ざくり。焼きたてのそれにフォークを突き立てれば小気味良い音が鳴った。甘ったるい香りを撒き散らすそれがあまりにも憎らしくて、口に運ぶことはせず何度かフォークを突き立てた。ざくりざくり。音が鳴る度にパリパリに焼けた生地はお皿の上を自由に舞う。
 そんな私を余所に、正面に座っているこの人は静かにそれを口に運び続ける。時折幸福も一緒に噛み絞めているかのように、目を柔らかく細めながら。別に、この人だけがそれを食べている時にこんな表情をするわけでもないし、どちらかと言えば私と同じ年頃の女の子達の方がもっと「おいしーい」とかそんな単純な言葉を声高々に吐き出しながら幸せそうに微笑むので特別気にする必要はない。それが美味しいことなど誰かが口にしなくても私は知っているのだから。それでも、つまらないものはつまらない。食べ物に罪は無くても、この感情の行き先を、私はそれにしかぶつけることが出来なかった。

「……食べないの?」

 視線を上げれば、大きな猫目がこちらを向いていた。人工的な金髪が、少し眩しい。窓から差し込む太陽光はこの人の毛先を輝かせ、そして私の素肌にじりじりと熱を送り込む。ようやくこの人の意識が私に向いたことが少しだけ嬉しかったけれど、それを素直に喜ぶのもなんだか悔しかったので唇を尖らせたまま、テーブルの下の足をパンプスの先で小突いてやった。華奢に見えてその足は意外と堅い。その足が虚弱だったことも筋肉を育て上げる過程も全てこの目で見てきたので、そんなこと、知っていたけれど。

「食べるよ」
「じゃあ最初からそうすればいいのに」
「どうやって食べようが私の自由でしょ」

 ざくり。もう一度、フォークを突き立てればまた小気味良い音がした。二等辺三角形のてっぺんを一口サイズに切り落とせば、またパラパラと生地は零れ落ちる。私達の壁もこんな風に簡単に剥がれ落ちてくれたらいいのに。そんなことを考えればまた一段とそれが憎らしく思えてきた。
 何度膝小僧を向かい合わせて座ったって、この人は私の気持ちにこれっぽっちも気付いてくれない。もしかすると、気付いているのに知らんぷりをしているのかもしれない。向かい合わない気持ちのベクトルがもどかしい。ああ、考えると駄目だ。お皿に乗っていたものは綺麗に平らげてしまったからこの感情をぶつけるところがない。胸やけのようにもやもやする気持ちが煩わしくて、もう一度私の悩みの元凶の一部を小突けば、柔らかな声で名前を呼ばれた。

「なまえ」
「…なに」
「クロが、なまえを紹介しろってうるさいんだけど」
「え、なんで黒尾先輩が私を?」
「彼女だからじゃないの?」
「誰の?」
「俺の?」

 ざくり。突き刺さるものもないのにそんな音が聞こえた。突き刺されたのは私達の胃袋へと落ちていったものではなくて、それよりもっと上にある、絵にするならばハートの形をしているかもしれない私の心臓で。それを突き刺したのはテーブルの上に置かれている銀色のフォークではなくて、想像するならば鏃がハートの形をしていそうな弓矢のようなものだ、きっと。なんてものを飛ばしてくれたんだろうか、この人は。それまで順調に巡っていた血液が破裂したかのように目まぐるしいスピードで循環を始める。爪先から、耳朶まで、熱い。
 きっと真っ赤に染まっているであろう私の顔を見て、研磨は、笑う。

「違うの?」
「ち、違わなくていい…!けど、なんで」
「…なんでって、なに。俺、好きでもない子と何年も一緒にいたりしないし、自分の家から遠いここにわざわざ通ったりしないし、…そういうのだから、俺となまえ、一緒にいるんだと思ってたんだけど」
「研磨がここに来るのはアップルパイが好物だからで、私と一緒にいるのはちっちゃい頃からの知り合いだからって、思ってた……」
「俺としては、アップルパイも好きだけど、なまえが好きだから逢いに来てるつもりだったよ?」

 一体、いつから。ジェットコースターのような展開に心が躍りすぎて、今度は顔が緩むのを隠し切れなかった。本当はずっと、私達の気持ちは向き合っていたし同じ方向へと爪先を揃えて歩いていただなんて、とんだサプライズだ。ぽつぽつと小声で話す研磨の耳は、少し赤い。胸の中に潜り込んだムカムカした感情はあっという間に溶けてなくなり消化され、その代わりラブコメディを観た後のような甘ったるい感情が溢れだす。
 ああどうしよう、嬉しくて泣きそうだ。涙を堪える為に少し俯けば、右肩をとんとん、と二回叩かれた。叩いたのは目の前に座っている研磨ではなく。

「二人で仲良くしてるとこ悪いんだけど、なまえ、そろそろ手伝ってくれる?」
「…じゃあ、俺帰るね」
「研磨君いつもありがとね」

 穏やかに笑うお母さんの言葉に、研磨は頭を下げて、立ち上がった。私はまだ大事なことを伝えていないのに、研磨が帰ってしまう。そう思うと、咄嗟に研磨の腕を掴んでいた。お母さんが背中を向けてキッチンへ戻って行くのをいいことに、金髪から見え隠れする頬に一瞬だけ、背伸びをして口づけた。

「私も研磨が好きだから、ここに来てくれるの嬉しいよ。学校じゃあんまり話せないし…。だから、また来て」
「うん。今度は、クロも誘うね。ちゃんとなまえ紹介したいし」
「…ちょっと緊張しちゃうけど、待ってる。じゃあ、また明日、学校でね」
「うん」


 次に膝小僧を向かい合わせて座るときは、二人の未来についてもっとたくさん話したい。これからは堂々と、研磨の隣を歩いていいんだ。そんなことを考えると自然と足取りが軽くなった。
 窓際の席に座っているカップルに、お待たせしましたと当店人気ナンバーワンのアップルパイとアールグレイを差し出す。つい数十分前まで研磨の心を独り占めするそれが憎らしくて仕方なかったのに、今ではとても愛らしく私の目に映る。どうかあなたたちも末永くお幸せに。