次の日はすき焼きにしました
習作。忙しい入間ちゃんとそれを助けに来た王馬君の話

・飯田橋博士が出ます 性格、口調等捏造有



 眠気を誘うあたたかな日差し。コートを着て歩く人の数は減り、軽やかな服装が目立つようになった。街中の広告はパステルカラーで彩られて春の訪れを予感させる。
これほどおだやかな陽気の時には外へと駈け出してウィンドウショッピングを楽しむのが一番だろう。ふかふかのベッドで惰眠を貪るのもいいかもしれない。入間は外を眺めながら想像を膨らませていたが、肩を叩かれて現実へと引き戻された。
「い、入間君。いいかな?大丈夫?」
 振り向きもせずに肩に置かれた手を払いのける。閉塞的な日々が続く中で、束の間の現実逃避を妨害された怒りはそう簡単に収まらない。妨害者である飯田橋は控えめに息を吸い込み、両肩を掴んで揺らしてきた。
「う、うぅ。気持ちは分かるけど窓の外を眺めていても何も終わらないよ。えっと……電子の世界に没頭しようじゃないか!!」
「あのなぁ」
「頼むよ。お願い。お願いします」
 情けない声で懇願され、入間は彼の方へと向き直った。年上男性の悲痛な面持ちを眺めていても、終わりも、春も訪れない。彼の言う通り電子の世界に没頭した方がよほど生産的だろう。
 飯田橋博士名義の研究所に所属して約二年。一般的な企業とは異なるものの、年度末が慌ただしいのは変わらない。入間を中心とした研究チームは依頼品の製作に奔走し、普段サポートに回ってくれるスタッフも決算やスケジュール管理でてんてこ舞いだ。肝心の飯田橋も多忙を極めており、不眠から来る躁状態が頻繁に現れるようになってきた。それでも彼は変わらない処理速度で職務をこなしている。
「分かったよ。天才発明家のオレ様がなんとかしてやる。だからオメーは寝てろ。おい、誰かこいつをベッドに縛り付けとけ」
 スタッフに抱えられるようにして連れていかれる飯田橋を尻目に、入間は手首につけていたシュシュで髪を括った。少しほつれ気味のそれは恋人である王馬が交際する前にプレゼントしてくれたものだ。普段からお守り代わりとして身に着けているが、現状のような心身共に負担のかかる場面だとより強く感じる。
「土日返上だけはしねーからな」
 今日を乗り切れば王馬に会える。入間は彼との逢瀬を原動力として目の前の仕事に掛かり始めた。

 ***
 切ったはずの目覚ましが不規則に鳴り響く。手探りで時計に手を伸ばしてスイッチに触れても鳴りやまず、夢と現実の狭間で考えること数十秒。それがインターホンだと気が付いて、入間は慌てて飛び起きた。
 髪も直さないまま玄関まで走り扉を開ける。春の空気と共に、荷物を抱えた王馬が立っていた。寝坊をした罪悪感と即座に抱き着きたい欲求。その二つが衝突して入間は硬い笑顔を浮かべる、
「寝てたでしょ」
 王馬の微笑みを受けて乱れた髪を直す。手櫛が髪に引っかかり顔を歪めた。珍しいものを見たように笑う彼の姿に、羞恥心も湧き上がる。彼の前では可愛い自分でいたいというのにすっかり崩れてしまった。
「悪い……」
「にしし。怒ってないよ。面白いもの見れたし。ていうか、帰ろうか?疲れてるなら別の――」
 無意識のうちに体が動く。パーカーの袖を掴んで発した声は縋り付くようなそれだった。
「ここにいて」
 発した瞬間に自分が随分と彼を欲していたことを知る。自覚していた以上に会いたかった。触れたかった。他愛のない話がしたかった。王馬は目を細めてわかったよと囁く。入間は袖を軽く引いて彼を部屋へと迎え入れた。

キッチンから漂う味噌汁の匂い。手際よく卵をかき混ぜる音。そういう生活じみたものを感じながら身支度を整えるのは久しぶりだった。実家で暮らしていた頃は、入間が慌ただしく準備をしている間に母が朝食を用意してくれていたものだ。
