終焉のようにあなたを愛そう


 指の先から、すーっとまぬけに力が抜けていくような感じがする。もうあまり遠くは見えなくなってしまったし、高いところへは行けない。たぶん、今日が最後だ。自分の足で登った仁成のアパートの部屋の前の柵に顎を乗せながら、今日は何をしようかとかんがえた。仁成は、何をしたがるだろうか。鞄に詰め込んだウノ、トランプ、花札、ジェンガ、コンドームなどに思いを馳せながら愛しい白い頭が見えるのを待った。虫のうつくしい声がしんと響く秋の始めの夜の始まり。
 ザッザッと強そうな足音がして階下に目を向ければ、待ち侘びた白が毛先をふわふわと上下させながらこちらへ走ってくる。近付くごとに足音に混じって黒いウィンドブレーカーがシャカシャカ擦れる音も聞こえる。ザッザッがカンカンに変わり、階段を登っているのがわかった。私はなぜか仁成を見れず、街灯に群がる蛾を凝視していた。寂しい夜だ。これからお別れなのだ。次はいつ会えるかわからない。
「そんな真剣に何見てるんだよ」
 いつもと変わらない、甘くて静かで、どこか薄い黄緑色の声だった。私は返事をするほどのことでもないと思ったので、なにも答えずに身体と視線を仁成の方へ向けた。見慣れた黒いウィンドブレーカーに、白いバッシュ。いつもはお姫様みたいに白い頬が赤く色づいて、汗をかいていて、とても色っぽい。なんとなく鞄の中のコンドームを思い出したけど、今日は使わないだろうと思った。案外仁成は私のことを大切に思っている。
何も言わない私に早々に見切りをつけて仁成は部屋の扉の鍵を開けた。当たり前のように私が先に入って、後から仁成がまた鍵を閉める。何度も繰り返した私たちの大切な暗黙の了解だった。
「電気、つけないで」
 スイッチに伸びた仁成の指がぴくりと動きを止めた気配がする。狭い玄関に元気よくぽんぽんと靴を脱いで小さなシンクへ向かった。お気に入りの黄色のマグカップを出す。勢いよく流れる水の音と仁成が靴を脱ぐ音だけが耳に届いている。
「今日ヤんのか? お前電気とか気にしないだろ」
「しないよ。今日は見られたくないだけ」
「はぁ?」
 ゴクゴクと不味い水を嚥下して、お揃いのマグカップの仁成の分と、薬缶を出した。薬缶に水を満たして、蓋をする。ガスの元栓を捻って、コンロに薬缶を置いて、火を着ける。これも何度も繰り返した私たちの大切な暗黙の了解のひとつだ。
「ニキビでも出来たか?」
「人間じゃないんだからできるわけないでしょ」
 紅茶のティーパックを2つ開けて、空っぽのマグカップに入れる。私の既に1度水を汲んだマグカップに落とされたティーパックは、端からじわじわと僅かな水に侵食されてへたっていった。まだ夜目は効くようだ。
「シャワー」と言いながら仁成が脱衣場へ入っていった。ドアの隙間から光が漏れる。たまらなく寂しい気持ちになって、柊仁成ベッドに飛び込んだ。身体の内側からキシキシ音がする。あと何時間くらい保つだろうか。タイムリミットが来た時、私の身体はどうなるのだろうか。そのまま人間の死体みたいに残るのがいちばん困る。仁成があらぬ誤解を受けてしまう。蛍のように、光りながら散れたら素敵だ。私は仁成が一生忘れられないような消え方がしたい。仁成の中に一生残っていたい。
 ピューッ!と薬缶が鳴いた。慌てて起き上がり火を止める。お風呂場の建てつけの悪い戸が開く醜い音も聞こえた。二つのマグカップにそっとお湯を注いで運ぶ。仁成は薄めの紅茶が好きだからティーパックを乗せるためのお皿も忘れない。ちょうど私が床に座ったところで、仁成が脱衣場から出てきた。
「やべぇ暗い」
「床、熱いのあるから蹴らないでね」
「……俺が座るまで持ち上げててくれ」
「はいはい」
 仁成の定位置から取りやすい場所に置いたマグカップをひょいと持ち上げて、私のすぐ隣に置いた。ここなら蹴られまい。仁成の部屋にはテーブルがない。銀のラックと、ふかふかなベッドと(こういうところはお坊ちゃんだなあと思う)、小さなテレビがあるだけ。ラックに綺麗に並べられたバッシュやコンポやCDを見ると、私は仁成をとても抱きしめたくなる。衝動に抗わず 恐る恐る腰を下ろす仁成をぎゅっと抱きしめた。くたびれた英字のプリントされたTシャツを握り、暖かい旋毛に鼻を寄せるともう仁成の匂いしかしない。腰のあたりに硬い腕が回るのを感じた。
「ねえ仁成。私もう間もなく死ぬの」
