ゴールドステージ、ジャスティスタワーの高層階。窓から星を見下ろしているバーナビーを見つけ、なまえはそのようすに目を奪われた。
バーナビーの視線の先にあるのは、シュテルンビルト――星座という名を持つこの都市の、夜空のような夜景だ。星を見下ろす、というのは、だから本当は正しい表現ではない。
けれどバーナビーのようすは、人々の生活の明かりを眺めるのに相応しいものではないように、なまえには感じられたのだ。バーナビーのようすはまるで、遠い場所で遠い昔に燃え尽きた星を眺めているかのようだった。
「あの輝きを、バーナビーたちは守っているのね」
思わずなまえは、彼に声をかけていた。あの光の一つ一つは、人々の活動のしるしなのよ。と、この街を守るヒーローに教えてあげたいと思ったのかもしれない。
すると、彼女の存在にはじめて気づいたらしいバーナビーは、いかにも面倒だという表情をその端正な顔に浮かべた。それは、やっかいなやつに見つかってしまった。うっとうしいから早くいなくなってほしいという思いを、言葉を使わずになまえに伝えるための表情だ。
二人はアカデミーのころからの顔なじみだが、しかし本当に彼と知り合ったのは、卒業後のことだとなまえは思っている。ヒーローアカデミーをそれなりに優秀な成績で卒業したなまえは、学んだ知識を活かして、ヒーローのサポートをする仕事を得ることができた。そこではじめて、彼女はバーナビーの気難しい本性を目の当たりにしたのだ。
「何か用ですか、なまえ?」
無言の訴えに応じないなまえに、焦れたバーナビーが、用が無いなら立ち去ってほしいと暗に告げる。しかしなまえは、バーナビーの不満に気づいているけれど気づいていないふりをしている、という表情で彼の隣に立った。
いつだって完璧な笑顔を絶やさなかった優等生が、本当には滅多に笑わない人だということを、共に働いた数か月で彼女は理解している。戸惑ったのはほんの数日だけで、今では彼のそんな不完全さを、なまえは愛しく感じていた。
「こんなに、たくさんの人を、守らなきゃならないのね」
彼と共にシュテルンビルトを見下ろして、なまえは改めて、その膨大な光の数に圧倒された。
ほんの数か月前までは、なまえもまだあの光の中に埋もれていた。ゴールドステージで暮らし働く人々を、憧れと畏怖を抱いて見上げていた。自分もいつかきっとヒーローになるのだと信じていたし、ヒーローにさえなれたなら、それですべてがうまくいくような気がしていた。


望みもしない能力を得てしまったとき、幼いなまえは嘆くばかりだった。どこまでも伸びていく自分の腕が奇妙で、気味が悪くて、いっそ切り落としてしまおうかとさえ思いつめた。
そんなとき、孤児院のマザーがなまえの涙をぬぐいながら教えてくれたのだ。腕を長く伸ばせるということは、それだけ遠くの人にも手を差し伸べられるということだと。
テレビに映るヒーローたちも、なまえと同じNEXTなのだと彼女は言った。「あなたの力は、きっとたくさんの人を救えるわ。彼らのように」なまえは、将来に夢を見出すことができた。
しかし大勢いたアカデミーの生徒の中から、選ばれたのは今なまえの隣に立つ青年一人だけだった。完璧に見えた彼も不完全で脆弱な一人の人間でしかなく、けれどなまえが彼の立場を手にしたところで、彼ほどうまくやれる気もしない。
「僕たちだけの力では守れません。僕らが戦えるのは、なまえ。あなたたちのような、ヒーローを支えてくれる人たちのおかげです」
バーナビーはとてもなげやりなようすで淡々と、ヒーローとして模範的な台詞を口にする。この場になまえの他にも人がいたなら、模範的な笑顔も浮かべていただろう。
今更、彼がなまえに対して取り繕う必要はない。それでも彼が、彼女にわざわざ労いの言葉をかけたのは、たんなる皮肉だった。
バーナビーがその胸の奥に、痛みか悲しみか、ひょっとすると憎悪とも呼ぶべきものを隠し持っていることに、なまえはなんとなく気づいていた。けれどどうしたら、彼の幸いにつながるだろう。彼のために何ができるだろう。
なまえは、今の自分がバーナビーの支えになれているとは少しも思っていなかった。だから「ありがとう」と、彼の皮肉に微笑みを返した。心を通さずに発せられたバーナビーの言葉は、図らずもなまえの決意を後押ししてくれたからだ。
「私、今の仕事を辞めようと思っているの」
決意を言葉にしてみると、それはよけいに確かなものに感じられた。
バーナビーはなまえの言葉に驚いたようで、ようやくその視線を彼女へ向ける。なまえはバーナビーの驚いた顔を見て、愉快な気持ちになった。
本当は何も告げずに行くつもりだった。しかし自分の言葉が、たとえわずかでも彼に影響を与えるのなら、口を閉じたままにしておくのはもったいないことだ。

