もう君しか愛せない


鉄朗はベッドに座って、数時間前に買ってきたマンガを読んでいる。私はそんな鉄朗のとなりで、数時間前にレンタルしてきたDVDを見ている。鉄朗が読んでいるのはザ・熱血という感じのスポーツ漫画で、私が見ているのは誰もが知っている童話をモチーフにした恋愛映画だ。せっかくの日曜日、私の部屋で一緒に過ごしているのに、互いに違うことをしていては意味がないようなきもするけれど、これが私たちの休みの過ごし方だった。適度な距離を保って自分たちのしたいことをして、くっつきたくなったらくっついて。私はこの過ごし方がとても好きだ。テレビから聞こえてくるのは英語。テレビ画面には可愛らしいお姫様と素敵な王子様、画面の下には日本語字幕。隣に座る鉄朗は、ぺらりぺらりと漫画のページをめくっている。鉄朗は読むのがはやい。鉄朗の横にはすでに9冊の漫画が積まれている。今読んでいる巻で、買ってきた漫画は最後のようだ。私が映画を観終わる前に、鉄朗は読み終わっちゃうだろうな、なんて頭の隅で考えながら、画面の向こうの映像を見つめる。どこまでも幻想的で綺麗で純粋なその恋愛に、胸の奥がきゅんとする。お姫様への愛を語る王子様のセリフは、現代日本ではまず聞くことがないだろうというくらいに甘く、ロマンチックだ。お姫様を見つめる瞳も、お姫様に触れる手も、お姫様に語る声も。どれもこれもが甘くて、ロマンチックで、綺麗で、とても優しい。演じている俳優さんの低くよく通る声とその綺麗な見た目もあって、どきどきしてしまう。自然と、うるさい胸の真ん中あたりに両手をあててしまうくらいに。

「なまえ、顔真っ赤」

隣から鉄朗のからかうような声が飛んでくる。ちらりと鉄朗を見れば、漫画は読み終わったらしく、にやにやとした笑みを浮かべながら私の顔を見つめていた。鉄朗に指摘されて、思わず両手で頬を押さえてしまう。触れた頬は確かに熱い。映画を見ながらどきどきして、鉄朗に指摘されるほど頬を赤くしていたのかと思うと急に恥ずかしくなる。

「…王子様が、かっこいいの」
「へえ。見た目も性格も俺とは全然違うタイプみたいだけど、ああいうのがいいの?」
「そういうんじゃないけど…囁き方とか、触れ方とか、見つめ方とか、ほら、なんとなく全部ロマンチックでしょ。ちょっと憧れちゃうかな。王子様に、あんな風にされたらって考えたら、どきどきしちゃう」
「ふうん、そういうもんか?」
「そういうもんだよ」

まだ熱い頬を両手で包んだまま、私は視線を鉄朗からテレビ画面へ移す。王子様はお姫様の頬にそっと手を添え、ロマンチックなセリフを甘く囁く。2人の唇が触れそうなその瞬間、鉄朗はその長い腕を伸ばして、私の横にあったDVDプレイヤーのリモコンを取った。折角いい場面なのに、鉄朗のその行動が気になって映像に集中できない。リモコンなんか手にして何をするのかと思えば、鉄朗はリモコンの停止ボタンを押してしまった。突然のその行動を非難するように、私は隣の鉄朗を睨む。鉄朗は肩をすくめて、「そんな怖い顔すんなよ」と笑う。リモコンを漫画の山のてっぺんに乗せて。鉄朗は漫画を読み終わったから私にちょっかいを出してきてるんだろうけれど、私は今鉄朗よりも映画に夢中なのだ。

「…鉄朗、私、まだ見てるんだけど」
「知ってる」
「知ってるならはやく再生ボタン押してよ」
「それはちょっとできないな」
「できなくないでしょ、はやく再生、」

はやく再生してよ、と言いかけた私の唇に、鉄朗の指が触れる。その長い指は、鉄朗らしくない優しい触れ方で、そっと私の下唇をなぞる。もう片方の手は、私の熱いままの頬に添えられた。鉄朗、と名前を呼びたかったけれど、唇をなぞる鉄朗の指が心地よくて、口を開くことが出来ない。代わりに、鉄朗が少し掠れた低い声で「なまえ」と私を呼ぶ。長い指で唇をなぞりながら、もう片方の手は私の頬をそっと撫でながら、私を、とろけそうなほどの甘い瞳でじっと見つめて。いつもと少し違う。私に触れるこの手も、私を呼ぶその声も、私を見つめるこの瞳も。いつもよりもずっと優しい。鉄朗の心地よい意地悪さや、心地よい明るさや、心地よい適当さがない。ただただ、甘くて、優しい。鉄朗が鉄朗じゃないみたいだった。目の前にいるのは鉄朗なのに。まるで、王子様、みたいだ。言葉もなく鉄朗の顔が近づいてきて、鉄朗の吐息が私の鼻先にあたる。あ、キスされるかもしれないと思った瞬間。

「…どう?ちょっと王子様っぽかっただろ?」

目の前で茶化すような、…いつもの鉄朗らしい笑みを浮かべた彼は、そう言って私の体を押し倒した。私の唇をなぞっていた手は私の両手を頭上でまとめあげて。私の頬に触れていたその手は私のブラウスのリボンに伸びていて。私と鉄朗は、ピンクのシーツの上で見つめ合う。さっきまでの王子様のようだった鉄朗はどこに行ってしまったんだと思う。思うけれど、今私を押し倒してにやりと笑う鉄朗に、私の胸はさっきよりもずっとどきどきしている。

「…さっきまではちょっと王子様みたいだったけど、今は王子様っぽくないよ。だって、王子様はこんな風に女の子を押し倒したりはしないと思うよ、鉄朗」

どきどきしているのが悔しくて、鉄朗にそう言ってやる。鉄朗は私の言葉を気にした風でもなく、私を見つめながら楽しげに笑っている。

「さあどうだろうな。王子様も一応男だし。可愛いお姫様が目の前にいたらさ、こういうことしたくもなると思うけどね。俺は」
「ロマンチックのかけらもない…」
「はは。でも、こういうの、好きだろ」

言いながら、しゅるり、と私の胸元のりぼんを解いて、ボタンをはずして、露わになった首元に鉄朗の唇が触れる。痛いくらいに強いそのキスに、眩暈がする。たまらず声を上げれば、鉄朗は顔を上げて、私を見つめて、優しく微笑んだ。その表情が、さっきまで見ていた映画の王子様と重なってまたどきりとする。映画の王子様より、ずっと下品で、ずっと意地悪で、ずっと、ずっと、格好いい。DVDを見ていた時よりももっと熱くなった頬と体に、鉄朗もきっと気付いている。

「なまえ」

私を呼ぶその熱っぽい声に、まだ途中だったDVDのことなんてもうどうでもよくなってしまう。どんな王子様だって、鉄朗にはきっと敵わない。DVDの王子様よりも何よりも鉄朗が欲しくて、ねだるように彼の首に自分の腕を回した。


title ゼロの感情。