死ぬまで、うさちゃんピース

プロロ王入
王馬が「アイドル」と称して電車の中でずっと見続けていた少女が突然話しかけてきて、咄嗟についた嘘がきっかけで二人だけの撮影会をすることになってしまう…

お互いになりたかった二人の話

高校に入って二度目の春が来た。相変わらず学校はつまらなくて、友人なんて一人もいなくて、親はめんどくさくて、ありていに言ってしまえば毎日が最悪だった。死んでしまいたかった。
そんな死にたい毎日に光を灯してくれたのは彼女。去年の秋に見つけたオレの生命線。毎朝同じ時間の電車に、同じ場所から乗ってくる女子高生がオレを生かしてくれていた。別に話なんかしない、ただ見てるだけ。それでも救われるような気持ちだった。だって、この世の人とは思えないほど美しいから。
 電車の窓から入ってくる光を浴びてキラキラと輝く金色の髪。海を彷彿とさせる青色の目。瞬きする度に揺れる、長いまつ毛。鼻筋だってスッと通って、横顔なんて人工物のようだ。スタイルだって抜群にいい。ハーフ……なのかな。日本人離れした顔とスタイルに、オレは一目で心を奪われてしまった。
言うなれば彼女は「アイドル」 アイドルを毎朝見れることの喜びに比べれば、登校中に感じる苦痛なんて大したものじゃない。
 扉に寄りかかって、参考書を読むふりをしながら斜め前に座る彼女を眺める。可愛い。いつも音楽を聴いているけど、今日は聞いてないんだ。にやけそうになるのを堪えると突然彼女と目が合った。予想外の出来事に慌てて目をそらす。バレてないよね。バレてたら、どうしよう。
 そんなことを考えていたら彼女が近づいて来たのに気が付かなかった。
「……なぁ」
 小さな声でそう囁かれてハッと顔を上げると、彼女がオレを見下ろしていた。背高いな。何センチ差だろう。いや、そういうことじゃなくて。
「は、はい」
 絞り出した声が震えていて我ながら情けない。眉間に皺を寄せた彼女は困ったように頭を掻き、オレにこう言った。
「なんでずっと見てんの?」
「え?」
「……いや、違ったら悪いんだけどさ。結構前からアタシのこと見てるよね。なんで?」
 結構前から?っていうことはずっと気が付いてた?どうしよう、どうしよう。混乱したオレは気づけば言い訳をしていた。
「あの、オレ……雑誌に写真とか投稿してて。その……キミがすごく綺麗だから、モデルになってもらえたらいいなって思って」
 笑えるくらい真っ赤な嘘。投稿どころかまともに写真なんて撮ったことない。そんな雑誌があるのかすら知らない。彼女は信じているのかいないのか、意外そうな顔をしてへぇと呟いた。今気づいたけど声も可愛い。
「プロの写真家、なの?」
「そういうわけじゃないんだけど、えっと、プロの人に師事してるっていうか……」
 また嘘を重ねてしまった。プロの人ってなんだよ。頭ではそう考えているのに、口からはつらつらと出まかせが生まれる。気づけばオレはネット上では有名な学生写真家ということになっていた。今度雑誌に投稿する写真を撮らせてほしいとまで口走ってしまっていた。どうしてこんな風に嘘がつけるんだろう。
「ふーん。そっか、だからアタシのこと見てたんだ」
「う、うん」
「……なーんだ。安心した。正直ストーカーかと思ってたんだよ」
 冗談めかしく笑う彼女。初めて見る笑顔に思わずときめいてしまうけれど、一歩間違えればストーカーになってしまっていたかもしれない。青ざめるオレに彼女は恥ずかしそうにはにかむ。
「いいぜ。写真、撮らせてやっても」
「えっ?!いいの!?」
「う、うん。そういうのやってみたかったし。あ……もう着いちゃう。連絡先交換してもいい?」
 連絡先。友達とすら交換したことがなかったのにまさかこの人とすることになるなんて。夢のようだと思いながらも、携帯を取り出す。メッセージアプリの彼女の名前欄にはうさぎの絵文字が表示されていた。
