今泉俊輔くん。小学生の頃から自転車が好きで、他の男子と比べると静かで大人な子。何を喋ればいいのかなあって私はいつも考えていて、自転車という共通の話題を持っている幹ちゃんが羨ましかった。「いいなあ」って幹ちゃんに言うと、幹ちゃんは不思議そうに目を丸くしていたっけ。

今泉くんは自転車が好き、幹ちゃんも自転車が好き。でも、幹ちゃんは私と遊ぶのも好きだと笑ってくれた。今泉くんとは幹ちゃんの家に遊びに行ったときに顔を会わせるくらいのもので、何年も話してはいるはずなのに、さっぱり好みがわからないのだ。
私と遊ぶことも好きだと言ってくれる幹ちゃんと違って、今泉くんが好きなのは自転車。誰かと遊んだり楽しそうに話したり、そんなところを見た覚えはない。自転車屋さんに友達と来たなんて、そんな姿も見た覚えはまるでない。本当にただ、顔を見る年数が長いだけ。何も、いやせめて殆ど――…いや。やっぱり何も、私は今泉くんのことを知らない。


「興味ないわ、そんなん」


心底嫌そうな顔をして、何を躊躇うこともなく鳴子くんは言い放つ。それに残念だという気持ちとやっぱりなあという気持ち、それから、まだ私の方が知っているかもという優越感が沸き上がった。単純。
鳴子くんはそんな私を知ってか知らずか「みょうじさんのが知ってんちゃう?付き合い長いし」なんて言うから、やっぱり単純な私は喜びと悲しみを同時に抱くのだ。

今泉俊輔くん。小学生の頃にはもう自転車に乗っていて、静かだから先頭が好きな男の子。人付き合いは、ちょっと苦手らしい。
そこまできて、他には何があったかと考える。これくらい鳴子くんだって知ってるだろう。部活が休みの日以外は顔を合わせているんだから、私よりも今泉くんと接する機会はあるはずだし。


「……鳴子くんの方が詳しい気がする」
「いらんわ。スカシに詳しくても何も得せん」
「鳴子くんはね」
「みょうじさんは得すんの?…いや、スカシはないな」
「そうかな?今泉くん優しい、」
「優しいィ?あれがァ?」
「優しいよ、不器用だけど――ん?」
「何したん」
「何でだろ?」
「何が」
「今泉くんが優しいって」
「知るか」


最後は吐き捨てるように音にして。小野田くんに聞いた方がよかったかな。思うけど、小野田くんは私が話しかけようとするとものすごい勢いで距離をとるから難しい。嫌われてる、とは違う感じ。緊張かな、あれは。だから鳴子くんがいいんだけど、鳴子くんは今泉くんのことがそう好きではないから、いい顔はしないんだよね。チームではあるけど友達じゃない。なんか、そんな風に言っていた。


「今日はもう店じまいですー。はよお家に帰ってください!」
「え、何それ?」
「質問も禁止」
「鳴子くんちょっと酷い」
「スカシのことワイに聞くんが酷いわ」


べ、と舌を出す鳴子くんに笑顔を返して挨拶をする。そうすると鳴子くんも気持ちのいい笑顔を返してくれた。

鳴子くん、今日は先輩と勝負するって言ってたな。いつか絶対に悔しがるオッサンの顔を見てやる、だったっけ。オッサン、確か田所先輩。てことは、今泉くんも練習か。少し残念に思いながら、鞄を手に取る。それでも私が憧れたのは自転車に乗る今泉くんだから、これがいい。それしか知らない、とも言うんだけど。


□■□


ブラブラと、鞄につけたキーホルダーが揺れている。もう十年近くは共に過ごしているこの子を発見した幹ちゃんは、「まだ持ってたんだね」と自分のことのように嬉しそうに笑っていた。私はといえば恥ずかしかったり嬉しかったり、自分でぶら下げていたくせに実に不格好に口許を緩ませただけで。幹ちゃんも、しっかり覚えていたらしい。

くたびれてきたキーホルダーを見て、お母さんは「せめて家に置いときなさい」と汚れた姿を指摘した。でも通学用の鞄にいないと落ち着かないから、長い休みに入らないと洗いようがない。ぬいぐるみって、なかなか乾かないしなあ。

