1.
 初めは、妙に木兎さんが壁際を気にしているなと思った。ちらちらと余所見をしたりして、練習中も何だか集中できていない様子はバレー馬鹿のこの人にしてはたいそう珍しい。気になってその視線の先を辿ってみれば、体育館のすみにそっと立つ、制服姿の女子の姿。遠目からでも分かるほっそりした感じが、何とも言えない雰囲気を醸し出している人だった。何となく首をひねる。木兎さんの知り合いだろうか。けれど、クラスの友人たちと騒いでいる木兎さんの姿を考えると何となく毛色の違う感じがする。さて、誰だろう。

「木兎さん」
 小休憩の時に声をかけると、タオルで顔を拭いていた本人は大仰に肩を跳ねさせた。
「何だ!?」
「え、何でそんな挙動不審なんですか」
「いや普通、全然、ふつう!」
 ちっとも普通ではない。この人は自分の分かりやすさをもっと自覚するべきだと思う。はあと息を吐く。
「何だか今日、集中してないみたいですけど」
「う」
「何かありましたか」
「いや」
 そう言って、またちらりと壁際に目をやる。ああそうか。あの見学している人はきっと木兎さんの新しい彼女か意中の人で、良い格好を見せたいとかそういう不純な動機なのだろう。全く世話のやける人だ。
「木兎さん」
「ハイ」
「新しい彼女さんに良いところ見せたいのは分かりましたから、いい加減集中して下さい」
 ため息まじりでそう告げれば、木兎さんのただでさえ大きな目が真ん丸とこぼれ落ちそうなくらい開かれて、逆にこちらが驚く。
「え、なんすか」
「赤葦!」
 がしっとその大きな手で両肩を掴まれた。怯んだ俺に木兎さんはぐいと顔を近づけて、声をひそめる。
「お前、見えてんのか」
「は?」
 なに言ってんだこの人は。ふざけないで下さい、と口に出そうとするが。
「よかったー、俺にだけ見えてんのかと思った」
 なんて、泣きそうな顔して言うものだから余計に混乱した。
「あの、木兎さん」
「何だ」
「意味が分かるように説明して下さい」
 その言葉に木兎さんはぱちぱちとまばたきをしたあと、また険しい顔をしてずいと顔を近づける。
「だから、赤葦も、あいつが見えたんだろ!」
 あいつ、あいつとは一体。しばし考えて、それからあの壁際の彼女のことをさしているのだとようやく気づいた。
「見えるも何も」
 当たり前じゃないですか、と言葉を繋げようとして気づいた。先程まで確かにいた彼女の姿が消えている。あれ、と不思議に思っていると木兎さんが「ヒイッ」と変な声を上げ、俺の手を掴んで走り出した。文句を言う間もなく、先程まで彼女が立っていた場所に着き、二人揃って絶句した。
 その床はびっしょりと濡れていた。海の匂いが鼻をかすめる。それは春にはまだ少し早い頃だった。

2.
 同じ薬品の匂いでも、保健室と理科準備室では全く違う。放課後の薄暗いその部屋で、彼女は本をめくっていた。細くて生白い足を椅子から投げ出しているものだから、行儀はちっともよくない。さすがにホルマリン浸けやら何やらは戸棚にしまわれ目につかないが、窓際の隙間に追いやられている人体模型からの視線が妙に痛かった。悪趣味だ。
「幽霊さん」
 声をかければ、彼女はようやく本から顔を上げる。真っ黒い背表紙。有名なホラーレーベルだと一目で分かるから、本当に趣味が悪いとひっそり息を吐く。何もこんな部屋でわざわざ読まなくても。日当たりのいい図書室からは桜が見えるというのに。
「あれ、部活は」
「これから行きますよ」
 ふうん、と大して興味がないといったような返事だ。実際、興味はないのだろう。
「まだ成仏しないんですか」
 そう聞けば、ようやく彼女は目を光らせる。
「未練があるからね」
「どんな」
「今年の夏は、お気に入りのサンダルを履いて海に行きたい」
「へえ」
「それから秋は落葉を踏んで冬は雪を踏むんだ」
「未練ありすぎですね」
 いつまで経っても成仏できませんよ、という俺の言葉に彼女はいたずらっ子のように笑った。
「なんてったって、足のある幽霊だから」