「うさぎ」
 小さく呟くと、電車が揺れた。向かい側のドアが開く。彼女が降りる駅だ。また連絡してと言った彼女に手を振り、オレは深く瞬きをした。夢?現実に嫌気がさして、理想の世界を作り出してしまったのか?携帯をもう一度見るが確かに彼女の名前が表示されていた。
「……うさぎちゃん」
 写真なんか撮ったことないけど、今更嘘だなんて言えない。それにこんなチャンス逃してたまるか、だから無理やりにでも現実にするんだ。今まで使う機会がなかったお小遣いだってある。検索サイトを開いて、「一眼レフ」と打ち込んだ。


  ***
 あの電車での邂逅から一ヶ月。とりあえず買ってみた一眼レフはネットの情報を見たり、専門店の人に教えて貰ったりしてそこそこ使えるようになってきた。とりあえず撮るときに戸惑ったりしないだけで十分だろう。うさぎちゃんとは何度かやり取りを重ねて、どんな人物なのかを捉えることができた。
 本名は入間美兎。神明工業高校の二年生。去年の秋から見かけるようになったのは、家を出る時間を少し早めたから。意外なことに学校には友達があんまりいないらしい。
 オレの事には結構すぐ気が付いたけど、声をかけて襲われたりするのが怖くてしばらくは観察することに決めていたみたいだ。自分の見た目には自信があるものの、読者モデルに応募する勇気もなく、スカウトも怖くて信用できない。だから同じ高校生のオレなら信頼できると踏んで撮影に応じてくれたらしい。
 芸能事務所より、こんな得体の知れない高校生を選ぶなんてもしかしてお馬鹿さんなんだろうか。高校の偏差値もお世辞にも高いとは言えないし……。まぁ、簡単に信用してくれてありがたい話ではあるけど。
 そんな少しお馬鹿な入間ちゃんは、オレのベッドに座っている。オレが指定した白いワンピースを着て緊張した面持ちでそわそわと部屋を見回していた。
 さっきまでは近所の公園や、少し古臭い雰囲気の路地裏なんかで撮っていたけれどさすがに男の部屋となると身構えてしまうんだろう。オレだってまさか部屋に女の子を呼ぶことになるなんて考えもしなかったな。両親が忙しい人たちで良かった……。
「じゃあ、横になってもらえるかな」
「う、うん」
彼氏にフラれた女の子の休日。それが適当にでっち上げたコンセプトだ。彼氏と行った場所を辿り、最後には夢の中で彼氏の部屋を訪れる。でもそこには誰もいなくて一人でベッドに横たわる。我ながらそれっぽいストーリーを作れたなと感心してしまう。もしかして何かの台本とか書いたら案外成功するんじゃないだろうか。
「え、えっと。これでいいか?」
「うん。すごくいいよ」
 ベッドの上で、センチメンタルな表情を作る入間ちゃんはすごく美しい。わずかに目を伏せて、寂し気にため息をついてみせる。本当にモデルになった方がいいんじゃないかって思ってしまうくらいにオレは惹きこまれた。無言で何枚も写真を撮る。入間ちゃんは何も言わなくても、ちゃんと自分で考えて動いてくれた。動くたびに、オレのベッドシーツに皺が出来る。白いスカートがめくれて、それよりも白い肌が露になる。肉付きのいい太ももにオレは喉を鳴らす。あれを、自由に触れる男が(女かもしれないけど)この世にいるのかと思うと悔しくてたまらない。
 こうして見ると、入間ちゃんはやっぱりスタイルが良い。背は高くて、脚も長い。こういう言い方は変態っぽいかもしれないけど、胸もお尻も大きいのに腰はくびれていて出ること出てる体型って感じ。
 何十枚と撮って、満足したオレは彼女に微笑みかけた。
「お疲れ様。もう、大丈夫だよ」
「お、おう。結構疲れるんだな」
「ありがとう。……飲み物持ってくるね。休んでて」
 ジュースを持ってくると、入間ちゃんは机に置いてあった参考書を捲っていた。コップを机に置く音でハッと振り向く。
「あ、ごめん。勝手に見て」