そんなこんな、色々と考えていると誰かの足が視界に飛び込んできた。こんなことをするのは、一人だけ。私も足を止めて、顔を上げる。


「今泉くん」
「何かあったのか?」
「ううん、何もないよ」
「そうか」


なら、いい。そう続けて私の横に並ぶ今泉くん。揺れるうさぎのキーホルダーは、今泉くんとの出会いを喜んでるみたいだ。


「今泉くんは帰るの?」
「ああ」
「…あれ?部活、鳴子くんは行ってたけど」
「ロード、寒咲さんに見てもらってんだ。今日取りに行くことになってる」
「そうなんだ」


寒咲さん。てことは、通司さん。それ以降話すことなんて浮かばなくて、助けを求めるようにうさぎへと視線を送る。うさぎは変わらぬ表情で、揺れているだけ。どうしようかな、どうすればいいかな。これからロードを取りに行くなら今泉くんも私に用事があるわけではなさそうだし。それでもずれることなく並んで歩けているから、今泉くんが歩幅を合わせてくれている、と。


「……それ」
「それ?」
「ランドセルにもいたよな、うさぎ」


びっくりして立ち止まると、私を待つみたいに数歩先で今泉くんは足を止める。いつもよりはずっと狭い歩幅。やっぱり私に、合わせてくれていた。


「…いた」
「大事にしてんだな」
「えっと、まあ、うん」
「違うのか?」
「うーん…違わない、けど」
「…曖昧だな」
「だね」


ブラブラと、ゆらゆらと揺れるうさぎ。この子は昔、可愛い袋に入って私の手の中にいた。
私のためのうさぎじゃなくて、今泉くんのためのうさぎ。今泉くんに渡せなかった、うさぎ。

その日は朝から緊張して、学校で今泉くんを見かける度に、今泉くんの名前を聞く度に机にしまいこんだうさぎを強く握っていた。来るかなと思って幹ちゃんとお喋りをしながら手伝いをしている通司さんを眺めているときには袋はクタクタになっていて、贈り物と呼ぶには見るも無惨な姿。今泉くんには会えないし、もうたったそれだけで、私は泣きそうになってしまって。ぎゅっとスカートを握りしめた私を見た通司さんに頭を撫でられて、ついに私はボロボロと涙を溢してしまったのである。

通司さんも幹ちゃんも大慌て、だけど涙は止まらない。スカートにも袋にも涙の跡がてんてんと、酷いものだった、あれは。


「…頑張れますようにって、勇気をもらえるお守り、かな」
「お守りか」
「うん」


それが、今もこうして鞄にぶらさがっているうさぎ。そしてこの話にはまだ続きがあって、目を真っ赤にして、しかも思い出せばまた落ちそうになる涙に視界を滲ませながら俯いて歩いていたあの日の帰り道。ゆっくりと足を進めていると、誰かの足が、飛び込んできた。

目の前にいたのは、今泉くん。ぐずぐずになりながら尋ねると、幹ちゃんの家に自転車を見せに行くんだと困惑気味に教えられた。
そりゃそうだ。一応は知ってる人間が自分が向かう方向から歩いてきて、しかも俯いてるわ顔を見れば泣いてるわ。そのくせ「どこ行くの?」なんて聞かれて、私だったら困る。困るしまるで自分が置いていったような気分にだって、なる。

いってらっしゃいと振り絞った声は震えてギリギリ聞き取れるくらい。控えめに手を振ってくれた今泉くんは、「じゃあな」と小さく伝えてくれた。

それからも俯いて歩いていると自分の前に誰かの足が映るようになって、顔を上げて確認をするとそこには必ず今泉くんがいて。何を聞かれるわけでもないんだけど、悲しくなると今泉くんが現れてくれるのが当たり前になってしまった。だから、私にとって今泉くんは優しい人。何も言わなくても好きなものを知らなくても、黙って一緒にいてくれる優しい人。そして繰り返すうち、渡すことの出来なかったうさぎは私にとって今泉くんとの縁をくれるラッキーアイテムになったのだ。


「…あれ」
「今度はどうした」
「いやっ、大したことじゃないんだけど…今泉くん、何かあったのかって聞いてくれたから」
「みょうじさんが俯いてるときは、いつも泣いてたからな。また嫌なことでもあったんじゃないかって思ったんだよ」
「え、」
「え?あっ、いや…」
「………ありがとう、今泉くん」
「…オレは別に、特にそんな…」


もしかして、昔からずっと。そんな風に私に、教えてくれていたのかな。