思うように頭が働かない。少しだけ身体も重い気がする。きっと、これまで考えてばかりいたから疲れたのだ。自動車のシートに背中を預けると、自然と溜め息がこぼれた。もう無理かもしれない、と思う。ふと自分のスーツの袖口に血がこびりついているのが見えて、ついさっきの感情をなぞる自分にまたうんざりした。
 窓の外では、すっかり深まってしまった夜が悠長に流れていく。静かな黒を溶かすのは、秩序のない、雑然とした人工的な光。事件のたびに高確率で駆り出されるこの場所──廃棄区画は朝を知らないようだ。ただここに、シビュラに認められた人々が住まう都市部とは違う、生きた人間の息づかいを感じるのはどうしてだろう。

「寝てないな?」
 車の助手席に乗り込むなり、宜野座が眉間に皺を寄せた。宜野座が私に対してそんな顔をするのはずいぶん久しぶりで、私は窓の外の景色から目を離して、その唐突すぎる指摘に思わず苦笑いしてしまう。うれしいような、さみしいような、不思議な感覚がした。明日は非番だから帰ったらちゃんと寝るよ と返すと、宜野座はため息をついて長い脚を組んだ。
 もう、無理かもしれない。

「片づけはドローンに任せてある。あとは公安局に戻るだけだ」
「うん、ありがとう」
「だから向こうに着くまで寝ていろ」
 疲れてるのは宜野座もでしょ。私の負担を減らすために本来の宜野座の仕事じゃないこともしてくれてるでしょ。昔の私ならそう言えた。はず、なのに。
 彼が以前、纏っていた拒絶や憤りの激しい冷たく鋭い膜は、すっかり影をなくしていた。必要がなくなったんだ、と宜野座は言う。妥協、したらしい。かつての彼なら率先して嫌いそうな言葉に私は笑ってしまった。1年くらい前のことだ。

 暗闇を染める灯りが、宜野座の顔に黒い影を落としている。瞳の深さや鼻筋や頬骨、繊細につくられた線のすべてがより美しさを強調していた。前髪をはらった先にある核心に触れてみたい、そう思うようになったのはいつからだったか、もう思い出せない。フロントガラスの向こうがわに目を突き刺すような赤い光がみえた。優秀なドローンたちが忙しなく動き回る様子がなんだか滑稽で、そしてそう思ってしまった自分の不謹慎さにこわくなる。宜野座と対等でいたいくせに、私はこういうふうに、昨日測った自分の色相を悪いほうに考えてしまう。

「…宜野座」
「なんだ」
「疲れたね」
「ああ。ここのところ働き詰めだったからな。…すまない」
「…なんで宜野座が謝るの」

 2年前、私は大切なものをひとつも繋ぎとめることができなかった。同僚も、部下も、居場所も。ひとりだと思った。
 けれど、私が勝手にそう思っていただけで、本当は──宜野座が繋ぎとめてくれていた。ぎりぎりのところでなんとか踏みとどまる私の手を引っ張って、新しい居場所に導いてくれた。

 オートドライブで動き出したパトカーが緊急用のホロを解いて、公安局への道を進んでいく。途切れることのないビルの光の間をさっそうと、迷うことはなく。見えない道路の先はどこまでも深くつづいていく森のようで、このさき知らない場所に連れていかれるみたいで、少し不安になる。そんなふうに私はいつも迷ってばかりで、未だに正解へ辿りつけない。

「ねえ宜野座。つまらない話してもいい?」
「…ああ」
「ずっと昔の哲学者がね、人生は全部自分がみてる夢なんじゃないかっていう説を主張してたんだって。どう思う?」
「不毛な説だな」
「……そうだよね、宜野座ならそう言うと思った」
 宜野座は呆れたようにやさしく笑う。それなのに、どうしてだろう、上手く笑えない。少しでも気を抜いたら泣いてしまいそうだ。
「宜野座、私ね。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、いままで起こったことぜんぶ、夢だったらいいのにって思うんだ」
 どうせ死ぬのに、どうして生きているのだろう。苦しいだけなのに、どうしてこんなこと続けているのだろう。私はもう宜野座と対等の立場でいられないのに、どうして。
 人生は死ぬまでの暇つぶし、なんてぼやいていた部下のことを思い出す。なんでもない記憶ほど、ふとよみがえるのはどうしてだろう。宜野座はもう一度やさしく笑って、あたたかい指先で私の頬にそっと触れた。触れたところから伝わってくる、いつもより少し高い熱がさみしい。
「…お前がそう思っていても、俺は」
「うん、」
「お前が生きていれば、それでいい」

 宜野座がやさしいままだから、日常が私を受け入れてくれるから、自分の道に迷ってしまう。変われない私が私を甘やかす。わかってるよ、だけど。いま私が見ている光景が夢でも、そうじゃなくても、いまだけでいいから、彼だけは執行官宜野座伸元ではなくて、私の同僚である宜野座伸元であってほしい。
 触れ合っているのに触れ合えない互いの体温は、すぐに夜の隙間にとろけて消えてしまうから、私はいつまでもこの夢から逃れられない。


160502 text by 朔さま
BGM:アイネクライネ/米津玄師
pic:HELIUM