「ううん。でも、そんなの見てもつまんないでしょ?」
「……正直。でもやっぱ頭いいんだな。帝都大帝都ってこの辺じゃ一番の進学校だし」
 確かにオレの通う高校は都内では有数の進学校だ。内部生でも簡単に足切りが行われる帝都大学を出た人間の歩む道は、官僚・経営者・評論家。まぁ、大学に受かれば将来は約束されてるようなものってわけ。それでもオレの周りはみんなテストの点が良いだけでつまらない人間ばかりだ。 
 友達だって、できなかったわけじゃない。作らなかったんだ。あんなつまらない奴らと話すよりも、自分の世界に閉じこもっていた方がずっと有益だって思った。それを打ち壊してくれたのは、入間ちゃんだった。一人きりで作り上げた灰色の世界に、光を与えてくれた。見ているだけで十分幸せだったのに。こんな風に話せて、キミのことを写真として残しておけるだなんて。夢のようだ。
 入間ちゃんはカーペットの上に三角座りをしてオレンジジュースを飲んでいる。これだけで絵になってしまう人なんてそうそういないよね。オレは向かい側に座って、じっと彼女を眺めた。
「……アタシ馬鹿だからさぁ。王馬みたいに、頑張ってる人見ちゃうとなんか落ち込んじゃうんだよね」
「え。なんでよ。落ち込まなくてもいいじゃん……」
「そーかな。……王馬はプロの写真家になるの?それとも偉い人になるの?」
 偉い人という漠然とした言葉選びがおかしくて、つい笑ってしまう。入間ちゃんはムッとしたようにオレを睨みつけて来た。
「笑うな」
「ごめん。偉い人には、ならないんじゃないかなぁ」
「ふーん。じゃあ写真家になるんだ」
「いや、それもどうかな」
 写真なんて、キミとの出会いを無駄にしないための手段でしかない。入間ちゃんを撮るためだったらもう少しカメラの勉強をしてもいいと思えるけど、それで生計を立てて行こうなんてとてもじゃないけど考えられない。所詮は素人の付け焼刃だ。
「将来のことは分かんないよ」
「そっか……。アタシも」
「キミは、モデルとか女優とか、そういう方面に行けばいいんじゃないかな。すごく綺麗だし」
「無理だよ。向いてないもん。セリフとか覚えたくないし、人の指示に従うのも嫌いだし」
 じゃあ、なんで?どうしてあんな風に、オレの思うとおりにカメラに収められてくれたんだ?そんな思いが顔に出ていたのか、入間ちゃんはクスクスと肩を揺らした。
「王馬はねー。特別」
「特別?」
「アタシの事、ずーっと見ててくれたから。言うこと聞いてあげてもいいって思ったんだ」
 ずーっとというところを強調されて顔が熱くなった。そうだよ。ずっと見てた。キミだけを見ていたんだよ。
「それにね。王馬にカメラ向けられると気持ちいいんだ。別の自分になれるみたいで。……黙っててもね、あんたの考えてることが分かる気がするの。こういう風にしてほしいとか、どんな表情がいいとか。アタシじゃなくなるのがゾクゾクした……」
 それは天性の才能なんじゃないかと思ったが黙っておくことにした。オレだけが彼女のああいう、鮮明で美しい表情を引き出せるのだと思い込みたかったから。別の自分。こんなに可愛いのに、なんだって手に入れられそうなのに、誰かになりたいのかな。
「入間ちゃんは、自分以外の何者かになりたいの?」
「そうかも……」
「どうして」
「自分の事、嫌いだもん。馬鹿だし、馬鹿だって分かってるのに努力も出来ないし、友達も彼氏もいない。何にも持ってない人間だから」
「え?!彼氏いないの?!」
 予想外の情報に大声を出してしまった。だって絶対、いると思ってたのに。いや、いないからって別に何があるわけでもないけど。入間ちゃんは戸惑うオレを見てケラケラと笑う。
「うん。いないよ。……ちなみに処女」
 秘密にするようにそう囁かれ、オレはくらくらとしてしまう。処女。処女って、つまり、エッチとか全然したことないってことでしょ?
