青い鳥は青い空に融け消ゆ


依頼の内容を頭の中でおさらいしたイルミは、珍しく大袈裟にため息をついた。暗殺という仕事に対して今更好き嫌いの感情はないが、気分が乗らない日というものは誰にだってある。

というのもイルミは昨日の夜、些細なことで恋人と大喧嘩したのだった。今までの人生の中でイルミが女と喧嘩になったことはなかったし、もしもそんなことがあればすぐに捨てるか殺している。
だから大喧嘩する、というのはそれだけイルミが彼女のことを特別扱いしているということなのだが、なんにせよ腹が立つものは腹が立つのである。

加えて今日の依頼内容が要領を得ないもので、それもまたイルミの機嫌を悪くさせていた。
暗殺に指定された場所はとあるパーティー会場で、今時にしては古風で悪趣味な仮面舞踏会が開催される。そして肝心の内容は、そのパーティーに参加している『青いドレスの女』を殺せという、酷く曖昧なものだった。
仮面をつけているからターゲットの確認が難しいのはわかる。だが、広いパーティー会場で青いドレスの女が一人とは限らないし、名前はおろかどういう素性の女なのかもわからない。

「あれ……」

イルミはそこまで考えてふと首をかしげた。自分ならこのようなわけのわからない依頼は絶対に受けないはずだ。だがそれなら、どうして自分は素直にパーティー会場まで来ているのだろう。親父にでも頼まれたんだっけ?

イルミは悩んだが、よくよく考えてみれば自分の目もとを覆う仮面もつけた覚えがない。
何かがおかしい、引き返そうか。そう思った時、視界の端に青いものが映って、イルミは思わずそれを目で追った。

あれが、ターゲットかもしれない。

青いドレスを着た女は、都合よく一人だった。ついでに会場の中を見渡してみるが、他にそれらしい人物はいない。「ねぇ、」この際、間違っていたって知るものか。こんな訳のわからない依頼を出す方が悪いし、『青いドレスの女』を『一人だけ』殺せとは言われていない。もしも後から別に青いドレスを着た女が来たらそれも殺してしまえばいい。

イルミはこの日とても機嫌が悪かった。とてもじゃないが仕事なんて気分ではない。声をかければ女は振り向いて、なんでしょう?と首をかしげた。



下らない仕事だったな、と冷めた思いで、イルミは隣の女を見下ろした。いや、正確に言うともはやそれは女だったものであり、今はただの死体である。

─そのドレス、自分で選んだの?
─そうよ、この色が好きなの。
─ふぅん……
─あら、それだけ?青は幸せの色なんだから。
─そう。似合ってるよ

今日は特に甘言を吐く気分でもなかったが、仮面舞踏会なんて怪しげなものに出席するだけあって、女は簡単にイルミについて来た。
実際、向こうも男漁りが目的で来たのかもしれない。

とにかく無事二人きりになることができたイルミは部屋に入るなり女を殺した。いつもは綺麗に殺すのだが今日は気がたっていたため、女の血が青いドレスを赤黒く染める。女自慢の青色は見る影もなく台無しだ。ついでに汚れた手もドレスで拭ったイルミだったが、さぁ帰ろうという段になってふと女の顔が気になった。

別に死人の美醜に興味は無かったが、最後までターゲットのことを何も知らないというのもなんだか気持ちが悪い。屈んで女の仮面に手を伸ばし、イルミは遠慮なくそれを取り払った。取り払って、信じられない光景に目を見開いた。

「……なまえ?」

仮面の下。光を宿さない虚ろな瞳で横たわるのは、紛れもなく自分の恋人だった。ここにいるはずのないなまえ。死んでいるはずのないなまえ。自分がたった今命を奪ったばかりのなまえ。

手から仮面が滑り落ち、床にぶつかって軽い音を立てる。「な、んで……」それが命の音だと言わんばかりに、後は静けさだけがイルミを包み込んだ。

「なんで、違う……オレは、こんな……」

相手を間違った?それとも誰かが依頼した?もはやどうしようもないことはわかっているのに、イルミの頭の中はどうしようでいっぱいだった。間違いにしろ、仕組まれたものにしろ、彼女を手に掛けたのはイルミだ。たとえそんなつもりがなかったとしても、現に彼女は死んだ。
……死んだ?嘘だ、そんなはずはない。

イルミは震える手でなまえの身体を抱き上げた。死んでなんかない。だって彼女は『まだ』温かい。

「はは……冗談きついよ、なまえ」

昨日の喧嘩、まだ怒ってるんだろう?だからこんな手の込んだ悪戯をしてオレをからかってるんだね。わかったよ、オレが悪かったよ。私といて幸せ?なんて質問をしてきた君に、わからない、そんなの抽象的すぎるって言ったオレが悪かった。

悪かったからさ、ねぇ……

「なまえ起きてよ……オレ、なまえといて幸せだよ」

別になまえを怒らせようとしてあんなことを言ったのではなかった。ただ、生まれた時からイルミの生活は暗殺のことばかりで、改めて幸せかどうか聞かれるとよくわからなかった。いや、考えてもみなかった、と言ったほうが正しい。

