/現代パラレル


 十二月はじめの深夜、自動販売機の隣のベンチは冷えている。購入したココアの缶は熱いが中身はあまりに不味い。飲むためでなくただ暖を取るためだけに買った。吐き出した息は白く浮かんで自動販売機の光にあてられ夜に消えていくのが見える。じっとしていると寒くてたまらなかった。膝を抱えて土足でベンチに三角座りをしたら腰のところで折っていたプリーツスカートをもとの長さに戻して脚を覆うようにした。いくらか寒さがましになる。
 自宅のあるアパートから十数メートル離れた公園。聞こえるのは自動販売機の稼働音と、向こうの道路を走っていく自動車の走行音。冬は冷たく虚しい。風がふけば耳と頬が切れるかと思うほど痛く凍える。
 どうしてこんなにも居場所がないのか。
 待つ人間の気持ちなどあの人は知らないのだろう。数分待つのではない。確実にきてくれることを知って待つのではない。せめて三十分後には集合場所に現れるようなことではない。二日後には会えるという確証はない。一日、あるいは一週間、半月、もしかすると一か月、それでもなければ半年、一年、途方もない年月。一生。一生というのは大げさだが、ときどきふとそんな気になる。
 一年待つのでも、一年後に会えると知っていればなにもこわくない。一年という長いようで短い月日を孤独にすごせばいいだけだ。でもそうじゃない。あの人は、いつ帰ってきてくれるのかわからなかった。あの人は、今度また会えるかもわからない人間を、しかしおのれはただ待ち続けるしかないという人間になったことがない。だからそんな人間の気持ちのことは微塵もわかりはしない。プライベートだろうが仕事だろうが、用事があるのだからしかたないといって済ますのはあまりに容易すぎる。それは正しく立派な理由になるが、結局、それは待つしかない人間のことを理解できない人間だという証明だ。
 あの人は元来真面目な人だから、怒ることも気が引けるほどだ。同居人がいつ帰ってくるかもわからないあの小さな家は、いつも不在で満たされている。私はやり場のない感情に四方から囲われ、逃げかたもわからず逃げ続けている。一言いえばいいのか。淋しいだとか。そんな気持ち悪いことをいったい誰がどんな顔をしていえるのだろう。あの人はあれでも私の保護者だ。私は庇護下にあるのだから、家があり、教育を受けさせてもらい、養われている以上、それ以外はなにもない。私がそれ以外を求めるのは奇妙だし、汚いのだ。醜い。そんなことはできない。してはいけない。
 連絡くらいしてといったことはあるが、それさえ調子に乗っているかもしれないと考える。結局、わかったといってくれたあの人は、その約束も二日後には破ってしまったからなかったことになったけど。
 ココアがだんだん冷えていく。髪が顔に重なって鬱陶しい。風はやまない。冬のさえた不思議なにおいが鼻先をかすめていく。
 寒いなら家に帰ればいいが、帰りたくなどなかった。こんな気持ちになったことがないだろうあの人が、唐突に憎くなる。こういう感情すら、あの人は知らないに違いない。それを考えてまた憎くなる。私は子どもなのだろうか。好意が好意のみで成り立つようなことがあるのだろうか。私には想像もできない。
 ベンチに膝を抱えて座っていても寒くて耐えられず、光に群がる羽虫のように自動販売機に惹き寄せられる。携帯電話も家に置いてきたから時刻は定かじゃない。でもたぶんそろそろ零時をまわるだろう。学校が終わって一度帰宅するとすぐに財布だけ持って出てきた。夕方からこうしてふらふらしていたから、少しは疲れて眠気も襲ってくる。でも寝ようとすると寒さに叩き起こされる。
 赤い自動販売機の側面にふれると若干あたたかくて、汚いが道路に座り込むと自動販売機に寄り添うようにくっついた。
 誰かきてくれと思う。
 都合のよさだけは一人前で、こういうときに見知らぬ誰かが私を見つけてくれないかと思う。
 あの人を待つのに疲れてしまったから、あの人じゃない誰かに会いたい。
 不思議なことに、本当に会いたい人間のことは、どうでもいい人間で上書きしようとしたくなる。私が若いからだろうか。
 風ばかりが通りすぎていくのを、ふと誰かの足音が遮った。このあたりに住んでいる人間だろうと知らぬふりをしていたら、自動販売機を利用しにきたらしく足音は近づいてくる。
 大人は子どもを子ども扱いする。「よい大人」というものは、子どもを心配できる大人だと、大人は思い込んでいる。だからこうしていかにも駄々をこねたような子どもを見つけたら善良ぶった面をして声をかけてくるだろう。そういうのが一番気持ち悪い。だから大人は嫌いだ。
