ただ生きているだけだというのに。私もあなたも。
 母は密やかにそう言っていた。揺れるまでにかなしい声を確かにしていたので、未だに私の耳につまっている。母は色あせた秘密がかたまったような、か細い夜に似た女だった。たった一人でいることにその人は融けるようなまでに慣れていたから、私もそうなるのだろうという確信をお腹のなかに入れている。
 誰かがそばに寄ってくることが解って食事を手放した。ぬるくなった缶コーヒーを握りしめている。広い学校の隅で、小さく、みぐるしいまでに怯えている。砂の上をこつこつとやってきたのは、私と同じ学校の制服を来た男の子だった。シャツの袖のラインの色が私と一緒だから、歳も私と同じなのだろう。その子は黒くて、星すらも遠ざける私の母を思い出すような髪をしていた。分厚そうな眼鏡のレンズ越しに私のはらわたを透かして見るような眼をしている。
「いつも、ここで食事をとっているんですか」
 その男の子の声は感情を薄く伸ばしているのに、抑揚がないわけでもなかった。不思議と耳たぶにひっかかる。まるでマゼランが行った太平洋みたいだった。
 男の子はフェンスの前にある植え込みの淵に座る私の隣に同じように座った。名前も知らないその子は、手に持っていたビニール袋から菓子パンを取り出して食べ始めた。私はほろほろとパンの屑が男の子の制服にこぼれてゆくのを眺めていた。
 お腹が痛む。きゅうきゅうとへこんでゆく。欲している。男の子の白い手へと眼球が飛んで行きそうだった。それなのに私の胃の中の物は喉までやってきそうで、また怯えた。この欲が怖かった。
 ……手放していい命なんてないのだから。
 まぶたの上から母の言葉が降り注ぐ。私の頭がブランコのように揺れて缶コーヒーがスカートを濡らしたのがわかった。
「まま……」
 あの日、空に溶けていく私は雲を掴み殺して腹を満たしていた。短い脚を動かして美しい景色に揺られている。遠くに、陽の中で燃える街が見えた。からすは家路についているのか、その赤を横切った。そうして、空と一緒になっていくと人の動きもよく見渡せるようになる。何でも聞こえてしまう。自転車の鈴の音も、つまづく音も、不安を塗りたくった爪のよう。私はその爪で無惨にひどい傷をつけられている。
 声を出そうとして咳が出た。たくさん。もうすっぽりと生きることを忘れていた。
 待ち人を呼ぼうとも、その女の名を私は知らなかった。無能で無知だった、この世界に落とされたばかりであるので。女の影はどこにもなく、わたしのすだれのような虚ろは、この赤い美しさで満たすことができなかった。

「なまえ」
 夜が見える。帰ってきたのかと囁けばそっと温もりに包まれる。光のない夜は、この上なく悲しい。母は布団の上で横になる私をひれ伏すかのように抱きしめて、泣いた。ひやっとして、冷たい星のような涙が髪の毛に絡まるのがわかった。
 昼間の少年がこぼしたパン屑のようで、私は欲に塗れるあまり、清い幻でも映してしまったのだろうか。
「学校に行っていたの?」
 もそりと起き上がった母の顔はこのあいだ見た時よりも細くなっていた。暗がりの中ではそれだけだったが、きっと、腕も脚もなくなりそうなほど擦り切れているに違いない。
「どうして」
「昼間、電話がかかってきたから。知らない人だった」
 お嬢さん、御自宅にお送りしましたので。どうか、お大事に。
 私の隣にいた夜の髪の男の子だと、悟った。あの眼鏡の内にある眼を思い出す。まばたきの他に動きのないような、まるで人形のような。
「覚えてない、なにも」
 ひどく寒くて私は布団を鼻までかぶった。太陽の匂いなんてしなかった。すっかり夜に化けたのでまばたきはしなくてもいい。母は笑ってどこで聞いたって優しい声で、そっかと答えた。
「お母さん、あなたのことが大好きだから」