「ふふ。嘘だよ」
「嘘なの?!」
「それが嘘かもしれない」
 どっちなんだろう。入間ちゃんはオレをからかうみたいに目を細めて、可愛いねと言った。認めたくないけど、翻弄されている。同い年の女の子に弄ばれてすごく恥ずかしいのに、オレは全然嫌じゃなかった。
「王馬はどっちだと思う?」
「ど、どっちって」
「アタシ、処女だと思う?」
 ねぇねぇと迫られる。入間ちゃんは楽しそうにオレの元へと這い寄ってきて、ついには押し倒されてしまった。髪の毛が顔にかかってくすぐったい。多分、力ならオレの方が強いから突き飛ばすことだってできるのに抵抗する気が起きなかった。
「……そ、そんなこと聞いてどうするの」
「どうするんだと思う?」
 あぁ。ずるいなこの子。距離感の測り方が上手すぎる。何を聞いても、質問で返されちゃうんだろうなぁ。会話が上手い人って何を話しても主導権を握るんだよね。彼女は、なんだかそういうタイプに見える。
「えっと……」
 じっと見つめられて目をそらしてしまう。平気でこんなことするなら、処女じゃないと思うけど。処女でできちゃうならそれはそれで興奮する。って、何を考えてるんだよオレは。頭の中でぐるぐると考え続けていると、入間ちゃんが嬉しそうに微笑んだ。
「王馬の頭の中、アタシのことでいっぱいでしょ?」
 食べられてしまいそうな、妖艶さを含んだ笑みにオレは無言で頷いてしまう。そうだよ。頭の中はキミのことでいっぱいなんだ。初めて見たあの日から、ずっと。
「ずっと、キミのことでいっぱいだよ。電車で見た時から……」
「……嬉しい。だから、王馬を選んだの」
「え?」
「あんな強烈な視線、気づかないわけないよ。あー、この人アタシの事見てるなって思ったらドキドキして、嬉しかったの。初めは怖かったけど、別に悪い人じゃないんだってちゃんと分かった。アタシの事で頭いっぱいで幸せなんだって、分かったんだよ」
 そんな風に見られていたなんて。恥ずかしいのに。オレはやっぱり頷くことしかできない。だって入間ちゃんの言うとおりだったから。キミに脳内が支配されて、幸せで、気持ちよくて。あんなの一種の麻薬だよ。一度知ったら二度と逃れられない劇薬だ。
「見ているだけで満足って顔してたからムカついたの。そんなんで足りるわけないでしょって思い知らせてあげたかった。……だから声をかけたんだ」
「そう、だったんだ」
「うん。……写真を投稿してるってのも嘘でしょ?アタシ、ちゃんと調べたんだから。咄嗟についた嘘にしてはよくできてたけどさ」
 正直、油断していた。彼女のことを見下していた。どうしよう。嫌われる?もう二度と会えなくなる?訴えられるかもしれない。ごめんなさい、と口をついて出た言葉が無音の空間に吸い込まれていく。
 しばらくの沈黙の後に予想に反した言葉が返ってきた。
「別に、怒ってないよ。……嬉しかっただけ」
「嬉しかった……?」
「そう。アタシのことを考えくれるんだって思ったら、もう幸せでたまらなかったの。カメラだってこの日のために買ったんでしょ?そんなの嬉しいに決まってるじゃん」
 ヤバい女だと思った。知らない男に、それも電車で会っただけの男にこんな感情を抱くかよ。そうか、オレはずっとこの子の手のひらで踊らされていたんだ。でも逃げようとは思わなかった。もっと、この子に染まりたい。この子のことを知りたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
「入間ちゃんって、変わってるね」
「そうかな」
「うん。……でも、すごく好きだ。もっとキミのことを知りたい」
 彼女の垂れた髪をかき分けて、頬に触れる。柔らかくて少し暖かい。もっと教えて。もっと触らせて。でも、入間ちゃんはそんな気持ちから逃げるかのようにオレから離れた。
「本当に知りたい?アタシ、何も持ってないからっぽな人間だけど、それでも?」
「……うん。キミはからっぽなんかじゃない。キミは、生きているだけで価値があるんだ」
「ふぅん。キザなセリフ。言ってて恥ずかしくならない?」
「な、なるよ。それは。でも、ホントのことだから」
 入間ちゃんは微笑んで、スカートを翻しながら立ち上がった。顔が少しだけ赤いのが分かる。
