天国へ道連れ
11月末〜12月頭までの拍手お礼SSでした

入間ちゃんの誕生日の話です



 ソファに体を沈ませて、入間は目の前にある掛け時計を見つめていた。静まり返った部屋には秒針の音がやけに響く。等速で奏でられるそれは子守歌のようで、目を閉じると眠ってしまいそうだ。
もう十分もすれば入間は誕生日を迎える。自分自身のことは愛しているが、まどろみを堪えてまで誕生日の訪れを心待ちにしてはいない。歳を取ることは恐ろしい。年齢を重ねるにつれて自らの美しさが損なわれていくような錯覚に襲われるからだ。
 皺ひとつない、ハリのある肌に触れながらこれはいつまで保つのだろうかと考える。若さは永遠ではない。どれだけ美しい人間でも、寄る年波には適わない。天才と称される入間でさえも。
まだ若いと言い続ける内に手遅れになりはしないだろうか。美貌と頭脳だけが取り柄の自分は、一体何歳まで人に関心を持たれるのだろうか。十八歳で時が止まってしまえばいいのにと、科学者らしくもないことを考えてため息をついた。
 眉間に寄った皺を揉み解しながら背もたれに深く寄りかかる。親元を離れたのだから、いの一番に祝ってくれる両親もいない。真っ先にメールをくれそうな友人もいない。だから起きている必要などないのだ。しかし、入間は待っていた。ただ一人の男から声が届くのを。
 秒針が頂点を打つ。一際大きく聞こえたのはきっと気のせいだろう。入間は抑揚のない声で呟く。
「ハッピーバースデー、入間美兎」
 十九歳の誕生日を迎えた。携帯電話を手に取るが連絡はない。朝方には両親から電話が来るのだろうが、期待していた人物からのメッセージはなかった。
 小さな声でバースデーソングを歌う。思えばその男は、誕生日に限らず記念日を零時ちょうどに祝うのが好きだった。一番に祝う権利があると言っては、入間の元へと現れた。
「……王馬」
 今となっては思い出の中にしかいない彼の名前を呼ぶ。高校一年生の頃に紅鮭団というテレビ番組で出会い、交際まで至った相手だ。高校を卒業するまでの間――約二年半付き合い、卒業後に何の言葉もなく別れた。
 別れたというのは正確な表現ではない。王馬は卒業式を最後に忽然と姿を消した。本当に何の言葉も、手紙もなく、電話すら通じず、彼は失踪したのだ。だから入間は自然消滅だと考えている。別れたのではない。相手が消えたのだから、自然消滅なのだと言い張った。
 それまでは順調だったように思う。王馬は超高校級の総統という得体の知れない才能を持ち、いわゆる天邪鬼ではあったが悪い人間ではなかった。優しい言葉をかけることは少なかったものの、所作や行動が彼の愛情を物語っていた。彼の性格を鑑みた上でも、それらが全て嘘だったとは思えないのだ。
 無論入間も彼を愛していた。卒業後は一緒に暮らすものだと考えていたというのに。まるで初めから存在しなかったかのように、痕跡の一つも残さずにいなくなってしまった。
 ないものねだりをしていても仕方がないと、入間は席を立つ。夜更かしは肌の大敵なのだ。その時、携帯電話が震えた。母親だろうかと首を傾げると画面には非通知と表示されている。
 わずかに手が強張る。そんなことはあり得ないと言い聞かせながら電話に出ると、ずっと待ち望んでいた声が耳に届いた。
「あー、良かった。出てくれた。そのまま切られちゃうかと思ったよー」
 約一年の空白などなかったかのように軽快な声で喋る。それは間違いなく王馬小吉の声だった。怒りよりも、喜びの方が大きくて入間は思わず口を噤む。今声を出せば泣き出してしまいそうだ。
「入間ちゃん、誕生日おめでとう。ずっと待たせてごめんね。……あれ?今日だよね?今日じゃなかったっけ?聞いてる?無視か?」
「聞いてるっつーの。馬鹿」
 自然と荒い口調になる。二人の間ではそれが常であった。
「じゃあさっさと返事しろよ豚便器!!」
「うるせーな。オメー今まで何してたんだよ。つーか今どこにいるんだよ、おい」
 激しい口調でまくしたてる内に目尻から涙がこぼれる。生きていてくれた。忘れないでいてくれた。会いに来てくれた。変わらず、記念日を祝ってくれた。たった数度の会話だけで、今まで感じていた虚無感が全て消え失せてしまう。
「まぁ積もる話は追い追いってことで!とりあえず窓の外を見てほしいなー」
 言われるがままカーテンを開ける。見下ろした先には恋い焦がれていた男が立っていた。
「おうま……」
 体が勝手に彼を求める。着の身着のままで階下まで走りだそうとした途端に制止がかかった。
「待った!降りてくる前にお願いがある。貴重品を持ってきて。財布とか印鑑とか、個人情報に関わるものはできるだけ」