料理は苦手ではないが好んですることはない。誰かのために作るものならまだしも、自分自身の食事に手間暇をかけたくはなかった。働き始めてからはそれに拍車がかかり、キッチンに立つことも少なくなった。 
鏡をじっと見つめて目の下に浮かんだ隈をなぞる。以前よりも少し濃くなったような気がした。
研究所での仕事に不満はない。ただ、上手く立ち回れない自分に嫌気がさすだけだ。もっと要領よく仕事が出来れば飯田橋博士の負担を減らせるだろうという気持ちばかりが募る。二年間師事しているというのに、彼の技術力に追いついている気がしない。そう簡単には埋まらないであろう差も焦燥感を煽った。 
 わずかな憂鬱感を抱えながらリビングへ出ると机の上には食事が並んでいた。曰く、連絡しても返事をしないことから入間の寝坊を察していたらしい。道中で食材を買い込んで訪ねてきたという。つくづく気が回る男だと感心する。
「……あ、ありがと」
「オレもお昼まだだったから」
 王馬の手料理の味は普通以外に形容しようがなかった。それは多分よくある、そしてどこか安心する味。本人も自覚しているようで普通でしょと言って笑っている。破天荒を体現した彼の平凡な部分が、生活的な面に表れているのが嬉しかった。王馬小吉の平凡さを知ることが出来る数少ない人間の内に入間美兎が含まれている。そう考えると、より幸福を感じることが出来た。
 王馬とは食事をしている時が最も話が弾む。それは、二人がそうして仲を深めてきたことに起因するのだろう。紅鮭団なるテレビ番組で出会って以来数えきれないほどのデートを重ねてきた。映画館、水族館、遊園地、離島や海外へと足を延ばしたこともある。どの思い出も美しいものだが、ふとした瞬間に思い出すのは彼との食事だった。
才囚学園で初めてデートした場所は食堂だった。悲しくてたまらない夜に、馬鹿みたいに大きなハンバーガーを食べに誘い出したことがある。発明品が賞を獲得した時には密かにレストランを予約してくれていた。進路に迷った時は考えあぐねる入間の元に甘いものを差し入れに来てくれた。彼に自身の考えを打ち明ける内に、飯田橋博士の元で学びたいのだと気が付いたのだ。
入間は現在抱えている悩みを打ち明けようと箸を止める。しかし、王馬と会うこと自体が久々なのだ。相談よりも彼との肉体的な触れ合いを楽しむべきだろうか。それとも、うららかな春空の下を二人で歩こうか。入間は不思議そうな視線を向けてくる彼に一つ提案をする。
「な、なぁ。食い終わったら出かけるか?せっかく来たんだし」
「うーん。別にいいかなぁ」
 声色は悩まし気だったが、その実間髪入れずに返してきた。王馬は少しばかり呆れたように目を細めて入間を見つめている。
「入間ちゃん疲れてるでしょ」
「……まぁ。少しは」
「少しどころじゃないよね?今日と明日、何もしなくていいから」
 ね、と念押しするように言われて入間は素直に頷く。ここ一ヶ月ほどずっと忙しさに追われていた。勿論入間だけではなく、飯田橋も他のスタッフも同様だ。休日も頭の片隅では仕事について考えてしまい、結局自宅で作業する羽目になった。王馬は表情を崩して、入間の方へと手を伸ばす。手のひらを重ねると王馬は安堵したように吐息を漏らした。
「家事とかオレがやるし。眠たかったら、寝ててもいいよ。……そばにいるから」
 王馬は直接的な優しさを見せることは少ない。悪人は非道であるという彼なりの美学があるからだ。そんな彼がここまではっきりと優しさを示してくれるならば、自分は相当疲れて見えるのだろうと感じた。ただ頷くことしか出来ない入間に、彼はあたたかな笑みを向ける。
