昼まで布団でごろごろ過ごして、外に出たのは結局15時を過ぎた頃だった。冬のちょうど中間時期で、外はもう日暮れのように淡い空色へ変化している。薄らと三日月も現れていた。チェスターコートのポケットからスマホを取り出し、今から会いにいくと連絡を入れた。目的地への道のりをランダムに選びながら進んでいるとポケットの中でスマホが震えた。電話だった。

「今どこにいる?」
「今?わかんない。適当に歩いてるから」
「そうか。今から家に戻る」
「じゃあ、適当に上がってる」

 了解、と聞こえてすぐに通話を切る。どこへ行っていたのかは特段気にならなかった。いないならいないでだらだら過ごすつもりだった。

 鶯丸とは恋人かと言えばそうではなく、大学生の頃出会ってそのまま腐れ縁で遊んでいる。週のほとんどは鶯丸と会っていると言っても過言ではないだろう。女友達といるよりもずっと居心地が良い。鶯丸のアパート前に着くと買い物袋を下げた彼と鉢合わせた。

「何、買い物か」
「誰かさんが入り浸るんで食費が毎月嵩む」
「そりゃ悪いね」

 思ってないだろう、と穏やかに鶯丸は言いながらエントランスに足を向ける。私はその後ろをついて行った。合鍵は持っているが取り出すのが面倒くさい。家の中は一昨日来た時とまるで変化がなかった。入り浸るようになって一度もこの家からは女の気配がしない。そこも鶯丸に好感をもっている理由のひとつだった。

「あ、吸い殻発見」
「ああ、捨ててくれ」

 ヘビースモーカーだね、と私は彼に言いながら言われた通り灰皿の吸い殻をゴミ袋に入れる。自然と声が弾んだ。友達として、彼の寿命が幾ばくか短くなることは悲しいのだが、楽しみがなくなることを思えば止めようとは思わなかった。灰塗れの皿を水洗いするためキッチンに向かう。身長の高い鶯丸が膝と腰を折って買い物袋の中身を片付けていた。小さな冷蔵庫とアンバランスで毎度おかしい。

「冷蔵庫新しく大きいの買いなよ、社会人」
「面倒だ。それにこいつはまだ使える」
「鶴丸くんにでも着いてきてもらいなよ」
「誘えば来るだろうが、結局あいつは自分の買い物をするじゃないか」

 突然壊れた炊飯器を急遽買いに行った時のことをまだ根に持っているらしい。安かったから、という理由で買われた炊飯器は安さに比例して再び危うくなっている。その時鶴丸くんはトースターを新調したのだったと思う。灰皿の水滴を取り終わったのを見計らって鶯丸が私の手からそれを奪った。黒のスキニーのポケットからお気に入りの銘柄であるマルボロを取り出してそれを咥えた。鶯丸は室内で喫煙するので年中換気扇が回りっぱなしだ。ゴウゴウと音が響き渡る。

 ごくり、と唾を飲み込んで私は一心にそれを見つめる。鶯丸は出会った時から理想的な吸い方をする男であった。美しい横顔にマルボロがとても似合うし、何よりその長くて白い首筋が堪らなく気に入っている。時折上下する喉仏すら愛おしくなる。無意識のうちに彼との距離を詰めていた。気づいたらその美しい首筋に手を伸ばしていた。その動きに気づいた鶯丸はやんわりと私の手を掴みそのまま煙を私に吹きかける。これも私が好きな鶯丸の行動だ。けれど流石に煙が目に染みる。ちょっとだけ涙が出た。鶯丸は私の目尻に浮かぶ涙を見逃さなかった。べろりと長めの舌で目尻を拭われる。見上げるとまだ長く残るマルボロを咥えなおした鶯丸が嬉しそうに笑っていた。

「これだけではなかなか思うように泣かないな」
「趣味悪いとは思わないの?」
「それはお互い様だろう」
「そう言われると反論し難いな」

 ふ、と再び紫煙を吹きかけられる。2回も吹きかけられた私はその意味を漸く理解した。煙がどうも目に染みて仕方がない。先程よりひどく染みて両目を瞑る。暗闇の向こうで鶯丸がにんまり笑っているのがわかった。べろり。両方の目尻に舐められた感触が残る。これにはいつまでも慣れない。左目の瞼にキスが落ちてきた。自分を包むマルボロの苦い匂いにうっとりしながら、鶯丸の手が服の内側に侵入してくるのを許した。

 出会った時から鶯丸は目や瞼、涙に対して異常に執着していた。泣かせるのは趣味じゃない、と口では言うが実際は泣かせることも好きなようだった。唇にキスをするより、瞼にキスをする方が彼のキスは優しいし、なんなら唇なんかよりずっとキスの回数も多かった。彼の執着を受け入れた女は私だけだったようだ。外見はかなり良いのに、歴代の彼女達にはその執着を受け入れてもらえなかったようで、学生時代は何度も右頬にもみじマークをくっつけていた。それを見るたび鶴丸くんと2人で転げ回って笑ったことが懐かしい。


 鶯丸は私がどうすれば涙を見せるのか、その手っ取り早い方法を知っている。私たちは相性が良かった。滅多に泣かない私が一番涙を流す瞬間を彼は見逃さない。ずっと瞑っていた両目を薄ら開けると獣のように目をぎらりと光らせている鶯丸の姿が映った。ぞわり、と背中が粟立つ。視界に滲むそれを躊躇いなく舌先で舐めとる。反射的に目を瞑ると、「目を開けろ」と耳元で囁かれた。言われた通り目を開くと美しい白い首筋が視界に入った。ほうっと見惚れていると眼球に何かが触れた。鶯丸の舌先だった。

「お前の泣き顔が一番いい」

 また両目を瞑った私の瞼に今日で一番の優しいキスが落ちた。そして鶯丸は優しく瞼を噛むのだった。


「俺にしておけ」

 隣でマルボロに火をつけた鶯丸が言った。散々涙を流した私はぐったりと横たわったまま視線だけを彼に向ける。泣くという行為は意外にも体力が必要で、泣かされたともなればそれ以上に体力がいる。舐めに舐められたお陰で顔もべたつく。

「俺にしておけばずっと見ていられるぞ。煙草を吸っているのが好きなんだろう?」
「春まで待って」
「なぜ」
「まだ冬眠中だから」
「随分長い傷心だな」
「…もうすぐ終わるよ、多分」
「ああ、春だったか、結婚式は」

 ずっと好きだった鶴丸くんが次の春、結婚する。学生時代からずっと続くこの緩い関係に甘えていたのが大きな敗因だとわかっている。永遠などない。永久も、ない。

「あいつは吸わんぞ」
「…煙吸い込んでやな顔してるのも良かった」
「とんだ趣味をお持ちのようだな」
「お互い様」

 ふ、と長く息を吐いた鶯丸は横たわったままの私の頬に触れ上向かせる。突然降ってきた唇は苦くて甘い。目尻を流れ落ちるそれをついでに舐めとって目元にも甘いキスを落とした。

「さっきとは違う味がするな」
「煙草吸った後だからでしょう」
「いや、甘いぞ」

 どうやら冬眠は本当にもうすぐ終わるようだな、と鶯丸が言った。それに肯定も否定もせずに布団に潜り込む。潜り込むと鶯丸の匂いとマルボロの匂いが体に染みつくような感覚に陥った。肺いっぱいに息を吸い込んで、早く私の手の届かないところに行ってしまえ、と強く念じた。彼は黙って私の頭を撫でた。鶯丸の言う通り、目覚めは近いようだった。