微かな音を、聞いた気がするが、目覚めてから、それが最早音だったのか声だったのか、確かめようが無いことに気付く。私の存在としての音だったのか、彼の囁きだったのか。
淡い色を、見た気がするが、目覚めてから、それが最早何色だったのかそもそも本当に色があったのかすら確かめようが無いことに気付く。私の存在としての色だったのか、彼の髪の色だったのか。

「     」

ともかく、私は目覚め、そして目の前に今度は大層鮮やかな、赤色がある。

「うわあああああ!」

そら叫ぶだろう。赤い瞳が視界いっぱいにあれば。つまり知らない誰かがそれほどまでに顔を近づけていたら。
叫んだとほぼ同時に横たえていた身体を起こそうとした私は、自身の額を、「誰か」の額にぶつけた。

「いっ!!」

またも声を上げたのは私の方だ。起きるのと同じくらいの勢いで再び地面へ仰向けになる。うっすらと浮かぶ涙越しに、もう一度、「誰か」を見た。
もしかしたら、もしかしたら、私が今感じた衝撃は、物理的なものではなかったのでは、と思い直す程の、衝撃。美しいとはこの存在のことだ。私は今まで、本当の美というものに出会ったことがなかったのだ。

「おはよう、大丈夫かい」

彼から声をかけられ、一旦目を閉じる。声色まで柔らかで美しい。
いやいやいや、なんだこれは。誰だこれは。天使か何かか。本物を見たことは無いが、多分そうだ。でなければこれほど美しい理由を説明できない。
「おや、また眠ってしまったのかな」
銀の髪、赤い瞳、鼻梁は高く、首は細く、額には仄かな桃色がさし、慎ましい唇は静かに弧を描いている。どう控え目に言っても絶世の美少年だ。心臓がバクバクする。汗が噴き出す。これは一体どういう状態だ。いや訊かずとも分かる、興奮だ。
「というわけでも無さそうだね。鼻がひくひく動いている」
人は本物の美少年にあったとき、その美しさを少しも侵すことの無いように、為す術もなくこのようにして目を閉じるしかないのである。
「それなら目を開けてくれると嬉しいんだけど」
……あ? ちょっと待て私「額に仄かな桃色」と思った?頬とかでなく?なんで額が赤くなんの? …………!

「私がぶつけたからか!!すみません!!!」

カッと目を開け、再び身体を起こしそうになったが、ギリギリのところで止める。ささやかな腹筋が唸りを上げる。
非常に気味の悪い状況だったろう。目をかっぴらき、両腕はピタリと体の横に付け、ほんの少し背を浮かせたまま、食いしばった歯の間から謝罪を滲ませる様は。けれども彼は仰け反ることも嘲ることもせず、流石に一瞬きょとんとしたものの、次の瞬間にはやはり美しく目を細め、なんと私を抱き起こした。

「おでこが赤くなっているよ、痛かったろう」

そしてあろうことか私の額を、その細く白い指先で触れ、撫でた。

「あっ、う、いえそんな、あのあの、」

意味不明な言葉を垂れ流しつつ、近すぎる余りの美しさと幸福感に、私は再び意識を手放した。


次に目覚めたときに見えたのは、知らない天井だった。
注意深く身を起こすと、軽く目眩を感じるものの、もう一度失神するということはなかった。
辺りを見回す。白い壁、白いベッド、白い天井。照明の白い光。不意に、先程の彼を思い出す。もし彼がこの部屋に立てば、その白さに埋もれてしまうのではないか。思ってから、くすんと笑う。私は何を。
本当はそれどころではない。今ここが何処かも何時かも何のためにいるのかも分からないし、実は私が誰かもよく分かっていないのだ。思い出せない、と言う方が正しいかも知れない。さっき、私が目を覚ました、石畳のようなコンクリートのような地面のような不思議な場所と、彼越しに見えた大きな木、空。それ以前の風景の記憶には、靄がかかったようになっている。顔をしかめて無理に思い返そうとすると、学校のような建物や、夕映え色の海、空いた電車の座席等が浮かぶが、それらは私にとって意味のある輪郭を描く前に消えてしまう。息を吐いた。そしてすぐにまた、ついさっき目の前にあった美しい顔を思い出す。こちらはありありと浮かべることができる。銀の髪、赤い瞳、鼻梁は高く……