 立ち上がって自動販売機からそっと離れると、足音の主が街灯を浴びて視界の端に見えた。なぜかうしろめたい気持ちでうつむきがちに去ろうとしたら、案の定声をかけられた。
 でもその声が、「きみ」とか「どうしたの」とか「なにしてる」とかじゃなく、私の名前を呼ぶものだったので、私はぎくりとして立ち止まるしかなかった。しかも、聞いたことのある声だった。
 神様が、私のことをようやく愛してくれたのかと思った。
「いつからここに?」
 その人は、自然な足取りで近づいてくると、長いコートのポケットから片手を出した。最初は自動車のキーだと思った。街灯で照らし出された銀色の鍵が、私の持つそれと同じものに見えて、私はなぜだか酷く失望したくなった。
 愛のことなど知りもしないで、しかし私は私を愛されていない人間だと確信していた。
「……エルヴィン……」
 あの人の施すどんなやさしさも、押しつけでしかないのだと。
「家にいったらきみがいなくて寿命が縮まるかと思ったよ。少し待ったが帰ってくる気配はないし、鞄は置いてあったから学校じゃないようだし、リヴァイになんていおうかってね」
 押し黙って振り向き様の中途半端な姿勢で固まっていると、彼は着ているコートをおもむろに脱いで、私に羽織らせた。
「きみのことを頼まれた。しばらく帰れないそうだ」
 いわれなくてもわかっている。だから、口にされるとよけいに腹が立つ。
「あっそ……」
「まあそう拗ねないでくれ。いろいろ買ってきたんだ。たしかきみはハーシーのキスチョコが好物だったね」
 あの人はときおり思い出したようにこうしてあの人の知人を寄越す。私が家に一人ではかわいそうだと思っての行動なのだろうが、なにをいまさらといいたくなる。あの人のなけなしの良心を、勝手に守っているだけだ。わずらわしいだけの知人を寄越すくらいなら、完璧に放っておいてくれたほうがやさしいのを、傲慢だから知らない。
「ハーゲンダッツのアイスもある。ずいぶん冷えてるじゃないか。帰ろう」
 大人然とした落ちついた声音でいわれたら、なにもいえなくなる。促されるまま足を動かし、その人に連れられるように家までの途をたどった。
 二人で住むにはいささか広いアパートの一角。そこは新築でまだ人がはいっていない部屋のほうが多いほどだ。駅から少し遠いのと、最近新築されたここより条件のいい集合住宅が増えたのとで入居者が新たにはいる気配がない。おかげで静かだ。
 奇麗な階段を上ると二○一と打たれた部屋のドアを、私をあの人にいわれて迎えにきた彼があの人に渡された鍵で開けた。キーホルダーもついていない、落としても目印がないからわからないような鍵。前になにかつけたほうがいいといったら、じゃあ適当につけとけといわれたのを思い出す。それでいらないキーホルダーを渡したはずなのだが、それはつけられていない。
 銀色の奇麗な鍵。
「真冬にアイスって変なの……」
 ふと呟くと、ドアを開けた彼がそれを拾ったらしく「そういえばそうだな」と苦笑した。
「あったかい部屋で食べるアイスもなかなかうまいよ。それより、夕食は食べたのか」
「まだに決まってるじゃん」
 断定的なものいいをするのは、子どもだと体現しているようなものだ。八つ当たりのようなもの。わかっていてもほかに感情をぶつける相手がなくて幼稚な態度になる。
「もうこんな時間だが、なにか食べるかい。一応カップ麺やいくつか出来合いのものを買ってきたんだが……」
 こっちは本当にいろいろ充実してて便利だな、といいながら高そうな靴を玄関で脱ぐ。隣に脱いだ自分のかかとを潰したスニーカーがやけに子どもっぽく見えた。
「コンビニを利用したら、たいていのものは揃うね。しかもコンビニがそこらじゅうにある」
 羽織らされた長いコートは引きずってしまいそうなほどで、すぐに脱いで玄関脇のポールハンガーにかけようとした。するとそれをうしろからのびてきた長い腕が簡単にさらっていき、「きみは先に部屋に上がっておいで。早くあたたまるべきだ」と彼がいった。
「いつこっちに戻ったの」
