雪の火


「近藤さんによろしくと」「うん。伝えて置こう」
奥から声がすると、間もなく、三和土に灯りが入った。品の良い紫の暖簾には、料亭の名前が隅の方にちょこんと書いてある。老舗の名店なのだけれど、遠慮がちなところが良い。あの人はそう言って、ここでの接待には必ず応じるようにしている。やがてなかの熱気をそのままに纏った伊東さんが、頬を染めながら顔を出した。
「うっ、」「外は寒いでしょう」「きみはこのなかで何時間待っていたんだ」差し出したコートを受け取りながら、濡れた瞳が探ってくる。「そんなに待つもんですか。せいぜい十分程度です」「嘘を言え。手がつめたい」屋内でたっぷりあたためられた伊東さんの手は、冷えたわたしには十分すぎるほど熱い。「手袋をしろと言ってるだろう」眉間にしわを寄せながらも、伊東さんはわたしの手をコートのポケットに収めて早々と歩き出した。こうするとわかって、むざむざ手袋などを持ってくるはずがない。わたしは伊東さんが考えているよりもしたたかで、ずるい女だ。
もくもくとふたりで夜道を進んでいると、急に伊東さんが立ち止まった。わたしもつられて足を止める。「雪だ」言われて、闇の上澄みのような空を仰ぐと、ちらちらと白いものが降ってきた。「道理で寒いわけだな」ポケットのなかの手が、ぎゅっと力を増す。これくらいならば積もることはないだろうが、たしかに雪だ。しかも初雪である。「さ、急ごう」上気していた熱も冷め始め、伊東さんは再び帰路につく。ばさり。突然花を咲かせてやると、驚いた肩が跳ね上がった。伊東さんがわたしを見る。手を繋いでから、初めて。「傘を持ってたの。あなた、見えていなかったんでしょう」わたしはわらった。意地悪い声になってしまったが、これでいい。「……すまない」「いいえ。わたしも手袋、忘れましたから」伊東さんは、わたしがこうしていつも彼を迎えに行くことを快くおもわない。でも来てほしくないわけではない。わたしはそれを知っていてやめないのだから、やっぱり、ずるい女だ。



「近藤さんによろしくと」「はい。伝えて置きます」
三和土に灯りが入ると、間髪を容れずに戸が開いた。女将に軽い挨拶をする。暖簾の色は、近ごろ臙脂色に変わってしまった。「寒ぃな外は」「なかはあったかいですから」煙草に火をつけて、土方さんは気持ちよさそうに一服する。口下手な彼は接待が苦手だが、局長の代わりに時々こうして席に上がった。「雨でも降んのか」屋内のぬくもりと、煙のにおいとを纏って、土方さんはわたしの左手に目をつけた。「いえ。用心のために」今年の初雪は、まだ十日ほど先らしい。今朝の天気予報で、そんなことを言っていた気がする。「帰るか」だけどもいつその時が来てもいいように、わたしは肌身離さず持ち歩いている。あの人の、雪よけをしたように。「お前、こないだ言ってた甘味屋」「はい」「あした非番だから連れてってやる」
いまは閉じられた傘。
「え、いいんですか」「おう。昼から空けとけ」もうおなじようには咲かない。ちょうど良い温度にあたためられた土方さんの手は、冷えたわたしにはすこし足りない。