だからイルミは正直にわからない、と答えた。きっとそれがなまえを傷つけたのだろうが、酷いと散々責めたてられて詰られてイルミもいい気はしなかった。初めから一つの答えしか認めないくせに、質問をしてくること自体卑怯だと思ったのだ。

「あぁ、ほんとにどうでもいい喧嘩だよ……」

好きだった。抱きしめるだけで満たされた気分になった。傍にいれば落ち着いたし、なまえが笑うと安心した。

それが幸せだったんだって、どうして気がつかなかったんだろう。ずっと傍にいたのに、どうして気がつかなかったんだろう。

「ねぇ、起きてよ……」

お願いだから起きてよ。

起きて……


「もう、イルミったら起きてよ!」

ひやり、と冷たいものが頬に触れ、イルミはぱちりと目を覚ます。「珍しいね、疲れてたの?」そう言いながらこちらを覗きこんできたなまえは、呆れたように苦笑した。

「おはよ、でも仕事でしょ」
「……」
「どうしたの?もしかして寝ぼけてる?」

イルミは二、三度瞬きをすると、次の瞬間黙ってなまえを思い切り抱きしめた。「え!?ちょっ、なに!?」突然のことに彼女は慌てふためくが、イルミは離さない。ごめん、と何度も口にして、それから夢でよかった、と息を吐いた。

「昨日の喧嘩?もう怒ってないよ、私こそ変なこと聞いてごめんね」
「違う。けど、オレ……」

腕の中のなまえはちゃんと温かったが、寝起きの身体には少し冷たく感じる。それが夢の中の彼女を思い出させて、イルミはなまえをベッドに引きずり込んだ。

「わっ、何?イルミ変だよ?」
「変でもいいから、聞いて。オレ、なまえといてすごく幸せ。幸せだよ」
「っ、ほんとにどうしちゃったのよ……」

口では困惑しつつも嬉しそうな彼女に、イルミはようやくほっとして抱擁を緩める。そして今更ながらこんな子供じみた真似をした自分が恥ずかしくなって眉を顰めた。

「……今の、忘れて」
「え?」
「いいから忘れて。でももう少しこのままがいい」

それを聞いて変なイルミ、と笑ったなまえだったが、そのまま胸に顔を埋めてくる。「私も幸せだよ」彼女の方は初めから、幸せが何なのかわかっていたみたいだ。

─青は幸せの色なのよ

夢に整合性を求めるのは馬鹿げているが、確かに殺す前のあの女はなまえではなかった。いくら仮面をしていようが、なまえなら声や仕草でわかる。それになまえは別に青色が好きだというわけでもないし、おそらく幼い頃に聞いた童話が混じっているのだろう。
教養として一通り聞かされたその話たちは、イルミにとってどうでもよいもので記憶の奥底にしまわれていた。だがあの青い鳥の話だけは主人公たちの馬鹿さ加減がとてもよく印象に残っている。

「……どうして初めから家にいるのに気がつかなかったんだ」
「へ?」
「青い鳥の話だよ。知ってる?」

怪訝そうな顔をしていたなまえはあぁ、と頷いて、それからちょっと考え込む。

「確か、本当の話ではその青い鳥も籠から逃げてしまうんだよね」
「そうだったかも」

夢の内容を知らない彼女は悪気なくそんなことを言うが、イルミは少しドキリとする。無意識のうちにさらに抱き寄せれば、なまえは苦しいよなんて困った顔になった。

「でも、私はあの話で鳥は逃げてないと思うんだよ」
「逃げてないの?」
「いや、籠からは逃げたけど、青い鳥は空を飛んで上から子供達を見守ってるんだよ。でも青い空に青い色が溶け込んで子供達には見つけられない。せっかく幸せはすぐ傍にあったんだって気がついても、人は時間が経てばまた忘れちゃうから見つけられないの」
「……それ、本当の話?」
「自論です、自論」

でも、ただ逃げちゃったって終わりよりこのほうがいいと思わない?
聞いた彼女はふとベッドサイドにある時計に目をやると、途端に慌てた表情になった。

「イルミ、仕事!」
「……」
「起こしに来た私まで寝転がってる場合じゃなかった」

ベッドを抜け出した彼女はほら早く、とイルミを引っ張る。そういやなんでこんな話をしてるんだっけ、なんてぼやく横顔はいつもの彼女なのに、今日はとても新鮮に見えた。

「ねぇ、なまえ、」
「なに?本当に遅れたら困るでしょ」
「愛してる」

そう言えば好きだよとは言っても、なかなか愛してるとまでは言ったことがなかった。言われた彼女の方は目をまん丸にして、それから少し怒ったような困ったような顔になる。照れてるんだろう。

「……っ、だから急にどうしたのよ」
「幸せには慣れたくないから」
「……変なイルミ」

幸せなんて言葉は、自分の人生には無縁なのものだろうと思っていた。もっと言えば、それを求めたことすらなかったと思う。だがこうして幸せが何か自覚した今、手放すのはどうしても惜しい。見えなくなってしまうなんて嫌だ。

「……私も、イルミのこと愛してる」

そっぽを向いて蚊の鳴くような声で返事した彼女に、たまらなくなって後ろから抱きついた。

「まぁ、そもそもオレは間違っても籠から出したりしないけどね」