 帰国というと少し変な感じがする。なにしろ彼は金髪に青い目の紳士だから、血筋は海外のものだ。出生については私は聞いたことがないが、一応国籍は日本だったはず。ただ、普段はほとんど海外にいて、そちらで仕事をしていると聞いている。だからなのか、生来のものなのか、彼はとてもジェントルマンだ。英国紳士を絵にかいたような人物で、同じように長く海外で過ごしたことのあるあの人とは大違いだ。あの人は、実際髪も目も私と同じ黒で、アジアの血筋だが。照れくささよりも、慣れがまさる。けれどそういう穏やかで紳士的態度がふとしたときに気に食わなくて、私はわざと好意を無視して話しかけた。
「つい三日前だ。リヴァイがそれを知ったのは今朝でね、なぜもっと早く知らせなかったと怒られたよ。早く知らせれば、より早くきみのもとに遣られるところだったってわけだ。ただ、私もこっちで野暮用があってね。それを済ましてから連絡したら、いうのが遅いと怒られてしまった」
 ハンガーにコートをかける彼の腕の下で、私は「ふーん……」という気のない返事をした。内心ではあの人に対する罵詈雑言が炸裂しているが、それはせめてもの意地で口には出さない。聡い彼は、私がわけもなく怒っていることをおそらく勘づいている。でもそれが、どれくらい込み入っていて面倒な感情の具合のものなのか、さすがにわからない。だからきっと、彼は私のこれを子どもの拗ねや淋しさからくる甘えだと思っている。それは都合がいいが、当人からすれば非常に憎らしい解釈だ。
「向こうは、寒かった?」
「そりゃ、ここより北に位置するからな。きみに会うと知ってれば土産の一つでも買ってきたんだが」
 キスチョコに関しては輸入食品を扱っているショップで買ったのだろう。近頃は品揃えのいいスーパーでもたまに見かけるし、駅のスーパーにもよく置いてある。私の小さい頃はけっこう貴重な外国土産だった気がするが、いまでは案外簡単に手にはいるようになったようだ。
「いいよ。ほしいものなんてない」
「昔はなんでもほしがったのにな」
 肩に手を載せると、彼は私をやさしくキッチンのほうへ押した。それでも私はなるべくやわらかくその手を振り払い、自ら廊下を通ってキッチンまで出、居間の暖房のスイッチをいれるとソファーに腰を下ろした。睡魔はいつのまにか遠のいて、意味もなくローテーブルの上のテレビのリモコンを手にして電源をいれる。いつも消音にしてあるそれは、液晶画面に知らない芸能人を映し出して薄暗い室内を照らし出した。キッチンに立った彼が電気を点ける。「いつもそうして観てるのか。目に悪いよ」キッチンのテーブルの上には彼が買ってきたというビニール袋のなかにたしかにいろいろとはいっているのが見えた。忙しなく切り替わる映像が、音もなく騒がしく居間を照らし立てる。その赤々とした光を浴びて、徐々にあたたかくなってきた室内で聞こえないよう息を深く長く吐き出した。人がいると、落ちつかない。だから本来一人は好きだ。あの人が帰ってきたところで私はたいして満足はしない。しかしあの人の不在には薄い憎しみを覚えつつある。かといって、別の人が空白を埋めたところで、違和感が不在に上塗りされるだけだ。どうにもならない。どこか最初のほうで、なにかが、少し、たがえてしまったがために。
「ココアでも飲むかい。腹は減ってないんだろう」
「うん」
「明日は……えーと、金曜日か。学校だな。朝は何時に起こせばいいかな」
「いい。自分で起きる」
「朝食と、弁当は?」
「いらない」
「それはまずいな。リヴァイに怒られる」
「なにそれ。なら怒らしとけばいい」
 彼が苦笑するのが気配でわかった。キッチンの整理整頓された棚から小さめの鍋を取り出し、冷蔵庫から牛乳とココアの缶を取り出しながら、私の子どもっぽいのを笑っている。かといって笑い飛ばせるものじゃないから、若干の呆れを交えて。やめて。気持ち悪いから。
 そんなふうに笑われてしまう、私が。
「向こうで教えてもらったんだ。美味しいココアの作り方」
 沈黙が好きだ。むやみにコミュニケーションを取ろうとしなくていい。そんなのはひたすらわずらわしい。けれど彼はわざと話しかけてくる。あの人は寡黙というのには横柄で、しかし沈黙を作り出すのが得意なくらいには無口な人だった。無愛想というのが正しく、庇護対象である私を前にしてもあまり心を開いたようすもなく、昔から顰め面をして見下ろすばかりだった。
 でも慣れてしまえばそれの心地よさはなににもかえがたいと知った。静寂ではない許された沈黙が、どれほどの価値のあるものなのか、なかなか誰も知らない。無用の音はこの部屋にも私の耳にも要らないのだ。それがどんなに穏やかで柔和な大人の声でも。
 ちょっと気を許し合った程度の他人と仲よく深夜におしゃべりをするほどの心はなかった。