「あ?」
「迅速に、素早く、てきぱきと。できない豚はただの豚だよ!!」
「迅速、素早く……全部同じ意味じゃねーか」
 勝手な言い分に対して入間は素直に従った。貴重品や重要な研究書類、設計図。手当たり次第に鞄に入れながらも、頭の片隅ではどこか冷静だった。
このまま彼の元へ行けばもう平穏な生活は送れないかもしれない。入間がこの一年で築いたキャリアも、人脈も全て水の泡と化す。それを賭けるだけの相手だろうか。
問いかけてみたものの長考する必要などなかった。ずっとそれだけを求めていたのだ。王馬小吉が戻るのを待ち望んでいた。
 階段を駆け下りながら抱えていた仕事の引継ぎ先を考える。飯田橋博士を頼れば誰か紹介してくれるかもしれない。わがままなど百も承知だ。それでも、この一年間身を粉にして働いてきた分だけの信頼は勝ち得ていると思いたかった。
「さーて、それじゃあ逃げようか!」
 王馬の元に辿り着くと、まともな挨拶もせずにそう突き付けられた。抱えたボストンバッグの重さがそのまま重責となって入間に押し寄せる。
「に、逃げる……」
「一つ、オレは今追われてる。二つ、ここに来た以上キミを巻き込むのは避けられない。三つ、そこから導き出される結論は?逃走しかないよね?分かった?分かって!」
「何も分かんねーよ」
 何も分からない。この簡素な説明で理解してほしいというのが無理な話だ。肝心な部分の説明が為されていないのだから。何故とか、どこにとか、そういったものを説明している余裕はないのだろう。
 王馬にボストンバッグを奪われ、抵抗することなくついていく。とりあえずコートを羽織って来たものの外は痛みを感じるほどに寒い。車が置いてあるという廃倉庫まで入間は懸命に走った。
「分かんないのに一緒に来るんだ」
「今までもずっとそうだったからな。このテクなしオナニー野郎。いや、テクノブレイク太郎!!オレ様じゃなかったらぶっ殺されてるぞ!」
 今までもそうだったのだ。王馬小吉のことは何も分からない。彼が一体何をしているのか。何が真実で何が嘘なのか。完璧な正解を叩き出したことなどない。分からないことだらけで、分かったと思ったらまた遠のいて、その繰り返しだった。
しかし入間はそんな彼を愛した。性質を愛した。才能を愛した。ついていくには十分すぎるほどの要素だろう。
入間の回答に王馬は目をらんらんと輝かせて笑った。昔絵本に出てきた悪魔によく似ている。
「キミって、ホントにつまらなくない人!」
 そう称されるのは光栄だった。おそらくは彼にとって最上の賛美であるからだ。
 倉庫内に隠されていた古びた車に乗り込み、王馬は一息つく。なかなかかからないエンジンに舌打ちをし、何回目かでやっと発進することができた。悪の総統のくせに免許を取ったのだろうか。そんなことすら分からない。
「はぁ…やっと会えた。大変だったんだよ。追手から逃げるのも、ここまで来るのもさ」
「そうかよ」
 漠然とした、夢のような話だと思う。王馬は車を走らせながらどこか楽しなため息を吐いた。
「零時に祝えなくてごめん。ホントは日付が変わると同時にキミの間抜け面を拝みたかったのになぁ」
「そりゃ残念だったな」
「改めて、誕生日おめでとう!無事に年を取ったね!キミもJKブランドから卒業ってわけだ」
「もうとっくにJKじゃないっての」
「にしし。そうだったねぇ。自分の研究所を持ってるんだもの」
 研究所という単語に入間は冷や水を浴びたような感覚に陥った。疑念が表情に出ていたのだろう。王馬は一瞥して、申し訳なさそうに呟いた。
「知ってるよ。キミのことは何でも」
 彼の持つ情報網とやらかもしれないが、手段はどうでも良かった。入間は王馬について何も知らされていなかったのに、一方的に監視下に置かれていたのが悔しいのだ。今度は腹の底からマグマが沸き上がるように体が熱くなり、自然と顔を歪めてしまう。
「……怒る?」
「……怒るよ。王馬ばっかりで、アタシは何にもお前のことを知らない」
「それは……。それはしょうがないよ。悪の総統って秘密主義でないと務まらないからね」
 彼にとっては正論でも、入間にとっては屁理屈でしかない。考えるより先に言葉が出ていた。
「じゃあなおさら、アタシを連れて来てよかったの。足手まといになるかも。アタシが何か失敗して、お前の組織が壊滅する可能性だってあるのに」
 ふはは、と悪魔じみた笑い声を上げる。そんなことはあり得ないと一蹴された気分だ。王馬はよほど面白かったのか、運転を誤るのではないのかと不安にさせるほど笑い続けた。
「一年間の猶予があった」