「ごめんね。ご飯の邪魔しちゃった」
 唇を噛み、首を振る。やはり愛を強く実感するのはこういう時なのだと入間は思った。彼が自分のことを考えてくれる。見ていてくれる。そんな瞬間が愛おしくて、また一つ鮮明な思い出として刻みつけられる。王馬はそっと手を放してお茶を注ぐ。生活感のある悪の総統もなかなか面白いと内心考えていたが、言わないことにした。
「たまには優しいのもいいでしょ。一年に一回あるかないかだけどね」
「そうだな」
「もっとオレのこと好きになっちゃう?」
「……なっちゃうよ」
 今は強がりも、取り繕うも必要もない。好きになってしまう。この人を好きでいて良かったと心から思えた。王馬は目を丸くして、祈るように両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「あ、え?」
「ごちそうさまでしたって言っただけだよ。ゆっくり食べてていいから」
 いそいそと自分の食器を持って席を立つ。髪で隠れ気味な横顔がにやけているように見えたのは、疲れ目からくる錯覚かもしれないと目元をぐりぐりと揉んだ。
 卵焼きを口に運びながら入間は考える。今から明日の夜まですっかり自由な時間を与えられた。疲れていることは事実だが、彼を前にしてまだ眠りたくはない。まっさらな頭の中に浮かぶのは本能的な欲求ばかり。抱きしめたい、撫でられたい、甘えたい。今の彼ならそれを全て叶えてくれそうな気がした。
 
 王馬が淹れたコーヒーを飲みながらぼんやりとテレビを眺める。背後からは食器を洗う音。知らない芸能人、知らない音楽、知らないニュース。入間が研究所にこもっている間に世界は随分様変わりしていたらしい。いつの間にか水音は止まり、ソファの軋みで隣に彼が座ったのが分かった。はい、と声をかけられて差し出されたのはパステルカラーの包装紙がかかった箱。
「ホワイトデーのお返し。消え物になっちゃうけど」
今年のバレンタインデーは手作りにはしなかった。納期の直前であり、デパートで買うことに留めたのだ。  
ホワイトデーのことをすっかり忘れていたためサプライズを受けたようで顔がほころぶ。中には入間が学生時代から使っているバスグッズが入っていた。様々な香りの入浴剤は、使うだけで別世界に行けるような気がして好ましかったのだ。それが最近はシャワーで済ませるようになってしまった。
「ありがとう。嬉しい……!!このシリーズ好きなんだよな」  
「じゃあ今日はそれ使おうよ。一緒にお風呂入ろ?」
「い、いいの?」
「うん。キミの髪を洗うのって好きだよ。犬の世話してるみたいで」
 くしゃりと髪を撫でられれば途端に犬になってしまいたいという気にさせられる。子犬のような声を漏らして彼にすり寄った。金色の髪の中を指がすり抜けて頬に触れる。そのまま手のひらですりすりと撫でられて入間は自然と目を閉じた。視覚を遮断して明確に分かる彼の手のひらのあたたかさ。骨ばった指、そこかしこについた小さな傷が彼の平凡ではない人生を想像させる。
「仕事忙しいの?」
「忙しいかな」
 そっか、と相槌を打って王馬は喉元をくすぐった。犬を可愛がるような甘やかな手つきに入間の思考はぐずぐずと溶けていく。飼い主になつく犬のように、あるいは親に全てを委ねる子供の用に彼の胸元に額を押し付けた。
「辛い?」
「つらくは、ない……」
 決して嘘をついているわけではなかった。職務にも環境にも満足している。ただ自分の容量の悪さに辟易しているだけだ。珍しく内罰的だと自覚する。誰一人として悪くない、憎むべき要因がないからこそ怒りの矛先は自分自身へと向けられるのだ。
「もっと器用になれたら良かった」
