額についた丸い前照灯が5、6町ばかり先の行路をはっきりと浮かび上がらせる。黒く胴長の体は少しばかり色みを違える夜空にも上手い具合に紛れ込んでいた。長く伸びた頭の先から天に向かって咆哮が上がる度に形を為さない叫びの残骸が地響きとなって車輪のがたつきと共に、車内をやや大きく揺らした。

真新しい革が張られた座席には向かい合って腰かける一組以外、乗客は見受けられない。


「どうだい、今日はよく見える?」
「ええ」


なまえは返事をしたものの、依然として両眼を外国製の金色の額縁の中に代わる代わるに現れる景色に捕らわれたままだった。丁度今は、数えきれない程の白鳥が小さな露を纏いながら北へ向かい一斉に飛び立つその時らしい。

なまえは少々前のめりな自身を戒めるかのように両手を窓際に重ねて置き不動を保っている。
一旦夢中になると、おいそれとは止まらない。彼女の癖を知るからこそ、ヒロトは特別気に止めることもなく密かに笑みを浮かべ文庫へ目線を落とす。

間もなく、キャンバスは黒一色になった。トンネルへ差し掛かったのだろう。流石のなまえも暗闇をただじっと見つめるのは堪えるらしく本来の姿勢に戻る。途端に込み上げてきた子供のような振舞いへの恥をもってして、向かい側の席へと遠慮したようなはにかみを向ける。彼はまたも気にした様子一つ見せることなく適当な頁に栞を挟んだ。


「いつも通り、何処の駅にも人の気配が全く無い。今日も俺となまえ二人だけになりそうだ」
「そうね。だけど次の駅で誰か乗ってくるかもしれないわ」
「だとしたら少し残念だなぁ」
「あら、少しだけ?」


なまえの少しばかり不服を織り込んだそれでいて愉快そうな声に、いかにもばつが悪そうに大袈裟に肩を竦めてみせる。

他愛もない話をするだけで二人の間には何とも表現し難い心地よさが漂う。色や形が時に鮮烈に時に曖昧に変化する様はさながら夜空に燦然と輝く月のようだとは敢えて互いに気づいていない風体を装った。


何度目かわからない汽笛の唸りと共に、眩しさの限りが黒い絵の具を窓枠の外へと押しやる。次の駅へ着いたのか、いつの間に。無意識の内に僅かな驚嘆が生まれたがものの一息足らずで消え去った。正確に述べるならば、ある種の動揺へと書きかえられてしまった。改変を余儀無くされたということである。

と言うのも真鍮のドアノブが回ったのだ、久方ぶりに。自分達が乗り込んだ時以来の出来事であるに違いない。二対の瞳が見つめる中、客席の扉が内側に開いた。


「これはまた、可愛いお客さん達だ」


ヒロトが呟いたのをきっかけに、二人は新しい乗客へと揃って会釈を見せた。照れたように見つめあった後、ぎこちないながらも返ってきた二つのお辞儀がなんとも初々しい。

彼らは心許ない顔つきで客席を見回した後、先客の真横のボックスシートに荷物を置いた。茶色の上等な旅行鞄と白い布を被せられた丸い取っ手つきの円柱が座席に並ぶ。作り付けの長椅子に行儀よく座った少女は、窓際に陣取った少年へと不安気に尋ねた。


「ねぇ。私たちのお手紙を運んでくれたきれいな小鳥さん、ほんとにどこへいっちゃったのかしら」
「うーん。わからないや、ちっとも」


少年の答えはなんとも頼りないものであり、それ以上何か付け足す兆しもない。少女は力なく項垂れた。膝を見るばかりの気落ちした姿に少年はどうしたものかと考えあぐねる。悩み抜いた末、少年は隣の少女へと真摯な眼差しを注いだ。

不意に少女が顔を上げる。彼女の小さな手が握られたためだと判明するのに時間はかからなかった。


「でも、ぼくときみ二人でなら見つけられるよ」


実際、力強く決意にも似た響きを持った言葉は少女の中へと安心を連れ戻すのに最も相応しかった。少女が瞳に宿した海潮がみるみる内に引いていく。少年はそれを見届けた上で、わざと少しだけ自信のないように付け足した。


「そんな気がするんだ」

「うん」


少女はゆっくりと縦に首を振り、柔らかな少年の肩へと自然に頭を預けた。小さな寝息の二重奏が聴こえてきたのはそれから直ぐのことだった。


なまえは拙くも微笑ましい一連のやりとり見届けると、再び馴染みの良い木製の窓辺に片手を置いた。

自分も求めていた。幸福を呼ぶという、お伽噺の鳩を。でも結局は羽の一枚を拾うことすら叶わなかった。何故なのか不思議でたまらなかったが、暫くすると別の物に気をとられ次第に疑問を抱いたこと自体を忘れていった。
最もらしい答えは極寒の冷気の中でようやく思い浮かんだ。自分の為ではなく他の誰かの為に心血を注いで探し回る必要があるのではないかと。

まだ意識がある内に互いを抱き締めた。寄せ合う身体は冷きっていた。けれどもけして離れはしないと固く心に決めた。瞬間、先程までの怯えは忽ちの内に無くなった。そして満ち足りた安心感からか、とても眠くなってきた。とても、とても――


込み上げてくる記憶と感情の雪崩を受け止め切れずに一人呑まれるなまえを、聞き慣れた穏やかな声が呼び覚ます。


「なまえ」

ああ彼は、ヒロトは確かに目の前にいる。なまえは途端に胸のつかえが取り払われるのを感じた。なまえの調子を察してか、ヒロトは普段よりも更に優しく愛護に富んだ情と共に言葉を紡ぐ。


「俺達もいつか見つけ出そうね、『幸せ』を」
「ええ、きっと」


返事を終え、自分達よりも幾分か幼い顔つきをした小さな恋人達を優しく見遣る。繋がれたままの手はどんな揺れにも耐え得ることだろう。仲睦まじい寝姿に目を細めていると、窓辺に伏せ置かれた手の上に同じ形の温もりがそっと重ねられた。


     世界にとってのぼくたちは
     あまりにもちっぽけで、
     きっと大した影響力は
     無いのだろうけれども


せめて迷い込んだ星屑達を、銀河の下へ送り出せるように