それが恋だと彼は知っている
王入版深夜の60分一本勝負 お題「キス」に向けて
育成計画軸

最悪だ、とその場にいた誰もが思った。起こった事象だけ見れば実に些細な取るに足らないことで、一言で言えば「入間美兎がコーヒーをこぼした」で済んでしまう。ただこぼした相手が悪かったのだ。青ざめる入間の目の前には、頭からコーヒーをかぶってしまった王馬小吉が佇んでいた。穏やかだった空気は凍り付き、全員が息をひそめて王馬を見つめていた。そこで入間が即座に謝ればまだ穏便に済んだのかもしれないが、百田が吹き出し、次いでセレスがわざと聞こえるように「まぁ可哀想」なんて言い出し、最原と赤松も堪えきれずに笑い始め……と王馬にとっては散々な連鎖が繰り広げられた。極めつけは、こぼしたもといぶちまけた本人である入間がゲラゲラと笑って写真に収めたことだったのだろう。それまで黙り込んでいた王馬が不自然なまでの笑顔を作り冷淡な声で言った。
「入間ちゃん、後でオレの部屋に来て」
怒りを微塵も感じさせないその笑みと、淡々とした口調のギャップに入間は「ひっ」と小さく悲鳴を上げて何度も頷いた。その様子を見ながら王馬は静かに入間を追い詰める。
「返事」
「は、はい」
「来なかったら分かってるね?」
「行くから!!絶対!!」
約束だよと言い残して王馬は食堂から出ていき、入間は肩を落として深いため息をついた。その背後で百田を筆頭に数名が止めていた息を吐きだすかのように笑い出す。入間がじっとりとした目でそちらを睨みつけると、セレスが至福の微笑みを浮かべていた。
「入間さん、あなたのおかげでとっても素敵なものが見られましたわ」
「は?うぜーんだよゴスロリまな板女。こっちの身にもなれっつーの」
「いや、あれは入間さんが悪いよ。確かに面白かったけど……」
「うっ。でもいきなり入ってきたあいつの方が悪いだろうが!!」
「うーん。僕には運が悪かったねとしか言えないなぁ。でもちゃんと謝りに行った方がいいよ。後が怖いし、ね」
最原のその言葉に入間はバツが悪そうな表情で頷き、王馬の部屋を尋ねる覚悟を決めた。