「学校はどうだ。そういえばこの時期はもうすぐ期末試験とやらじゃないのかい」
「うん」
「テスト勉強はしてるのかい」
「べつに」
「難しいところがあったら教えてあげようか」
「いい」
「そういえば明日は雪だそうだ。風邪を引かないようにしないとな」
 なにも答えなくなっても、彼はまるで意に介したふうではなかった。思春期の女子高生とはこういうものだと思っているのだろうか。なんだっていいし、彼が自分を軽く見ているわけじゃないことも馬鹿じゃないからわかるつもりだ。しかし、私はどうしてもそういう考えをぬぐえなかった。だからいつも、あの人といるときでさえも、私は、私を扱いやすい単純明快な仕組みのように、つまり子どものように、扱われるのがいやですべてがいやになった。
 不在を咎めたい心がある。それなのに、あの人がいて、なにかささいな会話を交わすとき、私はかならず顰め面で棘を立てる。あの人の顰め面を真似するみたいに。
「そら、できた。最初に一かけらのバターでココアを練るんだ。するとグッとうまくなる……飲んでごらん」
 とてもいいかおりのするココアのはいったマグカップが渡される。彼はそばに立ったまま自分のぶんのココアの濃厚なかおりを楽しむと、口をつけた。
 自動販売機で売っているココアとは格段に違っておいしい。でも私は「バターなんて太るじゃん……」と文句をいった。「女性は少し太いくらいが魅力的なものだ」彼は相変わらず、向こうの紳士のようなことを真顔で真面目にいいのける。
「どうだ?」
「べつに……おいしいけど」
「よかった。じゃあそれを飲んだら寝なさい」
 あの人より、よほど親のよう。
 けど、なに一つ親らしくなかったのが、私にはよかった。素直に好きだった。
 わかっている。結局、なにもかもあの人のことは責められない。

 朝になって、寝不足のままソファーで目が覚めた。時刻を見ると午前九時を優にまわっていて、遅刻は決定だ。私はそんなことまったく気にせずのっそりとソファーから起き上がると、いつのまにかけられたのか毛布がぱさりとからだから床に落ちた。キッチンからは、パンを焼いたいいにおいがしていた。それとコーヒー。怒られるかと思って最悪な気分でそちらを見ると、彼はコーヒーを口にしながらおはようと穏やかにいった。
「疲れてたようだから起こさなかった。学校には連絡しておいたから休むといい。たまには悪くないだろう……しかしリヴァイには内緒だな」
 そういえば、彼にはそういうところがあった。自由でおおらかな精神。こっちでは咎められるようなことも平気でする。私はラッキー程度の感覚で、あくびを噛み殺した。「どうせあいつに知られたってどうもしないよ」どうしても嫌みないいかたになってしまう。ほかになんていえばいいのかわからない。
「そうなのか? てっきり、彼はこういうことには厳しいものだと思ってたんだが」
「迷惑さえかけなきゃそれでいいって感じだもん。退学とか停学とかにでもならないかぎり、裏で煙草吸ってても怒らないんじゃない? べつにいーけど」
「そうかな」
「そうだよ」
 一度起こしたからだを再びソファーに横たえた。「まだ眠いのかい」答えない。
「朝食は作ったが……あまり寝すぎると夜に眠れなくなるぞ。あと一時間したら起こしてあげよう」
 甘やかすなよ。やさしくするのはなぜなのだろう。大人だから? 友人の、子どもだから? 血の繋がりなんかないけど。
 不快感が、心地よさとともに打ち寄せる。ぜんぶ無視したら、睡魔に襲われるまま二度寝をした。
 ゆるい眠りのなかで、何度か、ずり落ちた毛布をかけ直す手が、浅い意識の外側で私をやわく揺すぶった。
 やさしいのが嫌いなのはこわいからで、こわいのは私が子どもだからなのだろうか。
 ちょうど午前十時を三十分すぎた頃、エルヴィンは私を呼んで起こした。まだコーヒーのかおりが漂っていて、鼻腔をかすめるそのにおいに惹かれるようにまぶたを開けた。もったいないくらいの安寧の遅い朝、閉めきられた窓の向こうで雪が音もなく降っているのに気づいた。風の音だけ硝子を奇麗に鳴らしていた。
「朝食、食べるだろう。顔を洗っておいで。きみはコーヒーじゃなくて紅茶だったな」