 うん、とも返事ができない。ひどい娘だ。
「たくさん迷惑をかけてしまってごめんね」
 床が呻くと、かすかにあった熱もなくなってしまう。震えは止まることを知らない。私の心臓を動かして血を流すから、苦しくて悔しいけど、私は母が言ったいのちの在り方どおりに。
「見守っているから」
 生きている。
「じゃあ、お仕事に行ってくるね」

「みょうじさん」
 あの少年はたびたび私の元へやってくるようになった。学校の隅へやって来て、私の隣に座り、ご飯を食べて帰る。なぜそんなことをするのかはよく解らない。静かな場所を求めていたのかもしれない、あるいは、偶然私がここに来るのを見つけて興味を持っただけなのかもしれない。どちらにせよ、私が少年に向かって言葉を向けることはなかった。私が何も言わないから、たぶんもともと少ない彼の言葉はさらにすり減っている。「有馬です」あまりにも言葉が足りないので、少年の名前だと理解するのに少しだけ時間がかかった。だけれど、母のことを思い出してそれでいいのだと考えた。
 今日も彼からはいいにおいがする。食事の、生命の。
「みょうじさんは、細いですね」
 ある日、有馬くんは缶コーヒーを握る私の手を見て言った。私も自分の手を見ていた。血色はよくないかもしれない、しかし逃げだしたいと思うくらい見つめられるほど細いわけではない。そんな風に私は私を信じている。
「何を食べているんですか」
 有馬くんはいつもよりも一段と声をりんとさせて言った。こちらがまことの問いであることにはすぐに気がついたから、私はすぐに有馬くんから離れた。足を急かして、校庭の端を隠れるように進んだ。校舎に入って賑やかな音が聞こえたとき、握り続けてきた缶コーヒーの中身を飲み干した。後ろに有馬くんがいないことを確かめて、しっかりとこの午後を生き抜くために缶をゴミ箱に叩きつけた。

 まだ、生き抜いている。しかしどれだけ生き抜けば安息を得ることができるのか。
 少し前方にいる人間に釘付けになる。赤くて、目にずさずさと刺さる色が降るただの住宅街に不釣り合いな、黒いスーツとアタッシュケースを持つ男。スーツは二人いる。母がしばしば眺めるテレビに映る度、彼女を恐ろしくする男たちだった。
 問題だらけだと思った。その中でも一番は、やはり。
「白鳩かあ」
 有馬くんたちは私と母が住むアパートの前にいた。一人の男が一階にある私の部屋に向かった。インターホンを鳴らしていることが理解できたので、やはり私たちに用事があるのだろう。すぐに去らなければと背を向けた。生き抜くためならば。憎悪が私を動かしている。
 嫌いだ。
 ずいぶんと離れていたその感情を手にしたとき、たぶん、眠る前のように静かでいる有馬くんにじりじりと、とけていってしまっていたのだと思った。自分が気持ち悪くなった。近くのコンビニのトイレで吐いたのは胃液だった。
 何もでないから、私には何もない。有馬くんにだって何も思っていない。
 今はただ、朝になったら帰らなければと足裏に刻み込んでいる。

 もうあの場所には行かないと決めてから向かえた昼は居心地が悪かった。普段は自分の席にいない私を珍しがって話しかけてくる子を散らしている。それでもきゃうきゃうと笑顔でいる女の子たちに呆れてしまって何もせずにいた。どうすれば離れていってくれるのか定まらない。何を言っても、怒ったとしても、めったなものを見たと喜ぶのだろう。
 彼女たちが私の周りでおしゃべりを初めてからずいぶんと経った。笑い声の真ん中にいるのに、私の周りに塔が並び立っているような隔離された感覚でいる。外の景色を知らなかった。こんな風に、女の子は少ない休み時間を楽しんでいるのかと羨んだ。だから、私独りすべてが聞こえてしまうからこそ、突如として静かになってしまうと、ほんの少しのさみしさを感じる。
「あれ」
 有馬くんじゃない?
