そう言えば、彼は二時の方を眺めて言った。

「お中元にお前の好きな最中があったぞ」
「えー、何でさっき言ってくれなかったの」
「朝から重たいかと思ってな」
「叩き起こされて山登りするのも十分重たいと思うけど」
「確かに、重いな」
「重いって言うな!」
「うおっ、」

私がじたばたすれば自転車が揺れてそういう意味じゃない!と彼は喚いた。やめろやめろと騒ぐ声がさみしく山の中に沈んでゆく。しかし私の休日のささやかな惰眠を奪った罰だ。

「…ふう、」彼は懲りもせず笑う。
「それにしても早起きは気持ちがいいな、山登りには最適だ!」

それなら一人で楽しく登ってくればいいじゃない。それ位の悪態はつかせて欲しい。
いつものかっこいい自転車をわざわざお母さんの電動自転車に乗り換えて、その荷台に座れと言う。重しにもなるし丁度いいというのが彼の言い分だが、私の眉間のシワは見えていないのか。

どうやら彼には気持ちの良い朝寝坊よりも優先したいことであったらしく、ワクワクした顔で重いペダルを踏み込んだ。おお、と声を漏らしこれはいい具合に負荷がかかるなと喜んだ。私は今度こそと背中をどついてやった。ぐらり、自転車が揺れて尽八くんがぴーちくぱーちくとさえずるけれど、それ以降車体は決して揺れなかった。

「部活は?」
「この後あるぞ!」

不思議だ。これから枯れるほど汗をかくというのに、どうしてこんな朝早くから上乗せしようとするのか。

「ねえ」
「む」
「自転車楽しい?」
「何だ、突然だな」
「と言うかね、尽八くんが突然だったんだよ。サッカーやめたかと思ったら急に自転車乗り始めて、オシャレもやめちゃうし」
「オシャレはやめてないぞ!」

しかしそこでふむ、と尽八くんは唸る。

「ロードは最高だよ!淀みなく進む、滑るようにな、実に効率的な乗り物だ!」

まずいぞ。瞳を煌々とさせた彼の舌は滑らかに滞りなく言葉を紡ぐ。それこそ彼の言う自転車のように。しかし殆どがカタカナとポエティックな言葉で構成されているので親身に聞いても理解がまるで追いつかない。そしてこうなると、ブレーキが効かない、というか、無い。

「クライミングの時、何を考えるかわかるか」「青い空、沸く歓声、そして胸の高揚!」「息は上がる、全身砕けそうでも、走る、限界をとっくに迎えてもまだ前へと足が思いを乗せてペダルを踏む、後輩のクライマーに生きてると感じるとかいう奴がいるが、まさにそれだな」「生を感じる」「その点でやはり山はよいな!」

彼のお喋りは永遠を覚悟させたのに反し、喋り切ってしまったのかうんうんと勝手に納得をしてぱったり止んだ。

しんとする。言葉がなければ気まずい訳でもなく、寧ろ先より穏やかな気持ちにすらなる。葉擦れの中稀にヒグラシの音が聞こえて、ヒグラシの癖に朝鳴くなよ、とかいう訳の分からないいちゃもんに苦笑した。

いつぶりだろうか、二人乗りの自転車はひっそりと山の天辺を目指す。いつからかそこは彼の全てを掻き立てる場所になった。
買い物号もすっかり乗れなくなってしまった。スーパーへの道のりが傾斜のある山道に変わった。いつの間にか尽八くんは神さまになった。
どうしてだろう、山が見渡す中で一番天に近いからだろうか。一番神様に近い場所で、同時に一番彼を神さまとさせる場所だからだろうか。

「お家継ぐの?」

背中がびくりと跳ねる。それでも自転車は揺れない。正しいリズムを保って、静かに前へと進む。

「母さんか?」
「うん、昨日ランチしたって」

家に帰るとケーキ屋さんの包みがあって、お母さんは楽しそうに話し出した。
お昼は尽八くんのお母さんとランチしたの、それで進路の話になって。なまえの志望学科の話ししちゃったけどいいわよね、それでね…
お母さんという生き物は本人の至知らぬところで何とまあ、喋る。

「大学には行く、と思う」「経営学部や商学部ならうちにも役立つだろうし、」「自転車は?」少し間がある。「わからんな」
そしてもう一度繰り返す。
「よくわからない」
尽八くんの前に突如現れた自転車というもの。突然現れて、彼を随分骨抜きにしたもの。何でも知ったように喋る口から「分からない」を言わせるもの。