 そう零した瞬間に蓋をした感情が膨れ上がり内側から押し寄せてくる。不甲斐なさ、悔しさ、悲しみ……。それらが混成しもはや名前も付けられない怪物と化して心の中をずたずたに引き裂いていく。ふと頬に冷たさを感じて自分が泣いていることを理解した。
「どうして、あの人みたいになれないんだろう」
 口に出して、それが自分の最たる望みなのだと認識する。飯田橋博士のようになりたいのだ。キーボを生み出した御業を会得したい。神様の領域に入ることを許されたい。あの人と並び立って、同じ景色を見たい。
「だからそんなに苦しそうなんだね」
 入間は小さく頷いた。叱ることも、励ますこともせず自分の苦しさを認めてもらえることで余計に涙が溢れてくる。入間は嗚咽交じりに、飯田橋のことを話し始めた。彼もかつてギフテッド制度に選ばれていたこと。高校生の時分には、既にキーボの構想が完成していたこと。キーボを誰の手も借りず一人で作り上げたこと。研究所を構えてからも、彼が引っ張っていく体制を維持し続けていること。入間は似たような経歴を持ちながらも、自分の遥か上を行く飯田橋に並々ならぬ憧れを抱いているのだった。
話を聞き終えた王馬は、背中に両手を回して強く抱きしめてきた。もう怖がらなくていいのだと、全身で守られているような安心感に包まれる。
「キミはそのままでいいよって言いたいんだけど、今はあんまり意味がないかな」
「ん……」
「そうだなぁ。オレからしたら飯田橋博士も不器用だと思うけど」
 あやすように背中をぽんぽんと叩かれる。
「技術面じゃなくて性格面での話だよ。全部自分でやろうとするでしょ」
「そうかも……。だから、アタシじゃ力不足なのかなってずっと思ってて」
「そんなことない。多分ね、ずっと一人で発明と向き合ってきたから誰かに頼るのが苦手なんだよ」
 王馬は困ったような、呆れたようなため息をつく。そこには嫌悪感などはなくただ愛情だけがあるのだと感じられた。
「オレは博士に会ったことはないけどキー坊の性格見たらすぐ分かるよ。なんて不器用で実直な人が作ったんだろうって!だからあいつはつまらなくないんだ」
 確かにキーボの不器用さは博士譲りだった。一人で空回りしがちなところは博士にそっくりで、本当に親子のようだと感心したことをよく覚えている。
「そんな人が誰かを頼るのって、きっと勇気がいることだと思うよ。しかも自分よりも年下の女の子をね」
「そう、なのかな」
 思えば飯田橋は入間に無理やり仕事を押し付けるようなことはしなかった。いつも顔色を伺うようにして、礼節を持って仕事を振り分けてきた。昨日の泣き出しそうな表情に隠された彼の真意は、誰かを頼ることへの恐怖心だったのかもしれないと思うと胸が痛む。
「でも、頼られてるってことは信頼されてるって意味だし。技術がない人には仕事を振らないよ」
 その言葉に安堵している自分がいた。忙殺される毎日の中で知らず知らずのうちに自信を失っていたのかもしれない。王馬の言葉はいつだって、入間を勇気づけてくれる。本当のことを教えてくれる。嘘つきなはずの彼が真実に導いてくれるのもおかしな話だが、それが彼なりの優しさなのだろうと思えた。
「似た者同士だね」
「え?」
「キミも人のこと頼るの苦手でしょ。オレ以外はさ」
「……まぁな」
 一人で戦うのが当然だと思っていた。天才は孤高であるべきだからだ。友人なんていらない。理解者なんて必要ない。才能と美貌を振りかざして邁進するのが入間美兎の在り方だと信じていた。
 王馬小吉はそれをいとも簡単に壊した。言葉や体、持ち得るものすべてを使って入間の武器を取り払って内側の深い部分へと侵入する。それはまるで甘美な毒にも近い。身も心も彼に預けて、内面を吐露するのは気持ちが良かった。安心感を得られた。王馬という毒に犯されて、一人では戦うことが出来なくなってしまったことが喜ばしかった。