「ヒーローになりたかった。この能力は人を救うために与えられたんだって信じてたから、そのために頑張って来たわ」
するとバーナビーはなまえの挫折を決めつけて、軽蔑を込めたため息を吐いた。
「まだチャンスはあると思いますけど、諦めたってことですか」
彼が呆れるのも、無理のないことだろう。なまえはまだ、道を閉ざされたわけではない。共にアカデミーを卒業した仲間たちと比べると、むしろチャンスを得やすい場所にいる。
腕が伸びるというなまえの能力は、あまり戦闘に向いた力ではないが、それは救助や逮捕に向いていないということにはならない。見栄えを気にするスポンサーにとっては、あまり魅力的でないのだろうが、それでも可能性は残されている。
「星の光が何億年もかけて人の目に届くように、言葉が心に届くのにも、時間がかかるのかもしれないね」
抽象的な言い回しを理解し合えるほど、二人は知り合ってから長くない。はぐらかすようななまえの台詞に、バーナビーは不愉快そうに顔を歪めた。
「あなたの感傷に付き合うほど、暇じゃないんですけど」
だったら立ち去ればいいのにとなまえは思ったけれど、口には出さなかった。言葉にしたとたんに、バーナビーは言われた通り立ち去ってしまうだろう。
バーナビーはなまえの恩人だった。バーナビーにどんな思惑があって、顔出しのヒーローという戦い方を選んだのかなまえは知らない。けれど「彼らのようになる」という言葉の本当の意味に気づかせてくれたのが、彼の姿勢だという事実に変わりはない。彼にそんなつもりがなかったとしても。
「私はたしかにヒーローになりたかったけど、スターになりたかったわけじゃない。バーナビーのおかげで、気づいたの」
いつかヒーローになれたとして、なまえにどれだけのことができるだろう。肩書が増えたところで、なまえはなまえでしかない。一人の不完全な人間以上の何かに、なれるわけじゃない。
だとしたら、たとえヒーローになれなかったとして、何の不都合があるだろう。なまえは、なまえだ。差し伸べるための腕を、切り落としたわけじゃない。
NEXTだと知られることを恐れて手を伸ばすことを躊躇えば、救えるはずの人も救えない。出来ないことばかりをあげ連ねて、出来ることさえしないでいるのは、怠慢ではないだろうか。
「顔と名前を晒す覚悟さえあれば、ヒーローになれなくたって夢は叶うわ」
彼のために何ができるだろう。なまえにはわからない。ただ、シュテルンビルトは少し、彼の腕よりも広すぎるように思えたのだ。
なまえの覚悟を聞いて、バーナビーはふんと鼻を鳴らした。彼女の決意など彼にとっては、言い訳か負け惜しみにしか聞こえなかったのだろう。
「では、今度こそ夢が叶うといいですね」
いよいよなまえを見限った彼は、その言葉と共に彼女に背を向けた。しかし、歩き出そうとしたところでふと振り返り、シニカルな笑みを浮かべる。
「ああ、あなたのために無駄にした僕の時間は、退職祝いにして差し上げますから、ありがたく受け取ってください」
なまえはバーナビーの背中を見送って、「まったく、最後まで…」と肩をすくめた。このタイミングで肩を落とすのは、どうにも癪だったからだ。
二人はアカデミーの同期生で、卒業後も同じ職場で働いた。けれどまるで、偶然同じ電車に乗り合わせただけだというように、まったく最後まで他人のままだった。
でも、だからこそ、となまえは思う。いずれまた偶然に、巡り合うこともあるだろう。



それから、およそ二年が経ったころのことだ。相棒の引退に乗じてヒーローを辞めたバーナビーは、シュテルンビルトを離れてとある田舎町に滞在していた。そこで彼は、厄介なニュースに遭遇してしまう。
『美人警官、NEXT能力で人命救助』
バーナビーは、思わず息を呑んだ。
「…なまえ?」
時間を持て余して、暇つぶしに覗いていたニュースサイト。その記事の一つに添えられた写真の中で、彼女は彼が最後に見た姿よりも幾分大人びた顔で微笑んでいた。それを目にした瞬間、あの夜以来思い出しもしなかったの彼女の言葉が、ようやくバーナビーの心に届いた。
「あの輝きを、守ってるのか」
なんて厄介な事実に気づいてしまったのだろう。ため息を吐いて、バーナビーは宿の天井を見上げる。
あの夜、彼女がいかに、言葉をまっすぐバーナビーに向けていたか。それに対して自分がいかに、心を通さない言葉ばかり放っていたか。
バーナビーはおそらく彼女に対して、ただの一度も、本当には口を開いたことがないのだ。どうしてか今更、それがとても悔やまれた。
なまえが仕事を辞めてしばらくして、『素敵な退職祝いをありがとう』というメッセージと共に、連絡先を記したメールがバーナビーに届いた。あのメールをどうしただろう、と彼は記憶を辿る。
彼女のアドレスを、どこかに登録した記憶はない。しかし、メールを削除した覚えもない。
記憶を辿りながら、彼は宿のチェックアウトをしようと動き出した。彼女の住む星座へ向かう、列車に乗るために。