「……そんな気がしてた」
「永く生きたぶんだけ色んなものが磨り減ってくって思ってた。……でも、こんなに仁成が愛しい」
「もう会えないのか」
「会えるよ。いつになるかわからないけど。私、今度は人間に生まれてくるから」
「そんなことできんの」
「もうずっとひとりでここを守って来たんだもの。このくらいの我侭通るよ」
 腰に回った腕に力が篭った。それをとても嬉しく、愛しく、尊く思う。
 何度も寂しいと言った。でも誰も聞いてくれなかった。呆れるほど永く生きて来たのに、私の孤独に寄り添ってくれたのはこの子だけだった。
 この子は泣いてはくれないだろう。笑ってもくれないだろう。構いやしない、私自身別段この子に私への心を求めている訳ではない。
 私が腕の力を少し緩めるとそれを咎めるように仁成の腕の力が強くなった。右の手のひらで白い頭を撫でながら、最期が近づくのを感じる。ゆるゆると目を閉じて、その時を待つ私の耳にあの黄緑色の声が届いた。
「……お前が今日死んで、最短で生まれ変わったとしても16歳差だぜ。いけると思う?」
 とても重苦しい調子で低く吐き出された言葉に、お腹の底がむずむずした。私は自分が笑おうとしているのだと思った。けれど喉の奥から漏れたのは笑い声とは程遠いものだった。惰弱な熱い吐息が唇の隙間から漏れでる。嬉しかった。
「泣いてんのか」
「人間の真似! ていうか、今いくつ差があると思ってるの。16くらいなんてことないよ」
 それもそうかと呟くと、仁成は私から身体を離して、膝立ちだった私を座るよう促した。逆らうことなく床にお尻をつける。暗闇の中で正面から見る仁成は相変わらず息を呑むほど美しい顔をしていた。
「お前、間違っても男に生まれてくるなよ」
 言いながらごろりと転がった仁成の頭が私の膝の上に収まる。まだ水気を孕んだ柔らかい髪に指を通して弄ぶ。乾ききらない水が私のワンピースに染み込んだ。
「男じゃ愛してくれないの?」
「そんなことねえけど。……お前との子どもほしいから」
 キンと指先が凍りついた。
 瞬間、子どもなんてできるわけがないのに、毎回律儀に避妊具をつけた虚しいセックスを思い出した。空っぽで、空虚で、寂しくて、たまらなく切なくなるのにやめられなかった。私にとっては人間の真似事でしかなかったそれに、仁成はたくさんの意味を含ませていた。じわじわと目の奥が熱くなる。誰かに少しずつお湯を注がれているようだった。私は私が思うよりずっと愛されていた。
「ちゃんと俺達で子ども作ろうぜ。自由に育ててやろう。バスケ好きんなってくれたら最高だな。そんで間違ったら叱って、ちゃんとできたら褒めて、傷つけたり傷つけられたら話し合って、……俺はそういう親になりたい、お前と」
 ついに溢れた雫が私の頬を伝って仁成の頬に落ちた。
私は何度だってうんうんと答えたかったけれど、声が出なくてひたすら壊れた人形のようにガクガクと頷いた。私が頭を振った分だけ涙(のようなもの)が飛び散って、どこかから漏れる僅かな光を反射して煌めいている。とっくに冷めて渋くなった紅茶に指が当たって中身が零れたけど、私も仁成も気にしなかった。仁成は私の目から零れる雫をずっと掬ってくれていた。途中で起き上がって、私の目元にくちづけて「しょっぱくねえや」と呟いたからふたりで少しだけ笑った。
 少しずつ感覚が抜けていく。ふれあっている箇所から消えていくようだった。けれど心はとても凪いでいて、消失への恐怖も、来世への不安も、仁成と離れる憂懼も、未来への希望に変わっている。恐れるはずだったことなんて、ぜんぶ仁成が吹き飛ばしてくれた。
 今生で最後の視界を愛しい恋人で埋め尽くしてしまいたくて少し強引にキスをした。触覚は既になくなってしまったから、うまく出来たかわからない。閉じなかった瞳に映る仁成の産毛も睫毛も、どうしようもないくらい愛しかった。くちびるを離して、仁成の頬を両手でそっと包み込んだ。柔らかな感触がわからなくて寂しい。
「はは、すげぇ。透けてる」
「うん」
「どこにだって迎えに行くけど、なるべく近くに生まれてこいよ。早く会いたい」
「うん。私も」
「またな」
「うん」
 瞬間、私の視界は仁成だけになって、その仁成が小さな子供のように顔を歪めるから、私は慌てて目を閉じた。
来世はもう「この子」なんて言えはしないだろう。だって、私は本物の女になる。


title ジャベリン