「今度こそ目が覚めたようだね」
「わああああああ!」
「……君はよく叫ぶ。元気な証拠かな」

白い壁だと思っていたところがプシュッと開き、またも彼が現れた。
もう少し普通に登場してくれ、と思いかけたが、どう考えても(私にはそう見えなかっただけで)ドアから入ってきて、適切な距離から適切な声量でもって声をかけただけの彼に1つも非は無い。

「ごめんなさい、丁度考えていて……。」

言ってからしまった、と思ったがもう遅い。

「何を考えていたんだい」

彼はごく自然な様子で部屋に入り、私の脇に立ち、ズボンのポケットに両手を入れて問うた。
何か嘘を吐けばいいと思うだろう。けれどもなるほど、彼の美しい目に見降ろされてみると分かる、そんなことは不可能だ。

「あなたの、ことを。」
「奇遇だね、僕もだ」

少し緊張していた頬を緩め、私が、にへら、と笑うのと、彼が、ふふ、と微笑むのが同時で、次は少しだけ声を上げて笑った。

噛み合わなかった第一、二声を思うと、そこからは随分スムーズに意思の疎通が進んだ。
彼はベッドに腰掛けて、いくつかのことを教えてくれた。くれたものの、その殆どが私には理解不能だった。そもそも難解なのだ、彼の言葉自体が。得た知識とすれば、この場所で彼(と、あと数人)は、もう何年か、待っているということ。私は先程突然現れたということ。ここは彼の部屋で、彼以外には私の存在を今のところ隠しているということ。
分からないことだらけだったが、彼の表情や語り口、仕草のどれもがやはり美しく、そして勘違いでなければ優しさというものに満ちていたために、不思議と落ち着いて耳を傾けることができた。
見とれていた。そのために、不意に彼が口を噤んだときも、私は黙って彼の顔を見つめていた。少し口が開いていたことに気付き、慌ててしめる。

「君は運命の列車に乗り込んでしまった、と言ってもいいかも知れないね」
「無意識に」
「無自覚に」
「何の為に」
「何かの為に」
「……列車かあ、飛び込み乗車かな、乗った駅なんてまるで覚えていないんだけど大丈夫かな」
「大丈夫さ、降りる場所なんて無いんだ。もう少し言うならば、別の列車からうっかりと乗り移ったのかも知れないからね。君に落ち度は無い」

そうかしら、と私は眉を寄せる。アクション映画のように走る車両から車両へ飛び移る自分を想像したが、滑稽なだけだった。

暫くして、私は驚くべきことに気付く。

「ねえ、貴方の名前を教えてくれる?」

彼もまたほんの少し目を丸くして、瞬きをする。それは私と同じ驚きだと思ったのだが、もしかしたら、違ったのかもしれない。
そして彼は、カヲル君は。もう忘れないように、とでも言うように、ゆっくりと、はっきりと自身の名を口にした。

「カヲル。渚カヲル」

ぐらりと視界が揺れる気がする。私はこの台詞を聞いたことがある。過去に何度も。それこそ、カヲル君が言うように、別の列車の中で。重要なアナウンスとして。幾度も、幾度も。

