

「いや、ほんと何言ってんの……」

瞬間、イルミの周りの温度がぐっ、と下がったような気がしたが、なまえは何も悪くない。どこぞの令嬢でもないなまえにしてみれば、結婚するからには当然その前に恋人期間というものがあり、なまえの記憶する限りイルミとはそういう関係に至っていなかった。良くてビジネスパートナー、悪くて使い捨ての駒だろう。だからこそイルミの発言の意味も意図もわからず、それでも彼の機嫌が悪くなったことだけはわかるのでひたすらに困惑した。

「何その反応」
「え、だって、私とイルミって……」
「嫌なの?」
「い、嫌っていうか、その、突然で……」
「じゃあ返事は仕事終わってからね。それまで考える時間をあげる」
「ちょっ、イルミ」

考える時間もなにも、考え事しながら出来るような生ぬるい仕事ではない。それにそんな人生を決めるようなこと、急に決めろというほうが無理がある。今まで幾度となく顔を合わせていても、イルミとはそういう雰囲気になったことはなかった。だが、いきなり結婚と言い出すということは、向こうはその気があったということだろうか。
なまえは今更ながら真っ赤になって、彼の名前を呼んだものの、次に何と言えばいいのかわからなくなった。そんななまえを、イルミは珍しく愉快そうな顔をして見下ろす。

「だからさ、なまえは友達じゃないとも言ったでしょ。お金となまえの命だったら、なまえを取るよ、たぶんね」

最後の一言が余計だけれど、それもまたイルミらしいといえばイルミらしい。なまえは無理矢理頭を切り替えようと、ぱん、と音を立てて自分の両頬を叩いた。

「と、とりあえず仕事は頑張る……」
「そ、期待してるよ」

その後の返事なんて、今は知らない。けれどイルミは自分の物を大事にはしても、自分を大事にはしない男であるということは知っている。

それなら誰かが傍にいて支えないと、本当に死んでしまうのではないだろうか。

「あ、死なない程度にとは言ったけど、失敗したら報酬は無しだからね」
「……あのさぁ、イルミ。もう一回聞くね、命とお金どっちが大切だと思う?」
「さあね、なまえこそどっちが大事なのさ」
「そりゃ命でしょ」
「だったらオレの物になってた方が安心だよ」

本当に、イルミの言うことは冗談なのか冗談でないのか判断がつかない。いや、なまえが冗談だと思いたいだけで、彼はいつだって本気なのかもしれない。

「い、今は仕事に集中!」
「オレは最初から集中してるけど」
「もう、イルミは黙っててよ」
「はいはい」

どことなく機嫌が良さそうなイルミはもう、なまえの返事がわかっているのかもしれなかった。