 一人、また一人。私から顔を背けて廊下を眺める。誰だって、やはりその静けさに感化されていくのだろう。水の中でぼやぼや囁くような声だけがしている。
 真昼の中に夜が見える。白い月を見ると、もうここは夜である。
 有馬くんはくたびれているであろう私の目を見つけて、確かめるようにすっと視線を止めた。大きな闇があった。底には穴が空いている、風がときおり叫んで私の目を乾かした。
 チャイムがなる、人々はすぐさま鼓動を再開する。有馬くんはもういないから。
「なまえちゃん、また話そうね」
 私は何も喋ってはいないというのに。勝手な子たちだと思いながらも「……うん」とかすかな声で答えた。
 午後は少し眠った。ぼうっとあの眼を記憶の中で燃やした。

「お腹すきませんか」
 朝、家を出たら有馬くんがいた。ドアを開けてすぐそばにいたから、しばらく二人でドアノブの引き合いをしていた。がたんがたと言って古めかしい扉は今にも散り散りになりそうだ。
「すいてないから帰って」
 思い切って声を出したら「これ、みょうじさんが食べるまでここにいます」といつも彼が持っている白い袋を差し出して扉の間に足まで入れてきた。壊してやりたいとギロチンにでもなったつもりで私は有馬くんの足を挟み続ける。
 帰って欲しいのだ。私が迎えるのは母だけだから。
 有馬くんの足から血が流れているのがわかった。有馬くんという人間が私の中で確かなものになって、私が弱い生き物であることを証明している。この血のように散り散りになったのはわたし、ままを嫌うわたし。痛みなんて感じていないような顔で、作られたような声をして「無理だよ」というものだから、ひりひりとする氷のような目を見て「人でなし」と罵った。
「そうだね」
 何度も言われてきたと笑っていた。ひゅうと扉が開いてそこに見えた有馬くんから、ずぶ濡れのコートを羽織るような、線路の上に横になって空を見上げるような、こぼれ落ちる喪失感のようなものを感じてしまった。下唇を噛んで鼻でたくさん空気を吸い込むと、顎の周りがふるふると震える。有馬くんの手から袋を強引に取って中身を確認した。サラダの詰め合わせだった。私は強盗が金目の物を探すように必死に手を動かして蓋をあけた。有馬くんがプラスチックのフォークを差し出したのでそっと受け取った。
 私はとうとう示さなければならないのだろう。私の生命を。
 涙をこぼしながらサラダを食べている。一口とも呼べない、ただの葉っぱの欠片。にがくて、しゃきしゃきで、レモンの刺激臭がした。咀嚼できても喉をなかなか通らなくて、みっともなくえづいている私は、ずっと遠くの赤い日のままでいるのだろうか。
「贅沢だとさんざん決めつけていたけど、人にも持たざるものはいるんだね。大切なものを捨てるのは生きているから、生きていくからだろうけど。……うん、それでも、やっぱり……すべてを許せはしない……手放していい命なんてないのだから」
 もう離されてしまったのなら、私があなたの手を握る。
 私の手を取る存在はとても優しいのだと思った。矛盾さえまぼろしに霞む。こんな冷たい石がそびえ立つ街で私の手をひいている、さらさらと髪の流れる横顔は私の大切な母。
 わたしが母にしたのだ。私を再び子供にしたのはばけものだ。
 きたならしい姿でいる私の中身は、美しい人間たちと何の変わりもなく、ぽつぽつと拍子を終わりまで刻んでいる。街の影にぼやける怪物の中身は、私と同じで悲しみを捨てて笑ったり、貴い物を探し続け涙を流している。
「ありがとう、みょうじさん」
 たくさんあるのだと思っていた傷は、数が増えて境界すらなくなった、たった一つのものだった。そこに落ちて、忘れないでいられる言葉が私の在り方になっていればいいのに。深層で祈りを捧げる。
「はなせてよかったよ」

 こんな噂を耳にするようになったから、 やはり彼のことを知る人はもうここにはいないのだろう。
「有馬くんは人じゃない」
「有馬くんには人ではないものが憑いている」
 姿のない人物に、その内にあった思いを貼り付けるのは意外と簡単であることに気がついた。口にしてしまえば香りのように広がる。不確かになるまで、進む。有馬くんには友人と呼べる人はいなかったようだ。それだから誰も咎めることもなく、すべて嘘になっていく。
「覚えていない、何も」
 あれから一度もこの学校で有馬くんを見かけていない。しかしまた、押し寄せて私たちを呑むときがくるのだろうね。冬の暗さのように、すぐにでも。