 至れり尽くせりなのは、彼の昔からの習慣みたいなものだろう。私の世話をするとき、彼は親戚の叔父さんというより、孫をかわいがる祖父のようになにかと手厚くやってくれる。ふいに思い出すのは、小さな頃、彼といた時間のほうが長かったから、「世界で一番なのはエルヴィン」で、「二番がリヴァイ」だったことだ。それをしきりに公言しては、喜んでくれるエルヴィンがあの頃は単純に好きで嬉しかった。そして、「リヴァイの前ではいわないように」とやんわりと釘を刺すその意味がわからず、私はそれでも素直に肯いていた。そもそも、そんな話をする機会がなかったからその心配はいらなかった。あの人は、いまよりもっと、あの頃家にいなかった。それなのに、いまでは古い記憶に登場しないあの人が、どんなに頑張って嫌いなところを数えだしてもよくも悪くも私の「世界で一番」で、「二番」は昔から私によくしてくれたエルヴィンになってしまっていた。私は恩知らずかもしれない。それに、この気持ちの悪い感情は、もうこれ以外どんなふうにも育てない。
 好意が好意のみで成り立っていたのは、「二番がリヴァイ」の頃だったのを漠然と思い出した。「二番」でも、あの日の私は全力であの人が好きだった。あの人が帰ってくるのを純真な心で待っていた。あの人を本当に慕っていた。
「きみが二度寝する前に焼いてしまっていたから、パンはフレンチトーストにしたよ」
 自分で用意するとたいていコンビニで買ってきた惣菜とか即席ラーメンとかになるから、彼が用意してくれた食事はなにかとてつもなく幸福な食事に思えた。彼がゆうべ買ってきたというカップ麺類は今後のごはんにしようと考える。
「……今日って何日だっけ」
 顔を洗ってくると食卓についた。目の前でコーヒーを飲みながら書類を手にする彼を見ずに、焦げ目の奇麗についたフレンチトーストを見下ろしたまま聞いた。
「四日の金曜だ。どうかしたか?」
「ううん……べつに」
 書類から目をそらして彼が私を見るのがわかった。唐突な問いに意味がないと思わなかったらしい彼は詮索こそしないが、どういう意図があるのか汲み取ろうとしているようだった。汲み取らなくていいのに。
「いつぐらいになるの」
 耐えきれなくて私からいった。
 彼は最初脈絡のなさに戸惑い、言葉を咀嚼するために多少の時間を要した。
「ああ、それは……」
 濁る。しかたない。つい聞いてしまったが、いつもわからないのだ。聞くだけ無駄だし、彼に気づかわせるぶん気まずくて居心地が悪くなるだけだ。
「一週間かそこらだろう。今年中には帰るはずだよ」
「ふうん……そう」
 どんな反応をしたらせめて最も気をつかわせないか考えるのに、毎回同じような態度になる。事実拗ねてはいない。そのはずなのに、いかにも拗ねているかのような返答。恥ずかしい。惨めだ。
 私はいつになったら大人になれるのだろう。さまざまなことに折り合いをつけ、割りきることができるように。
「淋しいんだろ」
 向こうでは、プライベートはきっちり分けられているらしい。何事にもおおらかで、人間関係がこっちよりずっと明け透けに思えるが、人のプライバシーを侵害するような行為がなにより嫌われる。基本的に個人主義だからだ。むろんそれは一般にイメージされがちな自分勝手な頑固者という意味とは到底遠い。個人主義をみなが大切にしているからこそ、個人をなにより重んじる。そして、だから向こうの紳士はとても気が利く。やさしい。親身で、気づかいがうまい。心を開くのが一等得意で、それにわずかな悪意もない。私にはそれがまずい。
「なにが」
「親と子ってものは本当に似るんだな。意地っ張りなところはそっくりだ。リヴァイも私がそういうといまのきみのように睨んで怒ったよ」
「…………」
「しかしきみがリヴァイと違うのは、彼より少し繊細なところだ。実は私は彼よりきみのことをよく知っているかもしれない……彼はきみに泣かれると相当困ってしまうだろうな。私は慣れているが」
 感情が高ぶると涙が出てしまうのはヒステリックな女によくある。私はそれがひどくいやでたまらないのだが、複雑な感情とともに自分がいま泣きそうな顔をしているのはたしかだと悟る。あの人の前でもよく泣いた気がするが、それよりもっとエルヴィンの前では泣いた。エルヴィンはいつも慰めてくれたが、あの人はどうだったっけ。
「べつに泣いてないんだけど」
「そうだね。しばらく会わないうちに気が強くなったみたいだ」
「……おじいちゃんみたいなこといわないで」
「……お父さんの間違いじゃないか?」
「おじいちゃんみたいだよエルヴィン」
 少なからずショックだったらしい。だったらあの人はどんな役回りになるというのだ。まさか母親か。家事は彼より得意だし、背丈も低いし肩幅もあまり大きくないけど……あんな腹筋が奇麗に割れた母親はいやだ。目付きもとびきり悪い。
