一度でも良いから、行き先のない電車に乗ってみたい。前の方で硝子の笛のようなものが鳴って、静かに走り出す汽車に乗りたい。だから、あの二人が乗ったあの汽車を探している。見たこともない汽車であっても直感というのを信じていた。
定期券とは別に買った切符は少し折れ曲がってしまった。そして少し丸みを帯びている。手にもっていたから折れてしまったのだろう。私の瞳は切符とその向こうの擦りきれたローファーしか見えない。そしてそのままプラットホームのベンチから動けないでいる。
じっとりと汗のかいた首筋を掌で拭う。ハンカチは鞄の中だけれど出すことさえ煩わしい。鞄は隣の席に置いてある。中途半端に草臥れた鞄は、なぜか旅のお供には不十分な気がした。着の身着のままの方が相応しいのではないだろうか。
プラットホームに降りたときには明るかった空も、夕方から星のちらつく夜に変わっていた。右手首の腕時計を見るのが煩わしい。プラットホームに蛍光灯があってもはっきりと見える星の中から、億万の蛍烏賊の火を空に沈めたような、金剛石をばら蒔いたかのような眩しさを探している。

「なにしてんだ」
草臥れたエナメルバッグを背負った岩泉がジャージ姿で突っ立ていた。何時から居たのだろう?とか野暮なことを聞くほど私はバカではなかった。部活帰りなのだろうけれど、彼が一人なのは珍しい。バレー部は仲が良いから帰りは常に一緒だと思っていたのに、岩泉の後ろには他の部員達は居なかった。だから、そこに岩泉が居ることじたいは不思議であった。
「ひとりなの?」
「おお」
「珍しいね」
ベンチのとなりに岩泉は立って、バッグの中から水筒を取り出して飲みだす。ゆっくりと上下する喉仏を見ていたら、飲むか?と聞かれた。
「座らないの?」
草臥れた鞄を膝の上に乗せて少し左にずれると岩泉に問う。「おお」と言っても岩泉は立ったまま座ろうとしない。

「んで、何してんだよ」と、至極当たり前な質問を岩泉はする。「さそりの火を取りに行こうと思ってるの」意味がわからん。とぼやく岩泉はチラチラとプラットホームの電工掲示板を見て、空を見上げる。
蠍の話を聞いたあと、友だちは消えてしまう。皆の幸のために何処までも行こうと約束したのに、彼は“ぼく”を置いていってしまう。でも悲しみに浸るのではなく、“ぼく”は、みんなの本当の幸のために尽くすことに、生きる意味を悟るらしいけれど、私には、みんなの幸のためにを理由に身体を焼き続けることは無理。そんなつもり、無いし。でも、本当の幸のためにいきる人を、その輝きを目にしてみたいと思う。それを大切に守ることくらいはできると思う。

電車がプラットホームに滑り込んでくるまで、まだまだ時間はある。座ればいいのにな。なんて思いながら私は、手元の切符をまた見つめる。

やっぱ、座るわ。と言って隣に腰を下ろした岩泉が私の手元にある切符を凝視した。
「なんだそれ」
「さっきから、何してるの?とか何だよ?とか、質問が多いですよ」
と言いながら、掌にある切符を岩泉の掌に置く。すべての答えはこの中にある。そんな気持ちで掌に置いてみた。そんな私の気持ちに気づいたか分からないが、岩泉の唇から漏れる筈だった言葉は、聞き取りづらい音になって宵闇の中に溶けていった。
「何処に行く気だよ」
「んー……わかんない」
ニヘラと笑ってみたが、岩泉の瞳は真剣そのもので、曖昧に誤魔化しても誤魔化されてくれそうにない。
「ひとりが良いのか?」
岩泉の口にした“ひとり”が“一人”なのか“独り”なのかが解らないことを、寂しいと思ってしまった。どちらが良いのだろう。ひとりで居れば、見つけられるのだろうか。
それにしても、岩泉はよく喋る。私が答えを出す前に、岩泉はもう次の質問を投げ掛けてくる。岩泉は気付いているのかしら。私の手首を握ってる自分の右手のこと。何が不安なの。別に何処にも行きはしない。だって、あるわけないもの。ただ、探しているだけ。億万の蛍烏賊の火を空に沈めたような、金剛石をばら蒔いたかのような眩しさに包まれて、眩しさに目を瞬かせている間に乗ることができたら?乗ってしまっていたら?もし、このまま二人、一緒に見つけることが出来たら、乗ってしまったら、物語の“ぼく”になるのは、私なのか、それとも……。

「ねぇねぇ、一緒に行きませんか?」
その言葉は、たぶん、出るべくして私の口から溢れた言葉だった。そう言った私の瞳は、億万の蛍烏賊の火を空に沈めたような、金剛石をばら蒔いたかのような眩しさを捉えて、目を瞬かせたからだ。その真ん中には岩泉がいて、そこだけポッカリと暗く、それでいて岩泉のことがはっきりと見えていた。誰かが笑った。最後に言葉を漏らしたのはどちらだったろう。私か岩泉か。
「――……、」
岩泉の唇から漏れた言葉は、きっと誰にも聞こえなかった。それを改めて聞こうとは思わなかった。なぜなら自然とゆうるく私の唇が弧を描いたのが、私には解ったからだ。