 ようやく笑わなくなったかと思えば、突然そんなことを言いだした。入間は顔をしかめて相槌を打つ。
「行方をくらましたのは、ちゃんと理由があったんだよ。ちょうどその時期に関わっていた組織に裏切られてね……。とにかく逃げるしかなかった」
「電話の一本ぐらいくれれば良かったのに」
「オレはどこまで行っても悪の総統だからねぇ。キミみたいに真っ当な道を行く人とは相容れないと思っちゃったんだ」
 そんなことは理解している。どうしたって相容れない。入間美兎は『そちら側』には染まれない。共に過ごしたとしても、せいぜい片足を突っ込むぐらいだ。それならばなぜ、この男は自分を呼びに来たのか。
 入間の考えを読み取ったのか王馬は困ったように笑った。幼い子供のようなあどけなさを醸し出すから、入間はそれが好きだった。
「でもそれは建前。理想論。この世界中に散らばる、つまらなくないものの中でオレが一番手に入れたかったのって入間ちゃんだったんだよね。それに、近くにいたらキミに何があっても守ってあげられるでしょ?」
 開いた口が塞がらない。そんなロマンチックな、正義の味方のようなことを口にする性質ではないだろう。自分の主義を多少捻じ曲げてまでも入間に伝えたかったのだろうか。それならば、許してやらないこともないと狭い座席の上でふんぞり返る。
「……さて、これは嘘でしょうか。ホントでしょうか。まぁ正解なんて教えてあげないんだけどね」
「アタシがついてくるって確証はあったの?」
「勿論!オレはどんなゲームにでも勝つ自信があるからね。いざとなったら気絶させてでも連れてきたよ。嘘だけど」
 またあの笑みを見せる。ポーカーフェイスが基本の彼には珍しいことだ。それが、彼が正直に心の内を吐露しようかしまいか葛藤している証に思えてならない。だから入間はじっと耐えた。前方を見つめる王馬の横顔を見つめて、彼が口を開くのを待った。
「……本当はね」
「ん」
「キミが今日、零時まで起きていなかったら諦めようと思っていたんだ。それかもう別の誰かと一緒にいるんだったら……もうオレのことぜーんぶ忘れてるなら、入間ちゃんの幸せを踏みにじってまで連れ出すつもりなんてなかった。そこまで性根は腐ってないからね」
「……うん」
「……でもキミは、オレのことを待っててくれたでしょ」
「……そうだよ。ずっと待ってた」
 王馬はまた凶悪な声で笑って惚れてるなぁ、と呟いた。惚れている。骨の髄まで、王馬のことを愛している。
 それは決して美しい愛などではなく、執着にも近い。入間は自分の愚かさを嘲るように鼻で笑った。そして王馬を見つめる。天才の人生を狂わせた男を見据えて、入間は言った。
「王馬」
「ん?」
「いくつになっても、アタシのこと祝ってくれる?アタシがおばあさんになってもそばにいてくれる?」
 誰もが入間を忘れても、王馬だけが覚えていてくれればそれでいい。いつの日か美貌が消え失せて、頭脳すら衰えてしまったとしてもこの男ならば愛してくれると信じたかった。ただ、頷いてくれるだけで良かったというのに王馬は入間の想像を超えてくる。
「……それはプロポーズと取っていいのかな」
「は?え、いや、その」
「どうなの?」
 いくつになっても、ということは人生を捧げるとも言い換えられる。入間はしどろもどろになりながらも大きく頷いた。世界中が求めて止まない天才――入間美兎の人生を奪ったのだ。結婚するぐらいの覚悟でなければ、釣り合わない。今度は王馬が不敵な笑みを浮かべたのが分かった。
「喜んで受けるよ。今日はキミが欲しいもの全部あげる!なんてったって、誕生日なんだから!!」
 年を取るのが怖かった。それと比例して誇れるものがすり減っていくような気がして。しかし、今は何も怖くない。隣に世界を統べる悪の総統がいるのだから。
 二人の間に甘い空気が漂い始めた時、それを割くようなサイレンが鼓膜を揺るがす。サイドミラーには幾台ものパトカーが追ってくる様子が映っていた。
「にしし。このまま新婚旅行としゃれこもうか!」
「馬鹿言え。クソッ、やっぱり来るんじゃなかった」
 王馬がアクセルを踏む。加速するほどに車体は揺れ、入間はシートベルトをぎゅっと握った。
「何言ってんの!思い出作りだよ。パトカーに追われながら湾岸を駆け抜けるなんて最高じゃん!」
「湾岸じゃねーし。むしろ山だろうが。どこ向かってんだよこれ!」
「ロマンってものが分からないの?随分貧相な感性だねぇ」
「答えろよ!!あぁ、もう……!」
 入間は彼の飄々とした態度に頭を掻く。これから先の人生で恐れるものは何もない。きっと、退屈さえもしないだろう。狭苦しい車内の中で入間は体を揺らして笑った。
「最高の誕生日だよ、小吉!」