「……じゃなくて、もうそうやって小さい子どもみたいに扱わないでよ」
 本当はずっとこういいたかった。あの人にも、目の前の彼にも。わからなくなる。私は子どもじゃない。誰かの手を借りなくては歩けないような子どもではない。年齢とか、精神とか、肉体とか、そういう意味においてもだし、なによりあの人ともエルヴィンともいっさいの血縁などない。どんな意味においても子どもではなかったのだ。それなのにそういう扱いが当然のようにされると、混乱する。私はどうすればいい。
 昔、順位を決めてみたけれど本当はそんなの関係なく二人とも好きだったあの頃、私は本当にあらゆる意味において子どものように二人の前にいた。
 でもいまやもうそうではないのだ。エルヴィンには好意的だし、とてもいい知人だと思っている。家族というのは私には難しいから容易くはそんなふうに彼を呼べないのが少し悪く思うくらいに、彼のことはよく思っている。
 あの人は、保護者でも知人でもなく、あの人として私はたしかに好きに違いない。しかし好意の裏には嫌悪がある。あの人のすべてが憎らしく思っている。子どもだった頃のように、私はただあの人を好きではなくなった。
「でも、私にとってはきみはまだ子どもだ。たしかにもうそろそろそんな年ではないが。あっちじゃ、もう他所へ自立させに遣っている年頃だろうな。けどここは日本で、私は私だから、悪いがきみのことをもう子どもじゃないと放ってはおけない。それに、きみが成人して誰から見ても大人だといわれるようになったとしても、私にとってはきみの位置は変わらないだろうな。きみはそこだよ」
 あまりに丁寧で穏やかにいわれては、反論するだけ私がいっそう子どものようではないか。
 腹が立って不快感に手にしたティーカップをソーサーに叩くように置いた。窓には結露していくつもの細かな水滴が浮かんでいた。かすむ窓の視界の向こうに雪が薄くうすく積もっていく。
 あたたかな部屋だ。なんの気兼ねもなく、私はきっとここでくつろぐことができるだろう。それができないのは、ただ、私が我が儘なだけなのか。
「しかし、小さい子どものように扱ったと思わせたのなら謝るよ。私はなるべくきみを傷つけないように接したつもりだった」
「……なにそれ……キモい」
「あんまりそういう言葉を使うもんじゃない」
「うるさい」
 喧嘩になるのはひどく厄介だし疲れるからいやだった。第一かならず喧嘩になるときは私から仕掛けているのだ。仕掛けたくて仕掛けるわけじゃないが、あの人や彼の私に対するほとんどすべてのものが許せない。どうしてこうなのだろう。喧嘩なんて疲れるだけだ。放っておいてくれたらそれで済むのに。
 放っておくということを、彼はしない。そしてあの人は、私を実際に放っていってしまうというのに、そのたび私はあの人に放されることなどない。
「すまない。軽率だった。きみもリヴァイも言葉にしないから伝わらないのだと思ってね。私がどうにかすべきだと思ったんだが出すぎた真似だったようだ」
 私の顔はわかりやすく怒っているだろう。せめて席を立たないのは意地だ。風が鳴らす窓硝子の冷たく高い音が、乾いた空気に響く。
 急速に冷めていく。私は私がこんなにもいやになる。
 なにをしているのだろうと思う。なにがしたいのだろうと思った。
 涙は流したりしないが、はなを啜ると「淹れなおそう」といって私が乱暴に置いたせいで若干こぼれた紅茶のカップを彼がソーサーごと取った。
「いい。まだ飲めるじゃん」
 馬鹿みたいに止めて、カップを奪った。エルヴィンは困ったような顔をして、ソーサーをテーブルに置いた。
 恥ずかしかった。私の感情の表側半分は、彼にバレてしまっているのだと。
 午後になって、雪はやんだようだった。しかしベランダの柵や外に広がるアパートの庭にも雪は薄く積もったままで、空も鈍い青灰色が遠くまで続いていた。しばらく自室に込もって腐っていたが、飽きてベランダに繋がる戸を開けた。風が舞い込んできて部屋が一気に凍え出す。真冬の空気は皮膚に張りつくように凍てついている。息はみるみる白くなり、アパートの庭から繋がる誰も通らない細い道路と周囲の代わり映えしない建物群を眺めた。雪のおかげですべてがなにかそれなりのオブジェのように見えなくもない。こっちはどこの家もたいていエアコンか電気ストーブがあるが、向こうには暖炉があったりするのだろうか。仲直りしたら聞いてみようと思った。仲直りなんてするまでもなく、たぶんエルヴィンは答えてくれるだろうが。