 自分も飯田橋にとってそうなれたら良いと思う。毒ではなく薬となって、彼を助けてあげられるようにと願いながら王馬にしがみついた。
「オレのこともっと頼って。悪の総統は最強だから簡単に壊れたりしないし、どんなお願いだって叶えてみせるよ」
 あの妙な笑い声が鼓膜を揺らす。入間はそっと顔を上げて、彼の瞳を見つめた。王馬は指先で涙を拭って愛おしそうな笑みを浮かべる。甘い言葉で誘い出して、入間の弱い部分を露出させる。そんな毒に溺れる休日も悪くない。
「じゃあいっぱい甘やかして。アタシが大丈夫になるまで、ここにいて」
 仰せの通りになんてからかい交じりの返事をして王馬は唇を奪う。繊細で優しい口づけに入間は再び涙を流した。

 ***
 花のような香りと視界一面の紫の湯。花畑にでも来てしまったようだ思いながら入間は吐息を漏らし、腕の中にすっぽりと納まる王馬を抱きしめた。
 久しぶりに浸かる湯船は格別で、強張っていた体が弛緩していく。それが恋人と一緒ならなおさらだ。王馬は体まで洗ってくれたがどうにも“そういう”気分にはなれず、罪悪感が首をもたげる。
「王馬。ごめんね」
「何が?」
「エッチできなくて……」
 深いため息と共に顔にお湯が飛んできた。思わず目を閉じて反撃をすると、彼の楽し気な笑い声が響き渡る。
「謝らないでよ。それだけが全てじゃないし」
「で、でも」
「入間ちゃんはしたかったの?」
「……うぅ。だって、久しぶりに会ったのに」
 王馬は相変わらず肩を揺らして笑いながら入間の方へと向き直った。水の滴った前髪をかき上げる動作に男らしさを感じて胸の内が疼く。彼は首筋に手を回して、体を密着させながら耳元で囁いた。
「このままくっついててもいい?」
「ん。いいよ……」
 心音が伝わってしまいそうなほどに体を寄せ合う。痩せ気味だがほどよく筋肉のついた男性的な肉体。浮き出た肩甲骨をなぞると王馬はくすぐったそうに髪を揺らした。裸で触れ合って、確かに心地よさを感じるのにここから先に発展させたくはなかった。ただこうしてお互いの感触を知るだけで良い。名前を呼ぶと彼は無言でキスをしてくれた。目を合わせ、手を握って、何度も何度も唇を重ねる。身体的な絶頂ではない、心が満たされていく快感に入間は酔いしれる。
 水滴が落ちて、湯に波紋ができた。紫は王馬の色。自分は今彼という存在全てに抱かれているのだと思えるから心地よいのだと入間は納得した。
 
 少しのぼせ気味のまま風呂から上がると、携帯に着信が来ていた。発信先には博士の名前が表示されている。かけ直すと数コールもしない内に電話に出た。
「い、入間君。電話ありがとう。……元気?」
「元気だよ。何か用か?」
「あー、いや。別にそういうわけじゃないんだけど。明日は家にいる?」
「いるけど」
 電話口からは安堵のため息。表情さえ想像できそうなほどのそれに、入間はつい吹き出しそうになる。
「あのね、キミのところに荷物を送ったんだ。良かったら食べて。あ!お肉は好き?食べられる?先に聞けばよかったよね……」
 慌ただしく話す彼をなだめ情報を整理する。荷物を送ったので明日は家にいて受け取って欲しいということらしい。髪を拭きながら、王馬を一瞥した。彼は不思議そうに首を傾げている。
「いや、あの、違うんだよ。違うんだ。……無理させてたよね」
「は?」
「月曜日、有給使ってもいいから。私の方は友達が来てくれてなんとかなりそうなんだ。こんなことなら早く頼めばよかったんだけど、思いつかなくて」