 そもそも木兎さんの盛大な勘違いにより幽霊になってしまった彼女は、わりとそれを気に入っているらしい。彼女の本当の名前もまだ知らないから、便宜上「幽霊さん」などと呼んでしまっている自分も大概だとは思うけれど。
 彼女は生物部なのだと言う。部員はたった一人で、活動内容は不明。なぜか日当たりの悪い理科準備室でいつも背表紙の黒い本を読んでいる印象しかない。木兎さんはまだ彼女を幽霊ではないかと疑っているらしく、俺を偵察に使っている。アホだ。そんなわけないのに。
 あの日、彼女は海に行っていたのだと言った。東京郊外のここから海までは結構な距離があるのに、当時飼育していたクラゲの水槽に入れるため放課後一人で行き、海に入り、海水を汲んだらしい。そしてその帰り体育館に立ち寄ったのだそうだ。ちなみにそのクラゲはそれからほどなく、水に溶けていったらしい。
「バレー部のひとたち、足がきれいで好きなんだ」
 陸上部の足も捨てがたいけどね、と彼女は言う。
「駆けるための足も、跳ぶための足も、しなやかでいいなって思う」
「なら、泳ぐための足は?」
 俺の問いに彼女は意味ありげに笑った。
「魚の足には敵わない」

3.
「むかし、見たんだ。魚の足」
「どこで」
「海の底」
 アカシアの甘ったるい香りの中、並んで帰るその道で彼女はごく当たり前にそう言う。部活終わりまで待っていた彼女と並んで帰るのももう何度目かになる。「赤葦、あいつちゃんと見張っとけよ!」というアホな木兎さんのアホなお願いを聞いているだけで、別に俺は好んで一緒に帰っている訳ではない。と、いう体にしている。
「魚に足はないでしょう」
「海の底に行けば分かるよ」
 真っ直ぐ前を向いて歩く隣の彼女の横顔を見下ろす。遠くを見つめているその瞳と視線が合うことはない。
「それを見てからわたしは泳ぐことを辞めたんだ」
 何となく、普通の学校生活に迎合できない人だと思っていた。だけどそれは俺の思い込みで、昔はちゃんとした水泳部で、しかもそれなりの選手だったのだと聞き、心底驚いたのは十日ほど前。辞めた理由は聞いていない。
「それはきれいでしたか」
「うん」
「なら、跳ぶための足とどっちが好きですか」
 俺の問いに、彼女はようやくこちらを向いた。街灯の光に照らされて、真っ黒な瞳がきらきら光る。
「難しい問いだなあ」
 どちらの足もこちらが追ったら逃げてゆくからね、と言ってへにゃりと笑うその顔に「そうですか」としか返せなかった。

4.
 昼休み、自販機のところで彼女を見かけた。隣には木兎さんがいて、二人で楽しそうに笑っているものだから、もう呆れてため息も出ない。
「木兎さん」
 いつもより幾分低い声で名前を呼べば、大仰に飛び跳ね、ぎこちない動作でこちらを振り返った。
「あ、赤葦?」
「まあ、分かってましたけど」
 隣の彼女はおかしそうに笑っていた。

5.
 今日、彼女の読んでいる本の背表紙は黒ではなかなった。妙に古ぼけた厚い本で、英語ではない言語でタイトルが書かれている。
「海と女と足と恋の組み合わせは、相性が悪いのかもね」
「どうしてですか」
「そのての話は大概不幸せで終わるだろう」
 そのてとは何をさしているのか分からなくて首を傾げていると彼女はゆっくり顔を上げる。
「人魚姫は恋に狂い足を手に入れ泡になり、スキュラは狂った恋のせいで足をなくし怪物になった」
「はあ」
「童話でも神話でも、そういうものなのかもね」
 ぱたんとその厚い本を閉じて彼女は笑った。ただでさえ日当たりの悪い理科準備室は、傾き始めた太陽のせいでだいぶ薄暗い。そして今日も人体模型は気味が悪い。
「現実ではそんなこともないですよ」
「そうかなあ」
「今日も足、あるじゃないですか」
「幽霊に足がないなんて、誰が決めたんだろう」
「そうじゃなくて」
 思わず息を吐いた。彼女はいつも大事なことは言わない。のらりくらりとややこしい話題を持ち出してはぐらかす。いつもそうだ。
「木兎さんが好きなんでしょう」
「まさか」
 ゆるりと首を振る彼女の髪が揺れる。
「ちがうよ。木兎の足はすきだけど」
「跳ぶための足ですか」
「そう」
 ちょっと覗いただけなのだそうだ。海の帰り、昔なじみのその練習風景を。
「ちっとものってくれないけどすごくいい後輩がいるって、前々から聞いてたんだ」
 彼女の指が、活版印刷された表紙の文字をなぞる。
「ぼんやり立つわたしを見て、いたずら心がわいたんだって。そういう子どもみたいなところ、むかしからちっとも変わらない」
「というか、あんなの引っ掛かるわけないじゃないですか」
「そうかあ。木兎、きみが信じてるって信じてたよ」
 アホだ。どうせ騙すならもっと手をこんだやつで上手く騙してくれ。こんな中途半端なのは、本当、勘弁して欲しい。彼女が木兎さんを好きなら、二人が付き合っているなら、そんな特別さがどこかにあったなら何だっていい、こちらだって決着がつくというのに。中途半端だ、何もかも。彼女はいつまでも足のある幽霊だし、恋に狂ってその足を失うこともない。ただただ普通の、奇ですらない現実の話。
「いいんだ」
「少なくとも、俺はちっとも良くありません」
「きみは優しいなあ」
「自分本位なだけですよ」
 その言葉に彼女は笑った。
「それは誰しもそうだよ」