 いつか帰るだろうが、いつ帰るかわからない人間を待つしかない人間のことを、エルヴィンも知らないだろう。それを責める正当な理由などどこにもないから、口をつぐむだけだ。そしてこれを臆病だと誰かに罵られたら、私はなにもいえずに立ち尽くすしかない。
 ベランダは横にのびて、居間から続くベランダに繋がっている。そちらの戸が開いて、エルヴィンが出てきた。ソファーに座っていたらしいが、そこから窓越しに私が見えたのだろう。
 黙って柵から下を見下ろし続けていると「怒っているか」といわれた。なにも答えたくないが、大人げないのがいやで、渋々口を開く。「べつに」お得意のセリフだった。逃げと差異ない。「怒っているなら怒っているというべきだ。私はきみに怒られても怒ったりしないし困ったりしないよ」
 向き合おうとする彼の強さが鬱陶しい。でもはっきり振りきれない私は甘ったれだ。私が一番嫌いな種類の人間だ。
「ここは寒いな。部屋に戻らないか?」
「好きにすればいいじゃん」
「きみが戻らなきゃ意味がない」
「知るか」
「じゃあしかたない。寒いのは我慢しよう」
 それで、絶対に逃げない彼のせいで、私は私のできないことを知った。こわいことを知らしめられる。彼と長ければ長いほど話をするのがこわい。あの人が帰ってこなくて、でも文句の一つもまともにいわないのは、それをいうのがこわいからだ。私のできないこと。
 でも結局私はなにもいわなかった。十分もしたら寒さに負けて部屋に戻った。彼も戻ったようで、答えなかった私を詰ったりはしなかった。やさしい。やさしいのは嫌いだ。
「翌週には帰らなければならない。日曜の夜にはここを出るよ」
 夜、彼がいった。早く帰ったらいいと思いながら、いざ彼が帰るのだと知ると、私は呆然としたくなった。
 冬は寒い。寒さが、この部屋の不在を助長する。

 日曜の日暮れ、エルヴィンは私の家から一度自宅に帰って荷物を纏めてから飛び立つようだった。アパートの廊下には休みのあいだに積もった雪が溶け残り、灰色の空からかすかに漏れる薄ら日に照らされて光っていた。オレンジの夕日は灰色の厚い雲をなんとか透かすが、それは頼りなく、風ばかりが空気をかきまぜて膚を冷やしていく。冬のさえたにおいが彼の長いコートの繊維のにおいをさらっていく。
 なにかいおうと思うのになにもいえなくて、私は玄関でかかとを潰してスニーカーを履くと、とりあえず廊下まで身を出して見送った。
「フライト中は出られないが、なにかあったら電話を寄越すといい。連絡先は教えたね。話し相手にならなれるだろう」
「いいよそんなの。バカみたい……話すこともないし」
「はは、けっこう辛辣だな」
「次はお土産買ってきてよ」
「ああ、そうだな。またこっちから連絡するよ」
 手を息であたためた。彼の大きな背中が遠くなると私はさっさと部屋に戻った。彼が振り返ろうとする瞬間、私はバタンとドアを閉めるのだ。



 夢とはいつもたいてい奇妙なものだが、初夢もそう変わらないらしい。特別な夢をみたという印象もなく、うすぼんやりとした輪郭のみを残して目覚めた。一月二日。世間は三が日。あっちでは毎週日曜日と年末年始はかならず誰もが公平に安息日で店なんかどこもからきしやっていないが、こっちでは年末年始もテレビも店も大にぎわいだ。消音にしたままのテレビを点けてなにをいっているのかわからないが赤々と映る騒がしい映像を年明け二日めのおめでたい朝に薄暗いリビングで見る。冷蔵庫の牛乳を適当に電子レンジであたためるとソファーに座り、やがてホットミルクをテーブルに置くなり横たわり、足を投げ出して、だらりとだらしなく寝転ぶ体勢にはいった。皓々とリビングのテーブルやソファーの影を作り出すテレビの明かりを受けて、中途半端に開けられたカーテンの向こうには乾いた冬の彩度のない風がふいているのを硝子の鳴る音で感じる。暖炉の効いたこの部屋はあたたかい。ソファーにうつぶせになって腕を枕にして頭を載せる。今年中にはというエルヴィンの言葉はあっさり嘘になった。エルヴィンは昔から嘘つきだ。きっと彼は嘘のつもりなどないのだろう。あの人が彼のやさしさを嘘にする。
