少なくとも海に遊びに行くような季節ではなかった。空気は肌寒く、灰色の雲が空に広がっていた。それを反映してか海の色も冴えなかった。
みょうじさんは裸足になって、水際を歩いていた。足跡は残るもののすぐに波がやってきて綺麗さっぱりなくなってしまう。それでも彼女は楽しそうにみえた。

「出水くんもおいでよ。せっかく来たんだしさぁ」
「それもそーだな」

靴下と靴を脱ぎ捨ててズボンの裾を折った。彼女のいるところまでゆっくりと歩いていく。
海なんて何年ぶりだろうとはしゃぐ自分がいた。勢いよく水の中に足を突っ込んだ。音を立てて海水が跳ね上がった。

「出水くんの髪の色、海が背景だと映えるね。素敵だよ」
「あっそ」

褒められて顔に熱が集まるのを感じた。ぶっきらぼうに言って、顔を逸らした。

「別にきみじゃなくてもよかった」
「連れてくる人が? というかなんで俺にしたんだよ?」
「それはね、目が合ったからだよ」
「どうせ、なんとなくなんだろ」
「そうとも言うね」

可笑しそうに笑う彼女にむっとしてしまう。ちょっとした腹いせに水をかけてやった。ひどいと言いながらも笑顔は崩れなかった。


平日の昼下がり、制服姿の男女二人が海で遊んでいる。なんともおかしな状況だ。
発端は、目の前のみょうじさんだ。彼女は、昨日の学校でいきなり話しかけてきた。もともと同じクラスで何回か喋ったことがあるので、そのときは不思議に思わなかった。しかし、彼女は獲物を捕まえたといわんばかりの顔で俺にこう言った。

「明日、朝8時に駅に集合ね」

俺は反射的になんでと訊き返した。彼女は秘密といって立ち去った。明日は金曜日で学校があるはずなのに、サボりになってしまわないか。そんなことが頭に浮かんだ。
翌朝いつものように家を出たのはいいが、学校へ行かないという罪悪感よりも好奇心が勝ってしまい駅に向かった。駅の改札口まで近づくと、彼女は大きく手を振って、俺の名前を呼んだ。

「学校サボっていいのかよ」
「今日は創立記念日で休みっていうこと知らないの?」
「あっ…」

待ち合わせのことが気になって、すっかり頭から休校という事実が抜け落ちていた。
あはは、と笑い声をあげたみょうじさんをきっと睨んだ。なんだか調子が狂う。
準備宜しく切符を渡された。逃げられないようにと手を握られた。それを通して微かな震えが伝うのがわかって、彼女を置いていかないと決めた。
改札を抜け、駅のホームにタイミングよく到着した電車に乗り込んだ。

「どこ行くんだよ」
「着いてからのお楽しみ」

みょうじさんは、にやりと笑みを浮かべた。何も言えなくなってしまって、向かい側の窓の外を眺めることにした。自分の知らない所へ行くというのは、不安よりも期待でいっぱいだった。隣には彼女がいると思うと、心強かったのだ。
結局着いたのは、そういえば名前を聞いたことがあるような砂浜だった。未知の場所に俺も彼女も興味深そうに辺りを眺めた。海には、人が見当たらず、なんだか俺たちの所有物であるかのように思えた。


砂浜と同じくらいの白さをもった脚が目の前を駆ける。ついつい目を奪われてしまって、ひたすら自由に動き回る様をぼうっと眺める。みょうじさんはそんな俺の様子に気にも留めない。
ふと彼女は立ち止まる。

「出水くんは、私のこと覚えていてくれる?」
「そりゃあもちろん。こんなことされたの初めてだし」
「まるで私が脅したかのように言うのはやめてよ。出水くんが自分の意思でここまで来たんじゃない」
「手、掴まれてた」
「出水くんのほうが力は強いんだから、振り切ることなんて簡単でしょう」

それもそうだ。彼女のほうがよっぽどまともなように思えて否定できず、口を詰まらせる。彼女はゆっくりと近づいてきて、俺の手をつかんで、水の浸からないところまで連れていった。
彼女が持っていたティッシュで足の裏の水分でくっついた砂を拭いてから靴下と靴を履いた。白い足は黒いソックスに覆われてしまい、残念に思った。

来た道を戻って、また電車に揺られた。
降りる駅まであと半分といった所で、みょうじさんは俺の肩に寄りかかってきて眠ってしまった。無性にどきどきと俺の心臓が音を立てている。顔を左に傾ければ髪に触れられるぐらい、近い距離に彼女はいる。
早く過ぎ去ってほしいような、長く続いてくれたらいいような、どっちつかずの気持ちを抱えたまま時間は過ぎていった。
次は俺たちの最寄駅という放送が流れる。みょうじさん、と小さく呟く。起きないでいてくれてもよかったが、おはよう、と返ってきた。
人の流れに沿って改札口を出ると、見慣れた風景があった。駅の時計を見れば、いつもの下校時間よりもすこし早い時間だった。制服姿のせいか、遊びに行ったというより学校の課外授業のように思えてならなかった。たった二人だけの。

「付き合ってくれてありがとう。それじゃあね」
「また明日な」
「明日は土曜日だから学校はないよ、出水くん」
「あっ…」

またやってしまった。みょうじさんは笑いが収まると、背を向けて歩き始めた。最後の言葉に返事をくれなかったと少し不満に思いながら、俺も背を向けた。



次の週の月曜日に「みょうじさんは転校しました」と担任の先生から淀みなく伝えられた。もちろんクラスはざわついた。誰も知らなかったからだ。
先生の声がただの音にしか聞こえない中、ありきたりな表現をするならば、俺は心がぽっかりと空いたような心持ちになった。それとどこかがズキズキと痛む。
目を閉じれば、この場にいないはずのみょうじさんがにやにやと笑みを浮かべているような気がした。