三階の角部屋。
何度も自分に言い聞かせて、銅色の取っ手をきゅっと握りしめる。
急がなくてはならないので、長い廊下を歩くスピードは自然と早くなっていく。
階段を昇る、そのわずかな振動でもトレーにのったグラスは震え出した。
どれだけゆっくり踏み出そうがカタカタいって、おぼつかない。
中身が今にも溢れてしまいそうだ。
内心ひやりとしながら最後の一段を過ぎ、少し行った先でなまえは控え目に扉をノックした。
「どうぞ」
短い深呼吸をひとつ、する。
「失礼します」
入ってすぐ、ベッドに横たわる人の姿が見えた。
まだところどころ眠気を引きずってはいるが、まったく隙がない。
別の時代に産み出された彫刻顔負けのシルエット。
夢を忘れられず薄く開いた瞳の焦点がようやくなまえに移る。
大げさにため息をついた照美は、絡まる髪を指に巻きつけた。
その内の一房をすくって耳にかける。
ちらりと首元がのぞいたので、なまえはどぎまぎしながら目を反らした。
「やぁ。そろそろくる頃かと思っていたけど、ぎりぎり間に合ったようだね」
「申し訳ありません」
「遅れそうになったのはどんな理由かな?」
なまえがグラスを運ぶのに手間取ったことを確信して聞いているのだろう。
でなければ、こんなに回りくどい言い方はしない。
「いえ、たいしたことでは。その、少しだけ用意が足りなかったようです」
なまえが適当に濁すと、自分から切り出した割には「ふーん。そう」とまるで興味がない。
「まあいいよ。時間通りに届けてくれさえすれば」
ちいさな欠伸をして起きあがり、ベッドの縁に腰かける。
照美がグラスを手にしたので、なまえは室内をさりげなく見回した。
ベッド脇のテーブルにはガラスの水差しが置いてあり、中はまだ半分ほど残っている。
係の者が後で直接取りに来ると言っていたためそのままにしておいた方がいい。
周りの水滴を軽く拭き取り、クロスを整える。
細々と手を動かしをしている間にも、照美はなまえに視線を注いだ。
なまえの仕事ぶりを確認しながら、飲み物を嗜むつもりらしい。
鈍い光を放つ金色の髪がゆるく流れる。
さらさらと肩口に落ちる毛先をなまえは秘かに目で追った。
「君は知ってる?」
話しかけられ、顔をあげる。
「これが一体なんなのか」
答えを待たずして、照美がグラスを回してみせた。
中の液体も動き始め、平らな表面がにわかに波立つ。
ただの水のようにも見えるがその正体は不明だ。
噂によれば、おちょこに一杯口にするだけでも身体中にとてつもない力がみなぎるという。
事実、練習の合間に選手達がこれで喉を潤している場面を何度か目にしたことがあった。
が、本当に効果があるのかは神のみぞ知るといったところで少なくともなまえはよく知らない。
ただ、隠された真実を知ってしまったらどうなるのか、それに関しては想像がつく。
気まずそうに黙りこくるなまえを気にもとめずに、照美はなまえの顔を見つめ続けた。
その眼差しは謎だらけだった。
「特別なものなんだよ。生成できるのは限られた科学者だけ、そして選ばれた者にしか使うことを許されない。
神のアクアと呼ばれている」
「神のアクア?」
「ただの人間ではとても扱いきれない代物さ。
なにしろ下手に手を出したら壊れてしまうからね」
怖いくらいに澄んだ声が頭のなかで反響をおこす。
段々と消えゆくのに、最後の一文だけは嫌でも耳にこびりついた。
壊れてしまうというのは、つまり――
「それ、って」
「完全な勝者となる必要があるんだ。その為だったら僕はどんな犠牲だって払う」
音は柔らかくとも断固とした口調だった。
ついさっきまでの寝ぼけ眼が今や恐るべき輝きに満ちている。
退屈しのぎにグラスをゆすり、
その向こうを狙っているかのように爛々と。
それを見た瞬間。目眩が、した。
見えている世界が、あまりにも違いすぎて。
ちっぽけな人間、ゴマ粒の集合体を遥か遠い雲の上から見下ろしている。
そんな感覚を持てるのは一握りの選ばれた者だけ。
地上とはかけ離れた、天に住まうひとびと。
で、羽を広げるに相応しい人材にだけ与えられた力を最大限に引き出すのが、一見すると何の変哲もない水。
そんなことをいきなり信じろと言われたって、受け入れられるはずがない。
ただでさえその辺にいるごく普通の人とは違う選ばれた者、それも別格だなんて。
でも今の説明を、半分くらいのみ込みかけている。
きっちり筋が立ててあるわけでもないのにどうしてだろう。
「勝者がいるのであれば、敗者もまた、存在します」
なまえが喘ぐように言う。
照美はそれに呆れたのか、目を閉じて薄く笑い飛ばした。
「誰もが満ち足りた状態なんてこの世にはないよ」
「でも、人それぞれに思い描く未来が、あるのではないかと……」
「なまえ、綺麗事を言っている場合じゃない。それは君もわかっているね」
差し込まれたのは極めて現実的な一言だった。
すらりとした脚を組み換えた照美は突然真剣な顔になって、なまえに頬を近づけた。
燃える瞳のそばを走る、ぴんとはねあがった睫毛。
なまえは思わず息を飲んだ。
綺麗。だけど危険、だ。
「ごちそうさま」
空になったグラスが盆に返される。
はっと気づき、なまえは慌てて立ち上がった。
「出過ぎた真似を、致しました」
「いいや。別に構わない。君はちょっと変わった人間だから楽しくって、僕もついお喋りが過ぎた」
どうやら運のいいことにお咎めはないらしい。
気づかれないよう胸を撫で下ろす。
きっちりと礼を済まし、再びトレーを持ちあげる。
彼の前を通るのは気が引けたが、下を向きながら突破した。
必死に目を合わせないことだけを考えて。
だから、反応が鈍っていた。
横から伸びてきた手が腰とうなじにまわる。
ぐらついてバランスを失い、なまえはされるがまま引っ張られるしかない。
しっかりと握っていたはずのアンティークトレーは両手を離れた。
その拍子にグラスが割れ、大理石の床に飛び散る。
お互いの猥雑な息だけが交錯する狂おしい抱擁の中で、なまえは覚った。甘かったのだ、と。
離れ行く唇は銀白色の雫に濡れている。
ならば自分のほうに残る小さな露もまた、同じ色をしているのだろうか。
おそるおそる口許を舐めてみる。
味もないのに妙につんとした人工的な香りが、舌の上に転がり込んだ。
正義とはどういうものですか
それは、善にも悪にもなり得るルール