 期末試験の結果は散々だった。ろくに授業もまともに受けず学校にも出席数稼ぎにしかいかない不真面目な私は特別賢いわけでも記憶力がすぐれているわけでもないので勉強しなければ試験は毎度散々だ。でもひどい点数を取っても誰に叱られることもないので気がらくだった。そうして期末試験がいつにもまして悪かったので担任に呼び出されて心配されたが私は補習はすべてさぼって終業式だけきちんと朝から登校したのを思い返す。二十一日の正午すぎに式が終わったら、本当は少しだけ期待していた。そろそろ帰ってくるのだろう。冬季休暇がはじまれば、きっと帰ってくるのだろう。年末年始はいくら日本だってたいていの企業は休みだろう。
 いくつになっても、人はそんなに変わらない。経験してきたこれまでの冬を私は忘れてしまっていた。
 そしてまたあの人への弱い憎しみが静かに底を増していく。
 不貞腐れるのもずいぶん前から飽きて本を読んだり漫画雑誌を読んだり、あの人が帰ってくるなり絶対にきちんと整理整頓していく部屋のいたるところから適当にものを引っ張り出してもとに戻さずにおく。キスチョコを食べたあとの銀紙をゴミ箱にいれずテーブルにくしゃっと丸めて放っておいてから数日。まだ捨てずに置いている。残りのキスチョコの包みを剥いて舐めずに噛んで食べながら、脱ぎっ放しの靴下がクッションの下敷きになっているのを見て少々眉をひそめた。人間たいていのものは汚いのより奇麗なのが好きだろう。好き好んで不衛生な場にいたいと思わない。だけど無視して、キッチンのシンクにもカップ麺の食べ終わったからの容器やいくつかの食器が四日ほど手をつけられず溜まっていた。そろそろ悪臭を放ち出す頃だ。
 学校の課題にもまったく手をつけず、七日を迎える。木曜日という週の終わりかけの日が大嫌いな始業式だった。何度かあてつけにでもエルヴィンに国際電話をかけようかと考えたが気晴らしにもならないと悟ってやめた。どんな素敵な会話をしても違和感が襲来するだけだ。高額の費用もよく稼ぐあの人にとったらたいしたものではないだろう。私はもうそろそろ違う声が聞きたかった。たとえば昔手紙を書いたことがある。それはあの人がエルヴィンとともに海外へいっていたときのことだが、エルヴィンにいわれて電話のかわりに手紙を書いたのだ。すると返事が返ってきて、走り書きの内容のごく短い手紙を読んだとき、私はとてもしあわせだった。それを前に唐突に思い出して抽斗から出して読んでみたら、なぜか無性にくしゃくしゃに丸めて捨てたくなった。予定より一週間遅れる。ちゃんとメシを食ってクソしてよく寝てろ。十三歳だった私は喜んだが、いまの私は男性らしい角ばった字を睨んで終った。それに、記された予定よりさらに四日遅れて帰ってきたことを覚えている。だけど、たったそれだけの中身のないたわいない手紙を読み返したら、私は泣きたかった。それがどんな感情なのかあの人は知らない。
 しかし私も、これがどんな感情なのかわからない。
 始業式の日、補習をさぼったことを少しだけ咎められた。説教を右から左に聞き流して不満でいっぱいになった胸を抱えて帰路をたどった。今日提出の課題を一つも出さなかったクラスメイトのエレンもついでに一緒に叱られて、生徒指導室から出たところの廊下で「明日出さなかったら家に電話するって!」と絶望的な顔で叫んでいたのがちょっとだけ面白かった。エレンの「母さん」はかなりこわい人のようだ。なにかとエレンの世話を焼くミカサもこればかりは「自業自得」と一蹴していた。たぶんエレンはアルミンを頼るだろう。アルミンはとても賢くてなによりやさしい。「僕も手伝うから」とうちひしがれていたエレンの肩を叩いているのを見た。
 やがて平常通り授業が開始し、朝八時すぎに起きて朝礼がはじまる頃に学校へいき、たまに遅刻し、すべての授業が終わる午後四時二十分ジャストにあらかじめ用意しておいた荷物を持ってさっさと帰宅するという日々が続いた。時々クラスメイトに誘われて遊びにつき合ったりするが、なぜかいつも退屈でたまらなかった。少しは楽しい。意味のない騒がしさのなかで乗ってはしゃぐのは思考がいらないかららくだ。しかし本心から楽しめないのは、いつもいつも家のことを片隅で考えてしまうからだった。帰ったらいるだろうか。たぶんいないだろう。でも私の帰りが遅くなってしまってもしも鍵を忘れていたりしたら私がいなければあの人ははいれない。仮にそんなことがないとしても私が遅く帰ったときにはすでに一度帰宅しまた出ていってしまっていることもある。すれ違いだけは一番いやだ。今日は何時に帰ろう。今日は帰ってくるだろうか。帰ってくるかもしれない。
 そうやって、年明けから半月以上がすぎた。

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