「なあ、」間を空けて、彼は言う。
「巻ちゃんはプロになるかな」
「だれ、まきちゃん」
「蜘蛛みたいなペダリングでな!」
「その例え全然わかんない」
「真似できないからな、今やって見せられないが、あれはすごいぞ!」
「蜘蛛かあ、」言葉を続ける。「自転車部はみんなそう言うのあるの?」
「む?」
「鬼とか、運び屋とか、鉄仮面とか」
「鉄仮面は違うだろう!」
「尽八くんは山神」
「ハハ、俺だけかっこよすぎだな!」

かっこよすぎる山神は最近めっぽう嘆いておられる。「どうして俺はこんなにも恵まれているんだ!ワハハ!」「これでは選ぶのにも一苦労、神は俺を神にするつもりなのか!」とまた例のごとく、しかし何処か鬱を残して。
神さまでも、進路に悩む。

「なあ、」また言った。なあ、なまえ、この人はいつだって私にそういう口をきく。私に答えを仰ぐ。
「神さまはいると思うか」

ほらやっぱりだ。それに何だってこの人はこう言った話を突然にするのだろう。
サンタさんはいるの?それとよく似ている。サンタはいると思いますか?イエス、バージニア。サンタはいます。では神さまはどうだ、しかし、神さまは彼だ。

「神さまは尽八くんでしょ」
「ふむ、そうだな」

私は漠然と尽八くんが神さまなのだと思う。しかし彼は納得していない。彼の神様は他にいる。
例えば遠足の時に転んだ尽八くんが大泣きをした時があったが、その時突然バケツをひっくり返したような雨が降った。尽八くんの指す「神様」はきっとそういう類だ。だけど、私はその時から掴みきれない漠然を彼に寄せている。漠然とした神さま。

いるのか、いないのか。その疑問は不満の裏返しだろう。決して口にされない、もしかすると言葉として形にすることを恐れているのかもしれない。彼は彼の理不尽にどう折り合いを付けるか戸惑っている。
神様は尽八くんに特別たくさんのものを与えた。それが電動自転車や私なんかよりよっぽど重しになっているんじゃないのか。天を睨んだ。例えば私をとびきり美人にすればよかったんだわ。
お節介と分かっていても、複雑な顔で玄関を叩いた彼の顔を見たら何とかしなくてはという使命感が湧いた。私もまた気持ちの良い朝寝坊よりも、こちらを優先している。

「尽八くんが頑張ったらきっと神様は見てるんじゃないかな、こいつ頑張ってるな、応援しようかな、みたいな」
「そんなものか」
「そうそう」

そうだ、尽八くんは神様ではない、そんなものにはなれない。もっと誰かと競いたくて、一番になりたくて、そう言う単純で普通の男の子。

ふう、と息を吐いて途端にきゅんとスピードが上がった。周りの景色が油絵のように流れる。

「やっぱり今のは無しだ!」

くるりと振り返ってにいと笑った。 情緒を帯びる儚い瞳ではもう無かった。ホッと一息ついた自分がいる。

「大体俺は巻ちゃんと決着を付けねばならんのだ、そっちの方がうんと楽しくてずっと大事なことじゃないか!」うんうんと大袈裟に頷く。またしても彼の一人芝居が始まった。
そして前を向き直ったはいいが、両手を離し天を睨む。さっき私のしたような恨めしい意味はない。天を見ていておいて、自分に心底酔いしれているのだ。それでも自転車は正しく進み、私の動揺だけグラグラと揺れている。

そうだ!彼は叫んでこちらをまた振り向いた。今の尽八くんからは落ち着いた状態でいるという概念が、ごっそりと削ぎ落とされている。

「お前も余裕があれば勉強の合間にでも見に来るといい。俺の登りは見るだけでも価値があるからな。何たってラストクライム!スパイダークライムの巻ちゃんもいるぞ!それと、その時はちゃんと熱中症対策をしておけよ、お前は何の準備もせずにいつもへろへろになるのだから…ああそれとだな…」

もう今度こそ彼の口は止まらない。永遠だ。仕方なく私も同じように笑う事にする。

ラストクライム、横文字が大好きな尽八くんが最近取り憑かれたように口ずさむ魔法の言葉。それは三年最後の、それとも、そう考えてからやめる。彼が後回しを決めたからには、私もそれに準ずるべきだ。

自転車は山を登る。靄がかった道をまっすぐに進む。
揺らぎもしない自転車が、少しだけ恐ろしかった。神様、いるといいね。こっそり私は思う事にした。