「生きてるだけで価値があるの?アタシが?」
「そうだよ。キミは、オレにとってアイドルなんだ」
 訝しそうに首を傾げる。アイドル。美しくて、尊い、人生の光。オレはゆっくりと起き上がって、入間ちゃんの手を握った。びくりと震えたけれど、離さない。細い指。肌は陶器みたいにすべすべで、ずっと触っていたくなるような心地よさがある。
「……オレはずっと死にたかった。でも、キミを見つけてから毎日が幸せで、生きようと思えたんだ」
「……本当に?」
「本当だよ」
 へぇ、と俯きがちに言ったその声は少し震えていた。このまま抱きしめてもいいんじゃないかと思った時、いきなり手を振り払われた。やっぱり嫌だったかな……。入間ちゃんはカメラを手に取って、ずいっとオレに押し付けてきた。
「アタシはアイドルなんでしょ。じゃあ、それでいっぱい撮ってよ。アイドルらしく、笑ってあげるからさ」
「い、いいの?」
「いいも何も、今日はそういう約束だったでしょ」
 オレは嬉しさのあまり、彼女のいろんな面を引き出したくなった。どうせなら衣装も変えてもらおう。とっておきがあるんだ。オレはクローゼットの中から、セーラー服を模したピンク色の衣装を取り出した。入間ちゃんのために用意したステージ衣装。アイドルなんだからこういう奇抜な服も着てもらわないと。少し高かったけどやっぱり買ってよかった。
「これ……着てくれないかな」
「はぁ?!こ、これ、何……」
「え?アイドルの衣装だよ。せっかくだから、これ着て撮らせてよ。サイズ、合うといいんだけど」
 入間ちゃんは戸惑っていたけれど、覚悟したようにオレの手から衣装をひったくった。
「わ、分かったよ。アタシのために用意してくれたんだもんね。着替えるから、ちょっと出てて」
 彼女は少し押しに弱いみたいだ。しばらく部屋の外で待っていると、いいよという声が聞こえた。ドアを開けるとビビットなピンク色に身を包んだ彼女が恥ずかしそうに体を揺らしながら立っていた。
「わ……すごい、似合うね」
「な、なんかスカート短いんだけど。胸もこんなに空いてるし」
 確かにさっきのワンピースよりもずっと短い。鮮やかな色のスカートに白い肌がよく映える。胸元も下着が見えそうなくらい大きく空いている。やっぱりやめるなんて言われる前に、スカートを抑える彼女の手を掴んだ。
「ダメ。ちゃんと見せてよ」
「……う、うん」
 少し語気を強めてみただけで入間ちゃんはあっさりとオレの言うことを聞いた。そのままカメラを構えて何枚も写真に収める。オレが構図を指示するのに対して嫌がることなく応えてくれた。初めは探り探りだったのが、シャッターを切る度に表情を出すのが上手くなる。いつの間にか入間ちゃんは強気で自分に絶対的な自信を持つ女の子に変身していた。アイドルには、生きているだけで価値があるキミには、そういう姿が似合うと思った。挑発的な視線。自分のスタイルを理解した艶やかなポーズ。キミの全てを逃さないようにカメラに閉じ込める。気づけば、オレたちは再び無言になっていた。
「……ありがとう。もういいよ」
「うん」
 撮影を開始してから約二時間。もう十分だと思ったオレは終わりを告げた。入間ちゃんは少し汗ばんでいて、頬はわずかに上気している。
「暑いよね。ごめん。オレ、出るから……もう脱いでも大丈夫だよ」
 部屋から出て行こうとすると、いきなり服を掴まれた。振り向くと彼女の切なげな表情が目に入り、思わず緊張してしまう。そのまま抱きしめられて、耳元で囁かれた。
「ねぇ、もう終わりでいいの?」
 鈴を転がすような可愛らしい声に鳥肌が立つ。終わりでいいってどういうことだろう。
「アタシは王馬だけのアイドルなんだよ?写真撮るだけで満足なの?」
 その言葉に下半身に血が集まるのを感じた。そういうつもりで呼んだわけじゃないって言わなきゃ。でも、彼女の言葉を否定できなかった。そのまま流されるようにベッドに二人で座り込む。キスが出来そうな距離。女の子特有のものなのか、甘い香りにうっとりとしてしまう。
「アタシのこと、もっと知りたいんでしょ?」
「うん……」
「じゃあ、処女かどうか確かめてみてよ」
「な、何言って……?!」