 飯田橋の言いたいことが上手く掴めずに、優しく問いかける。彼は困ったような声を上げて、ごめんねと呟いた。
「友達に怒られたよ。もう、一人で走るだけが仕事じゃないんだって。キミはまだ若いし、男性に比べたら体力的に厳しいのに……色々と無理をさせたね」
「それで肉を送ろうって思ったのかよ。なんつーか、オメーも突拍子ねーよな。まぁ貰えるもんは貰うけどさぁ」
 不器用だと思った。人との距離感が不安定で、それでも自分の気持ちを伝えたくて、空回って。確かに自分たちは似た者同士なのかもしれないと思う。
「月曜日は行くから。心配すんなって」
 申し訳なさそうな声を上げる彼の背中を叩いてやりたかった。ちゃんと自分がそばにいて、倒れないように支えたいのだと伝えたかった。
「博士」
「は、はい」
「大丈夫だから」
「え?」
「大丈夫だよ。……もっとアタシのこと頼っても」
 電話の向こうで呻き声のようなものが聞こえる。それが嗚咽だと気が付いた時には電話は切れていて、すぐさま『ありがとう』とだけ書かれたメッセージが届いた。それを見て入間は声を上げて笑う。
「どうしたの」
「いや、本当に不器用な奴だなって思ったんだよ」
 王馬は興味深そうに微笑み、ドライヤーを手に取った。
「良かったね。少しはちゃんと話せたみたいで。ほら、そこ座って」
 促されるままにソファに腰かけて髪を乾かしてもらう。心身ともに安心しきって、眠気が襲ってきた。うつらうつらしながら先ほどの出来事を王馬に伝える。
「明日さー、肉が届くらしいぜ」
「へー。……ん?なんで?」
「なんか、謝罪みたいな。変な奴だよな、本当に。そんなの別にいいのにさ」
「律義な人だね。じゃあ明日はすき焼きかなー。焼肉でもいいかなー。ホットプレートあったっけ」
「あったと思う。あ、何の肉か聞きゃ良かったな」
 会いたくて、触れたくて、他愛もない話がしたくて。抱きしめたくて、撫でられたくて、甘えたくて。そんなささやかな欲求が全て満たされたのだ。ドライヤーの音に混じって王馬の柔らかな囁きが聞こえる。
「ねぇ」
「ん?」
「オレの前では天才じゃなくていいから」
 その言葉は入間の中にじわじわと染み渡っていく。この才能を得た日から、天才としての人生を歩んできた。平凡な自分は許されない、もう戻れないと思っていたはずなのに王馬に言われると揺らいでしまう。
「平凡な、普通の女の子でいてよ」
「……それでも好きでいてくれるの」
「勿論。オレにだけはキミの弱い部分を見せて欲しいな」
 彼の前ではまっさらになる。弱くて、脆くて、不器用な入間美兎になる。それが許されて、それでも愛してくれると約束してくれたことが幸せだった。
「なんだよ。オメーが優しすぎると調子狂うじゃねーか」
「にしし。オレのこともっと好きになって欲しいからねー。まぁ次に会ったら通常営業だと思うけど」
 軽やかに笑う王馬に入間はつい独りごちる。
「……これ以上好きにさせてどうすんだよ」
「ちょっとー、聞こえてるよー。どうしようか?結婚でもする?」
「なっ、何言ってやがる!!」
 勢いよく振り向くと王馬は予想に反して真剣な表情を浮かべていた。凛々しい顔つきに入間はつい顔を赤らめてしまう。
「本気だから」
「……と」
「と?」
「とりあえず保留!!さっさと髪乾かせ!オレ様は眠いんだよ!!」
 再び前に向き直り、入間は黙り込んだ。彼が自分との未来を考えてくれていることの嬉しさで全身が熱くなる。
 ドライヤーの音。髪に触れる手つきの優しさ。明日の食事の話。そういった、世界の人々にはどうだっていいものを自分たちは大切に守りたい。そんな日々が送れるのなら結婚をしたい。今はまだ、結婚という未来の明確なイメージは掴めないがいつかはそれに応えたいと、入間は微笑んだ。