  壊れ弾けそうな夜だ。星がもうすぐ眠るころ、母は唇を少し動かして笑みをつくりだした。それからぽたぽた、謝罪の言葉を口にする。それは許しを求めるのではなく、自分の罪をあらわにするためだった。細い方腕は外で落としてきてしまったみたいだった。血のわいてでる音に深い呼吸の音が重なる。
「ごめんね、帰ってきて」
 つつしみ深く、片腕で私を抱きしめる母に両の腕でしがみついた。本当は頼りなくなってしまったその背中に触れたかったけれど「背に手を回さないで」と、それだけはしっかりした声で言われたのでできなかった。ああでも、よくわかるのだ、その肩でチカリと跳ね飛ぶ光の美しさが。
「きれいだね、お母さんは」
 弱まってゆく声で泣きはじめた。ときおり私の耳元で咳き込んで肩に血が垂れていく。母の服にへばりつく血も赤かったから、私は母が私という人間の母親以外の何者でもないと信じた。少しずつ、もうほとんど機能しない足で母が私の後ろに回って、私の顎のしたに細い腕をくっつける。こんなに頭を寄せあうことは今までなかった。
「それ以上近づけばこの人間を喰う」
 喰われたって構わないのに、私は何も言えずにいる。
「おまえはなまえさんを殺すことができない」
 あの日拒んだ人は、変わらず私の心の底に居場所をつくっている。土足で踏み入るから、その足音はうるさくて秩序的で、私の体に冷たさをもたらす。
「この場をしのぐくらいのエサにはなる」
 強く、ありたい。私は母のために強くありたい。私がこの女の生きる意味でありたいから、この先も。喰べてくれと願う。この細い体の腹には、確かに人が言う愛があったのだから。それしかなかったのだから。
「大好き」
 首筋に唇が触れて、私はなにか星のようなものになるのだと思った。このヒトのいびつで、でこぼことして、細っこいものに。痛みがあるのならば眼をつむって眠るのだろうか。耐えて目覚めたとき、このヒトが私を見守ってくれていたように、私も見守りたい。
「私のママを殺さないで、お願い、有馬くん」
 私は踏みとどまることを芯としてきたからどうやってもあと少し届かないままでいた。今、ママと呼べたとき、私はこの人の娘であった。ようやくあのカビの生えた古い記憶から解放された気がして、あのとき満たせなかった美しさに私はようやく浸ることができた。
「私のママは生きているだけだから」
「なまえさんが死ぬよ」
「いいよ」
 生きて、死んだというだけだなのに。
 そこに命があるのだから、どうしても死に行き着くから、少しの拒絶をして私の望む結果で終わらせたい。それは、私を愛したママが人をほとんど口にしなくなったように、私がママと同じく食事を拒んだように。人間でありたかったし、怪物でありたかった。
「俺は、殺さないよ」
「いやだ……やだ、うそだ」
「うそじゃない」
 からんと、部屋を切り裂いて私たちに降ってくるものが痛くて泣き叫ぶ。少し爪をたてられた。外の冷たさはママを包んでいるというのに、背中の暖かさはよりいっそう増して、重さもはらんだ。私の首に回されていた手が緩んで、私が受け止めなければならないまでに不確かになる。
「いや、やだよママ」
 ずしんとしょいこんで私はとうとう畳の上に膝をついた。涙を掻き分けて見つけた傷のついたかさかさの手を強く握った。まだ、やわらかなあたたかさがあるのに、終わりだと、有馬くんではない男の人の声が告げている。ママを落とさないように私はおでこを床に寄せた。はあっとした息が耳にかかる。あなたの顔が見たい、自分の潰れた涙なんて見たくない。目を瞑ると釘を打つように二人が近づいてくるのがわかってしまったから、私は片膝を浮かせて遠くへと進んでゆきたかった。
「なまえ」
 うん、と私は裏返った声で言った。精一杯こたえたから、どうか、ひどいと思っても最期まであなたの娘でいさせてほしいと叫びたかった。
「ま……ママねえ、あなたのこと大好き」
 だから、あの日、手を繋がずに喰べておけばよかったかな。

 いじらしく震えていた声に耐えしのんだ。私は強くあれただろうか。それでも願うことを許されたのならば、あなたとごく普通の食事の時間をすごしてみたかったと思う。それが、弱さであるのだろうとはわかっていたが、「私も」と返事をして手を握りなおした。

 見守っていて。

 目覚める度に私は私とは違う姓で呼ばれるものだから、ついにまぶたを堅くして、その呼びかけが届かない所にたびたび行くことにしている。そこには何もないのだろうと見きっていたのだが、存外、優しさに満ち溢れていた。ゆらめいて、遠のいて輝き、私は母と幸せなままでいる。こうして二人でいることは秘密なのだろうと思う。目覚めてしまったら褪せてしまう、まぼろし。人工的な光なんてなくともここでは前を向けるし、食事の時間もむかいに座るヒトの顔を盗み見ることだってできたから、苦痛があるのだとしたら、それはただ私の髪の先に引っかかった外界の塵を思うとき。