6.
 しとしと雨が降るなか、彼女は俺の部活が終わるのを待っていた。「結局すげー仲良くなってんじゃん」と笑う木兎さんの無神経さが腹立たしくもあり、ああそういう人だよな、と再認識する機にもなる。結局揃って勝手なのだ。俺も木兎さんも、彼女も。仕方ない仕方ない。
「諦めの境地みたいな顔してる」
 紺色の、ちっとも女子高生らしくない中年のおっさんみたいな傘を揺らして彼女は笑った。対してコンビニの透明ビニール傘の俺は「はあ」と曖昧な返事をする。
 もうしばらく経てば夏の匂いがするようになる。季節なんてあっという間に一周するし、それでなくとも今年はきっと、バレー漬けの一年になるのだと思う。勝手で子どものようで人騒がせで面倒だけれど、それでも木兎さんは確かに実力あるエースで、他の三年の先輩たちも皆揃って上を目指していて。このチームで冬まで戦っていきたいと俺だって思っている。たぶん意識する暇もないまま、せわしなくあっという間に色んなものが過ぎ去ってていくのだろう。
「夏になったらお気に入りのサンダルを履いて海に行くんですか?」
「そうだね。でもよくよく考えたら夏である必要はなかった」
「まあ、そうですね」
「海は逃げないもの」
 足が生えていないしね、と彼女はおかしそうに笑った。俺のほうはちっとも笑えない。
「将来、海の仕事がしたいって聞いたんですけど」
「木兎はおしゃべりさんだなあ」
 ぽたぽたと滴が落ちていく紺色の傘が揺れる。くたびれているくせに撥水がしっかりしている辺りが、何だか彼女の持ち物らしい。
「もしまた魚の足を海の底で見つけてしまったら、今度は追いかけるつもりなんですか」
 ぴたりと足を止めた彼女にあわせて俺も足を止める。街灯の明かりは今日も彼女の瞳をきらきら照らす。
「ううん」
 彼女はゆっくり首を振る。
「まだこの世に未練があるからね」
「どんな」
 その問いに、以前のように彼女はおかしそうに笑った。
「ひみつ」
 今度は教えてくれないらしい。

7.
 日曜日。貴重な休みに呼び出された。明らかに木兎さんと内通している彼女は、あの日の傘と同じような紺色のサンダルを履いて颯爽と現れた。そこで初めて、俺は彼女の好きな色を知る。
「本当は行きたいところあったんだけど」
「はあ」
「いま展示お休みみたいでね。見れないんだ」
くやしいくやしい未練がふえた、と地団駄を踏む彼女は私服のせいもあって理科準備室にいる時よりも幾分子どもっぽく、何だかほだされそうな自分がいる。まずい。
「ちなみに何が見たかったんですか」
 興味本位で尋ねれば、彼女は口を尖らせた。
「血液が無色透明の魚」
「は?」
「ちゃんと実在するんだよ。南極の海に」
 半信半疑ではあるが彼女の様子をみると、本当に存在するのだろう。
「ちなみに、その魚に足は」
「ない」
「そうですか」
 ならいいかと思ってしまう辺り、この数ヵ月でだいぶ毒されている気がする。ちいさく息を吐いて彼女の手を取れば、真っ黒な瞳がくるりと丸くなる。
「じゃあ行きますよ」
「え」
 驚いた顔のままそう言う彼女に今度は俺が口を尖らす。
「今日部活休みなんです」
「うん、だから呼んだ」
「貴重な休みなのに、これで解散はひどいでしょう」
「たしかに」
「だから付き合って下さい」
「あ、うん」
 頷いたのを見計らってその手をきゅっと握り引いて歩き出せば彼女はおとなしくついてきた。その手が熱くなっているのは、自惚れてもいい要素になるのだろうか。まだ確証はない。
「赤葦くん」
「はい」
「どこに行くの」
 その問いにちょっと考えて、それから。
「未練を増やしに」
 なんて答えてみれば彼女は睫毛をぱちりと揺らしたあと、屈託なく笑った。
「わたし当分成仏できそうもないなあ」
「そりゃあ簡単にはさせませんよ」
 彼女のサンダルのかかとがかつんと鳴る。その足は確かに生きていて、やはり彼女は幽霊なんかじゃあないのだ。