 抱きしめられて二の句が継げなくなる。処女かどうかって、つまり、その――
「エッチするってことだよ?」
 オレの思考を読み取ったかのように入間ちゃんは微笑んだ。ずるいよ。そんな風に言われたら逆らえなくなっちゃうのに。オレは吹き飛びそうな理性を必死にかき集める。
「だ、だめだって。ゴムとかないし……」
「アタシ持ってるもん。そういうつもりで来たから」
「そ、そんなこと言う子が処女なわけないじゃん……」
「えー。どうかなぁ」
 耳元にかかる息だけで興奮してしまう。オレがいいよって言えばしちゃうのかな。真っ白な太ももに目をやるとあまりのまぶしさに気絶しそうになる。ずっと憧れていた女の子と、アイドルと……。
「ま、待って。その、先にキスして……」
「キス?」
「キスもしてないのに、エッチするなんて、なんか変じゃない?」
 あー、これすごい童貞っぽい発言だった。言わなきゃ良かったかな。でも入間ちゃんは優しく笑って、目閉じてよって言ってくれたんだ。ぎゅっと目をつぶると、唇に柔らかい感触。入間ちゃんの唇……少しあったかくて、押し付けるだけでも気持ちいい。ファーストキスを会ったばかりの、よく知らない女の子に捧げてしまった。でも後悔なんかしていない。
 唇を離して、そっと目を開けるといきなりベッドに押し倒された。入間ちゃんは真剣な瞳をオレに向けてくる。
「……キスしたんだから、いいよね?」
「え、えっと……」
「アタシの事もっと知ってよ。アタシの事だけを見てて……絶対、目を逸らしたりなんかしないで」
 そう言って彼女はオレの首筋にキスを落とした。ずっと見てるよ。だから、そんな風に悲しい声なんか出さないで。オレは、自分のことをからっぽだと言った彼女を満たしてあげたかった。きっとそれがオレに課せられた使命だから。勉強以外に何のとりえもない、何物にもなれそうにないオレが出来る唯一のことだから。


 ***
 オレの腕の中でぐったりとする彼女の髪を優しく撫でる。入間ちゃんは、処女だった。こんなよく分からない奴に初めてを奪われて、嫌じゃないのかな。オレの心配をよそに彼女は腕の中で可愛らしい声を上げる。
「これで王馬はアタシの事一生忘れないよね。初めてを奪った相手なんだから」
 そうだろうね。一生忘れられない相手になってしまった。でもキミだってそうでしょ?オレの事、一生忘れたりなんかしないよね?まぁ、否定されたら怖いから言わないけどさ。
「そうだね。忘れられるわけないよ」
「ふふ。嬉しい」
 クスクスと笑いながら猫のように擦り寄ってくる。退屈だったオレの人生は一変してしまった。こんなに刺激的で、美しい人を知ってしまったらもう二度とあんな薄暗い日々には戻れない。やっぱり、麻薬だと思った。オレの中に入り込んで圧倒的な存在感で支配してしまう。
「……オレ、生まれ変わったらキミみたいになりたいな」
「なんで?」
「入間ちゃんみたいな、生きているだけで他人に影響を与える人になりたいよ。他人を翻弄して、知ろうとしてもやっぱりよく分からなくて、それでも目が離せないような人に」
 しばらく彼女は黙っていたが、オレの顔をじっと見つめてこう言った。
「アタシは、王馬みたいになりたいな」
「……うん」
「頭がよくて、写真を撮るみたいに、指先一つで世界を変えてしまえる人になりたい」
 ないものねだりだ。オレ達は、自分にない部分を永遠に求め続けるんだろう。もし自分ではない誰かになれる世界があるのならばそこに身を投じてしまうんだろうか。そんな世界、あるわけないんだけどね。
とにかく今は何も考えずにこの幸福を噛み締めていたかった。オレの人生を動かしてくれた彼女を抱きしめていたかった。彼女の柔らかい体をぎゅっと抱きしめると、折れちゃうと笑ったけど、オレはその手を離すつもりなんてなかったんだ。

 ***
「受付番号87、88は合格じゃないですか」
「ええ。カップルで参加ってのもウケますしね」
「それに動機がいい!それぞれがお互いの性格になって、最後まで生き残りたいだなんて……視聴者ウケ抜群ですよ」
「まー、こっちとしてはこの二人が殺し合ってくれれば最高ですけどねー」

 気づけばオレの手の中には、何も残っちゃいなかったんだ。