「カヲル君」

彼の名前を口に出してみて、分かった。唐突に理解した。
私がこの場所に来た意味。もう鑑賞者じゃない。干渉者だったんだ。

「もし良ければこの建物を案内するよ」
「ありがとう。カヲル君が気に入っている場所から連れて行ってほしいな。……ピアノがあるところ、とか」

カヲル君は僅かに目を大きくし、しかしすぐに微笑んだ。

「いいよ、行こう」



「って言うても弾けないんですけどねっ」

椅子に座って万歳をしてみる。空が青い。ぬっ、とカヲル君に覗き込まれる。この人はいつも顔が近いなあ。

「一緒に弾いてみよう」
「私、全然できないよ?」
「大丈夫、君の心の赴くままに鍵盤を叩けばいい」
「そうかなあ……サポートよろしくね」
「任せて」

いつか画面の向こうで見た彼のように、最初はおずおずと、段々弾むように、私の指が動き始める。メロディもリズムも分からない、けれども音が走っていく。何故こんなことができるのだろう、答えは簡単だ、カヲル君の指が隣で動いているから。
もしも音楽の天使がいるのなら、それは彼のことだろう。
夢のように音が紡がれていく。自然と声が出てしまう。歌とも言葉とも取れない音が、私の喉から口から零れ、彼はそれも掬ってくれる。
それは喜びの歌になる。死に向かうのではなく、今度は生き抜く為の力になる。



「うん。ああ、特に理由は無いんだ。きちんと説明できる理由は」
 
何故、私という存在を受け入れたのか問うてみるとカヲル君はそう言った。ピアノを背に、地面に座る私たちは夕映えを見ていた。
珍しいな、と私は思う。珍しいと分かる程に一緒にいたわけでは無い筈なのに、カヲル君が説明出来ないというのは珍しいと、思う。例え難解な言葉であっても彼は説明をするし、説明出来ないことは今はまだ話すことができないということだ。
黙った私を少し見て、カヲル君は目を細めて、少し考える風に遠くを見た。
それからもう一度こちらへ視線を投げる。

「例えばミルクが無くなったら、君は買いに行く。例えば列車に乗りたければ、君は時刻を調べ然るべき場所に立つ。そういうことかも知れないね」
「……カヲル君の髪は牛乳ってこと?」
我ながら馬鹿でしかない質問だ。しかしそれにも彼は穏やかに微笑んでくれる。
「さあ、どうだろう。ふと思い付いただけなんだ」

チケットだとしたら。多分そういうことはどこにでも転がっている。
線路のポイントを変えることが、この世界では、何処ででも何時でもできる。思ったようにはいかないとしても。進み続ける運命のようなものを、ある一瞬で、変えることができる。

「このまま星を見たいなあ」
「いいよ、そうしよう」
「ありがとう。もし良ければ……朝まで一緒にいてくれる?」
「君が望むなら」
「嬉しい」

呟いて、夕日が落ちていくのをじっと見ていると、少し乾いた目に涙が滲んだ。

「まだ何か望むことがあるのかい」

カヲル君はおそろしく察しが良い。

「それから私に出来ることを考える。場合によってはこの場所を立つかも知れない。物語を書き換えることになるかも知れない。それも、手伝ってほしいんだ」
「そうか」
「カヲル君の意志で、決めてくれたら嬉しい」

ハッとした顔をして、それからカヲル君はじっと考え込んだ。
私も隣で思案する。
世界の理を変えられるのは一人の少年かも知れないけれど、それまでじっとはしていられない。必ずしも痛みを伴わなきゃいけないなんて誰も強いられない。誰も苦しまずに、幸せな場所に辿り着けるように、私に出来ることを。
やがて満天の星が夜空に浮かぶ頃、彼は小さく息を吐いて、こちらを見た。
向き合う。

「一緒に行こう」

微笑んで彼は立ち上がる。
もう一人にはさせない、哀しい途中下車を見送ることはできない。
同じ列車に乗ったのならば、一緒に行く先を決めるんだ。
彼の白い手が目の前に差し出される。私も微笑んで、その手を掴み立ち上がった。
大きく息を吸って、もう一度強く握り直す。

随分昔に止まっていた時間を進めよう。止めたのは自分自身だから、それも容易なこと。
これは私の物語。私の為の、あなたに贈る、精一杯の一つの言葉。

「愛してる」

吹いていった夜風の向こうに、新しい日々が輝いている気がした。