「みょうじさん」
 もう忘れてしまったのかとわずらわしく思っていたら、久しぶりにやわらかく呼ばれたので戻ることにした。特別な声だと思う。
「久しぶり」
 熱が出た時のようにふらふらと軸が定まらない頭では、固まってしまったまぶたを開けるのにも錆びたシャッターをこじ開けるように力が必要だった。光がしみる。また目を閉じた。もたついていると腕を掴まれて背中に手が触れた。あの夜は徐々に白みはじめたようであたたかさが巡る。ああ、なんだかと絡まっている。
「すこし、あせたね」
 有馬くん。
 幼少期に読んだ本と顔をつきあわせるようだった。飾り気はなくとも、現実を忘れてしまう。知らない路をゆくように胸がはやまる。進む先は光って、ここからでははっきりと実像が掴めない。私がながく眠りについていたせいなのか、彼が眠らずにいたせいなのか、淡くなっている。それでもまだすこしばかり面影を遺すのは、私をここにとどめるためなのだろうか。
「やっぱり解ってしまうのかな」
 いつもはその目を見せてもくれないのにと、退屈にようやく終わりがきたみたいな眼で言った。きっと有馬くんは私のひどく乱れた髪の毛をみたり、私を造る水分を送り込む管を眺めるのに飽きていたのだろう。やはり、もうずっとねむっていない気がする。
 有馬くんは、一般的なものよりもわずかに横に長いアタッシュケースを私の膝の隣に置いた。ずいぶんと頑丈そうで、いつか近くで眺めた白鳩が手にしていたあれのようだった。有馬くんはかちかちと留め具を外していって、開けてみてとだけ告げる。求められるがままケースに手を伸ばしてみると、なんだか、どうしてか、額が痛んで急いで手を引っ込めた。
 これは、なに。なんなの。
 顔を見上げても答えはなく、私の呼吸は慌ただしくなる。反響している、夜の残骸が。器に満たされた水をひっくり返すようにいやだと記憶を吐いたら手首を掴まれた。そのまま私の手をケースに持って行って、浅いくぼみに指先を触れさせる。ぐぅと顎に力を入れて抵抗すると、助手席に座る人間が運転席に乗り出すようにもう片方の手も掴まれてしまった。点滴の管が揺れているのも気にせずに手を握られる。あの赤が実体を持ったようにあつくて、水分を求めた喉が唾を吸い取っていく音が大きく鳴った。
 噛み締める、冷たさ。鳥が翔けるように鋭くとかしてしまわなければ、もう、逃げることだってできやしないのに、この空を飛んで私たちを見下ろすのはあのときのからすではなく私の心に巣食うくすんだ羽の鳥だから、助けを求めて手を伸ばしたらついばまれてしまったのだ。やわらかだった。まぼろしを挟んでも覚えていた。
「私があなたの手を握る」
「やめてよ」
「解っていた、解ってこうした」
「ごめんね」
「やめて」
「殺すことができないから」
「背に手を回さないで」
「こんな、なんで」
「きみの」
「殺しておけば」
「言わないで」
 目を閉じることだってできたのだった。繰り返した景色はつまらない、飽きてしまったと突き離せた。まばゆい光だったから、鮮烈な記憶が灰をまとった夜を映したので、深いところへ戻ってゆくためにそれらを覆うことを選択できた。そうしたとしたら、きっと有馬くんはそれ以上のものを私に魅せなかっただろうし、この冷たさはくずれて、この熱さは遠のいて、私は私の彼女に逢いにゆけたのだ。
 でも、しかし。私の前にいるなにか星のようで、宝石のように美しくて、花車な宵の色をしたものは、形をもって私の記憶と繋がる。
 まさか、こんなものが。こんなものに成り果ててしまったというのに、あの清く笑むうるわしい顔はここに。やっと、やっと。あなたに喰べられて見守ることができる気がしている。さみしく。
「みょうじさんのお母さんだよ」
 羽が、私の目の中ではじけて飛び出してゆくのがわかった。透明なそれはずっと私の中にあったから、指先までめぐる血で重くなってしまって真っ逆さまに落ちていった。それでも、古ぼけてしまっていても落とさないようにしたものもあった。
「きれい」
 私の脱力した言葉に有馬くんはそうだねと応えた。とっても静かな声だから、私は、この部屋のベッドで眠りそうな私をもっている。近いのだ、有馬くんの声が。私は、もうさざなみにのまれてしまったのだった。それから、彼が未だに振動を続けるこの手の甲に自分の手を重ねたので、その輝きに二人で触れた。春のなかばに訪れる、髪にとけ込む風のようにさらさらとしていた。
