宇宙。
あらゆる天体を含む空間。その空間は閉じているのか開いているのか不明。
現在は膨張していると考えられる。

「うん、分からない。分からないのだよ!」
「やかましい!あと真似をするな!」
「あだっ」

 背中に衝撃。若干涙目で首だけで振り返る。長い足が背中に乗り、顔は不機嫌そうに歪んでいる。ピアノの美しい旋律はどこかに消えてしまった。
ただ、ドー、と重く響く音は真ちゃんの怒りを表していたが、薄闇色の部屋の中に響いていた音がやんだ。

「で、一体どうしたのだよ」
「地学。星……もとい宇宙がさっぱり分からない」
「そうか、人事を尽くすんだな」
「ひどっ!ちょっと見捨てるの早い!緑間さん理科系得意でしょ!」

 ピアノの黒い脚に寄り掛かっていたのをやめて、彼の足を攻撃する。
さっきの仕返しをこめて。うん、あれ痛かった。
ジャン!となった大きな音のせいで体が振動で震える。うう、確信犯め。

「何が分からない。教科書の内容は流石に分かっているんだろう?」

 おや、聞いてくれる気になりましたか。
傲慢そうに私を見下ろしては鍵盤に指を落としていく。

「なんで地球にしか人はいないんだろう、って」

 授業で資料集を見た。
太陽、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、おまけで冥王星。
リングのあるなしはともかく地球以外の星に共通点があった。
恐ろしい程の静けさを感じたのだ。
今みたいに軽快なメロディが流れている訳でも、オレンジ色の柔らかい光が包むわけでもない。
完全な死の世界。

「俺はそれの専門という訳ではないから完璧な答えは出せない」
「だよねー教科書が教えてくれないんだもん」

 だらん、と真ちゃんの足にしなだれかかる。
彼は気にも留めずに人差し指で高い高い音をはじく。

「水がないから、酸素がないから、固体ではないから、太陽に近すぎるから。理由などいくらでも出てくる」
「うん」
「宇宙なんてものは、人間が計り知れるようなちっぽけな物ではないのだよ。宇宙に何がいるか、あるか、それすら分からない」
「宇宙人の存在がそれだよね……」

 俺達も一応宇宙人なのだよ。別名、地球人にはなるが。
空気の振動からではなくて、血潮の流れから真ちゃんの声が響く。
盤の上を踊り始めた指が水を生む。玉響のそれは私の目を、頬を、肢体を濡らしていく。

「何の曲?」
「バッハの平均律、クラビーア曲集の前奏曲」

 優美な音が満ちていく。
真ちゃんとピアノと私のこの距離感が好きだった。
真ちゃんの呼吸音と、鍵盤を弾く指の爪先がカチッとぶつかる少し固い音。ピアノ線が動く音。

「探査機にこの曲のレコードをのせて、宇宙人と対話をしようとした試みがあるらしい」
「何それすごい」
「これ以外にも世界中の言葉をのせて、宇宙人とコミニュケーションを取ろうとしたものだってあるのだよ」
「へー……あと発音が綺麗でムカつく」

 外国の人とだってまともなコンタクトをとれた覚えがない。知るか、と言葉を吐き出すその震えも足にくっついた背中からわかる。
宇宙は空気がないから音が聞こえないのに、どうするんだろうなぁ。

「ねぇ真ちゃん」
「何だ」
「宇宙、を英語で」
「space、universe、cosmos」
「ほうほう、じゃあドイツ語で」
「Weltraum、Universum、Kosmos」

 うっはー……ドイツ語ってやっぱりごっついなぁ。
しかし真ちゃん博識だなぁ、ドイツ語なんて習う場所あったっけ。あ、お医者さんの方面か。医療系はドイツ語多いって言うし。

「フランス語」
「espace、univers、cosmos」
「ドイツ語といい何故知っている!」
「赤司からの無駄知識だ」
「赤司様怖すぎるわ!」

 今の無茶ぶりだったのに……だったのに!
ぽた、ぽた、水が部屋に溢れていく。いつのまにか空が紺碧色に染まっていた。
やっと、星が見れる時間だ。昼の星は太陽のせいで見えないから、ようやくお待ちかねの天体観測だ。

「真ちゃん。この時期に見え、なおかつ簡単に見つけられる星は?」
「オリオン」
「うん、初心者すぎるよ。まぁ、いいや」

 真ちゃんの足に寄り掛かったまま、あのへんにあるかな、と巨人の星を想う。
多分、大三角形もあのあたり。
あぁ、建物の間からてっぺんだけ見えるお月様のどこかにはアームストロングさんの足跡が残ってるんだっけ。

「さっきから行動が突拍子すぎるのだよ」
「えー?なにかな、ミスターユニバース」
「だからだな」

 下から覗き込んだ真ちゃんの瞳は薄闇の中で碧。とても綺麗だ。
それこそ、ガガーリンが言った言葉のように。

「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」

 この言葉はロシア人、演奏曲はドイツ人、こうして会話している私たちは日本人、と。
宇宙なんて規模が大きすぎて、とてもとても。

「言葉が通じなさすぎるんだが」
「宇宙人との交信なんてこんなもんだって」
「ほう?俺は勝手に遊びに巻き込まれていたわけか」
「まぁまぁ、ハウアーユー?」
「……Gut danke」

 ちょっとそこは英語で返してよ、なんて思ったけど宇宙人なら仕方がない。
笑いながら真ちゃんからのアクセスを待つ。

「Wie geht es dir?」
「ありがとう、とってもいいよ」

 地球だって宇宙の一部でしょう?
真ちゃんの膝元に顎を乗せてにっこり、彼に日本語で返した。
私達は今日も誰かと言葉を交信しあうのだ。電波は勿論持ってないけどね。