目をつむって、二回深呼吸をして扉をノックすると中からくぐもった返事が聞こえた。それを受けて入間が扉を開けると、不機嫌そうな王馬がベッドに腰かけていた。部屋にはシャワーの後のお湯の匂いが漂っていて、入間の罪悪感を刺激した。
「その、さっきは悪かったな」
「……座って」
王馬に指示されて入間が椅子に座ろうとすると小さく舌打ちが聞こえ、「正座」と続けられた。王馬に見下ろされる形で正座をし、入間はこれから吐き出されるであろう暴言の数々を思って身を震わせた。
「悪かったじゃないでしょ?アイスコーヒーだったからいいけど、熱かったら火傷してたかもしれないんだよ?」
「いや、でもわざとじゃねーし」
「うん。それは分かってる。ていうかわざとだったら謝られても絶対許さないから。まぁこの際コーヒーかけられたのはいいとして、なんで笑ったの?」
王馬から投げかけられる疑問に対して入間は「正しい答え」を用意していなかった。この場合の正しい答えというのは王馬を納得させ、いち早くこの場を納めることのできる「嘘」なのだが。入間は数秒考えた後に馬鹿正直に自分の気持ちを語った。
「面白かったから……」
「……あ、そう」
いつもならばあまりにも率直で馬鹿すぎる答えに免じて許してやらないこともないのだが、セレスの「まぁ可哀想」という声と部屋に響いた笑い声を思い出すと、どうしてもそんな気にはなれなかった。
「まず写真消して」
王馬の指示に入間は慌てて携帯を取り出して先ほどの写真を消去する。データフォルダを見せて確認させたところで、怯えた声で許しを乞うと王馬は相変わらず冷淡な声でそれを拒否した。それどころか耳を疑うような要求をしてきたのだ。
「じゃあ土下座してよ。そうしたら許してあげる、かも」
「はぁ?!」
「早く」
「な、なんでぇ?」
「誠意を見せてって言ってんの。当然でしょ?あ、それともハラキリとかしてみる?うわーオレ初めて見るなー。楽しみー」
「わ、わかった!!土下座するから……」
入間は震える声でそう答えて、小さく息を吸い込んで頭を床につけた。王馬には随分ひどいことをされてきた彼女だったが、ここまでプライドを踏みにじられるような行為は初めてだった。羞恥心と妙な興奮がわきあがり体の奥底が熱くなる。王馬が鼻歌を歌いながら携帯か何かで写真を撮る音が聞こえて、余計に被虐心が揺さぶられた。深い吐息は興奮を抑えるために必死な彼女の理性を表しているようで、王馬に見られていないからいいものの、入間の頬は赤く染まっていた。
「これでいいだろ」
「ごめんなさいは?」
「……ごめんなさい」
「頭上げていいよ」
顔を上げた入間の目に入ってきたのは王馬の残虐な、しかし嬉々とした表情。よくできましたという言葉に入間が安堵したのもつかの間、目の前に王馬の脚が突き出された。まるで子供のように小さく、白く滑らかな素足に入間は思わず息を飲んだ。
「キスして」
「え……」
「だからぁ、オレの脚にキスしてって言ってるの」
「このオレ様が土下座までしたのに、そんなことまでしなきゃいけねーのかよ」
「えー。土下座すれば許してあげるかもって言っただけじゃん。今度は本当に許してあげるからさ。ほら、早くして」
「う、うぅ」
入間は遠慮がちな手つきで両手で脚を包み込み甲にそっと口づけをした。その瞬間に体の奥底で揺らいでいた炎が全身に回っていくように、血液の循環がぐんと早くなったように、体中が熱くなった。嫌だという気持ちと、もっと激しく彼に追い詰められたいという気持ちが入間の中で混ざり合い、上手く整理が出来ずに思わず瞳を閉じた。ほんの少しの間があって、王馬の楽し気な笑い声が聞こえてきた。
「すごーい。本当にキスしてくれたんだ。いいよ、許してあげる」
自分で命令したくせにと入間は心の中で吐き出して、王馬の脚から手を離す。すると王馬は器用な動きで入間の首筋から顎をなぞった。きちんと切りそろえられた爪先でなぞられて、びくりと肩が跳ね上がり、目は大きく見開かれた。
「……ねぇ、なんでそんなに興奮してるの?」
「し、てない」
「嘘。オレにこんなことさせられて気持ちよくなっちゃったの?入間ちゃんって本当に変態なんだね」
王馬の追及に入間は二の句が続けられず黙り込む。体中に回った熱は冷めることなく、むしろ王馬の言葉に合わせて入間の心も体も火照らせていく。
「入間ちゃんさぁ。オレの奴隷になりなよ。そうしたらいくらでもこういう、恥ずかしいことしてあげるよ」
「うるせー。黙ってろクソ童貞が」
「……オレの奴隷になって命令通りに働けたら、入間ちゃんがされたいことなんでもしてあげるのになぁ」
「はっ。テメーにしてもらいたいことなんか一つもねーよ。自惚れてんじゃねーぞ」
「そうかなぁ。してほしいことあるでしょ?たとえば、キスとか」
キスという単語に入間の瞳が反応をする。動揺と渇望がその瞳に宿ったのを王馬は決して見逃さなかった。入間の脳内には先ほどのような強制的で屈辱的なキスではなくて、優しく抱きしめられながらキスをする光景が浮かんでいた。途端になぜ、という疑問符ばかりが彼女の脳内を埋め尽くす。ひどいことばかりされ、それは友情の域を超えたもはや主従関係と言っても過言ではない状態の日々を過ごしてきたはずなのに。そんなことを望むなんて、まるで――。入間が必死に考えを巡らせていると、王馬の声が降り注いだ。
「だってキミはオレのこと――」
その瞬間だった。ノック音と赤松のよく通る声が聞こえた。王馬に用があるのだという彼女の言葉で、入間は一気に現実に引き戻された。自分の脳裏に浮かんだ、ある一つの結論を振り払うように首を振り慌てて立ち上がる。
「誰がテメーなんかの奴隷になるか!!オレ様を誰だと思ってんだ?天才美人発明家の入間美兎様だぞ?誰かのために働くなんてごめんだっつーの。つーかテメーがオレ様の奴隷になりやがれ!!」
「はー?そんなの絶対やだー。入間ちゃんの下で働くとか死んでもやだよー」
「ケッ。あー、胸くそわりー。もうぜってーこんなことしねーからな!!」
入間はそう言い残して王馬の部屋を飛び出して何故か赤松にまで暴言を吐いて走って行った。王馬は不安げな顔をしている東条に大丈夫だからと言い、彼女の用件を聞き始めた。

赤松が出ていき、一人になった王馬は天井を見つめながらさも残念そうな声を上げる。
「あーあ。いいところだったのに」
「まぁいいや。そんな簡単に堕ちてもらってもつまらないしー」
先ほどの入間の表情、吐息、柔らかな唇の感触を思い出す。背中に走る感覚に、王馬は自分が加虐心を刺激されているのだと自覚していた。脳内で彼女を篭絡させる計画を組み立て始める。加虐心と、征服欲と、それからもう一つ。王馬は自分を突き動かす気持ちの名前を心の中で唱えながら、こんな自分の標的となった入間を少しだけ可哀そうに思った。
「絶対逃がさないからね。入間ちゃん」
新しいおもちゃを手に入れた子供のような楽し気な声。そして、そのキスの意味が「隷属」であることをきっと彼女は知らないのだろうと王馬は微笑んで、入間が口づけた脚を見つめた。