「ほんとうに、そう思う。俺の眼でもよくわかる」
 眠れる気がするんだ。
 息を吸ったまま、すべてが見えたような気になる。すべて。それは知らない海の向こうの世界などではなかったけれど、少なくとも留めてはおけない、今まで通った血のながれのような想いが私には浮かんで見えたのだ。誰かに祈っているような、望むような声色ばかりが耳についた。
 握られた手は上へと連れられてゆき、刀の切っ先はゆるゆると有馬くんの喉についた。そして、かつての私の腹を見透かすような眼を無くして、代わりに私がその眼を受け継いだ。海でも浴びているように寒い部屋で次に見えるものといったら暗色で、私の腕、有馬くんの手、なまなましいあたたかさが残っている。二人、今、それだけ。
「仇」
 共に喉を動かした。氷を通してみるように、うすく、ほそく有馬くんがほほえんだ。私は笑わずにいる。言葉の意味を知っている。怒ってしまいたかったが、すでにその手の内は見えてしまっていた。有馬くんは私の手から自分の手を離していった。とうとう、輝きをつかむのは私だけになる。不思議なことに私の呼吸の通りはとてもよかった。薄荷味の飴をなめたようだった。はあ。そう。この輝きは私だけのもの。
 有馬くんはずっと待っていたのだ。「きみの」私のものになるときを。
 呼吸をするだけで生きてゆけるのなら生きていた。
「呼吸をとめるだけで死ねるなら死んでいた」
 近親憎悪であるのだ。これは遠くの他人ではないのだ。しょせん、根底は同じである。冷たい血もあたたかいなみだも通っていたので、私たちは弱いのだろう。
「殺さないの」
 柄からすべての力を抜いて、親指で軽く倒す。有馬くんはよごれのない喉元を私に見せて、おだやかな空気を吐いた。笑うみたい。と、私は笑った。柄はもうひっくり返って私の手に収まっている。今度は私が刃と向き合った。腕から伸びていた管はぷつりとちぎれてふわふわ下を向いて踊っている。
 だって見守っているからさあ。
 へえ、と全く心のない声で空気を吐かれた。
「すごいね。すぐにでも戦力になりそうだ」
 それはなんのための戦力か。わざとらしく私は考えた。やはり答えはどれも答えだった。あみだくじのはじまりは複数あっても、終わりは一つしかなかった。
 お前の望み通りにはさせない。私たちの望みが叶わなかったのに、私たちを使ってお前がお前の願いを叶えてしまうのは許容できない。人の幸福を呪う。私と同じであって。もしくは少女の頭を繰り返しよぎる、アンデルセンの人魚姫のように私より美しいかなしみでいろ。ずっと。あの時はごめんとそのなめらかな声で告げるまで。ずっとだからね。
 私が死んだあとも。
 とは思ったものの、この喉に当てた刀の柄を握る両の手は細すぎたので、本当にみじめで面白いくらい簡単に止められてしまったのだ。一緒に泡にでもなりたいよ。しかし「死なせない」と叱るように言われてしまった。それからママが「そうだよ」と声をのせてきた気がした。爪痕が痛む。二人してひどい。私もなのに。そう思うのに。
「死なせない」
 死なせたくなかったよ。缶コーヒーでもこぼしたみたいに血を流した。
「それでいいよ」と黎い刃は揺らめいた。よく頑張ったね、だって。頑張らなければいけないのはこれからだというのに。
「ゆるさない」
「残念だよ」
 二度目はない。このこたえに代わりはない。
 ほんとうは一突きで殺してやりたいと、こんなにもきたならしい心をもっていているのに私は有馬くんのしなやかな肌を感じているのだから、ばけものも人間もその心臓はレンジでチンしたみたいに熱をもっているのだろう。自分も、まわりも熱くてあつくてしかたないので、冷ますためにしばしば喰べてしまった。有馬くんは私のママをたべた。そして、私をたべようとしている。私が有馬くんを殺すことによってうまれる眼だとか口許のしわを眺めて、彼は幸せになるのだろう。私も、もうずっと有馬くんをたべたい。たべたいよ。はやく死んでしまえ。こんなにも熱くて、ほんとうはすでに有馬くんの胃液にでもどっぷりつかっているみたいな気持ち。まぼろしの中でも腹をすかせていたのは、きっとそのせい。
「死なせないから」
「うん」
 彼女が私を愛した。それがことこどく私の邪魔をする。夜の残骸にまじって密かに命を手放すこともできない、飛んでゆけない。人のままばけものになる。いったい、死にたいばかりのこんな二人でどうすれば一緒に腹を満たせるのだろうか。死なせないだけでは生きてはいけないのに。夜は朝にはなれないのに。