日曜日よりの使者
ラジオを聴く御手洗と、救世主の話

・御手洗の独白
・歌詞の引用は「日曜日よりの使者」より


跳ね上げるように体を起こすと、製作途中の画面が薄ぼんやりと光っていた。カーテンの隙間からは眩しい橙色の光が差し込んできてまだ夕方なのだと告げている。夢を振り払うように目覚めたものの、その記憶は僕の中に鮮明に残っていた。
悪夢。
かつて、僕がまだ幼かった頃行われた苛烈な虐めの数々を再び受けるという内容だった。胃の底から襲いくる吐き気をこらえる。夢を見るのは久しぶりだった。
僕は深呼吸をし、夢をかき消すように小さく首を振った。あの時。ゴミ捨て場に突き飛ばされ、罵声を浴びせられ、来る日も来る日も教室の机の落書きを消した日々。僕は確かに死にたかった。死こそが救いであり僕を解放させる唯一のものだと思っていた。
それを変えたのはアニメだった。アニメの中には美しい世界があった。そこには予定調和があり、弱い者が強い者に勝ち、理不尽な非情さは滅せられる。あまりにも美しい、救いの手。
いつしかそんな世界を作り上げたいと思うようになって僕は自分でアニメを製作し始めた。そして今に至るわけだけれど、アニメは僕の生命線に違いなかった。以前馬鹿にされたものが僕の命を保つ糧となり、金銭面をフォローすることとなった。
もうずいぶん長くアニメは僕のそばにあるなぁと思いながら、もう一つ生命線になりうるものがあるような気がしてならなかった。悪夢に侵された頭は働かず、その空白を埋めるものも思いつかない。
僕はなんとなく続きを製作する気が削がれ、一度休憩することにした。窮屈な姿勢で眠っていたせいか身体中が軋んでいるようで、僕は大きく伸びをする。そして立ち上がり、何か飲もうと冷蔵庫を開けた。1本だけあったミネラルウォーターの蓋を開け喉を潤すと、なんだか生きている感じがした。
生きている。しぶとく。僕はまだ生きているんだとかつての自分に、僕を罵倒した彼らに言いたくなった。何となく自分の首筋に手を当てると、等速で手のひらに伝わる微かな振動があり、そこに確かに生命を感じてどことなく勇気付けられる気がした。

まるで霞みがかったような頭で、何か気晴らしになるものはないかと考えるとふとラジオを聴こうかという気になった。
中学以降、好きなアニメに関連したラジオがやっていて僕はひとしきり聴いていたのだった。その思い出を連れてきたくて引越しの際に持ってきたは良いものの入学以来忙しさにかまけて聴いていなかった。懐かしさもありいそいそとクローゼットを開け、奥にしまい込んだ収納ケースを引っ張り出す。その蓋を開くと1番上にラジオが置いてあった。
「久しぶりだなぁ」
電池を換え、アンテナを伸ばし、スイッチを入れる。以前聴いていた時はアニメとはまた違った異世界へと繋がるようでこの瞬間を楽しみにしていたことを思い出す。ラジオの周波数をてきとうに合わせていくと雑音とともに人の声が聴こえてきた。
それは可愛らしい女性の声で、僕は耳を傾けた。ラジオを持ってベッドに横になると、昔に戻ったようで気恥ずかしいような気持ちになる。 微妙な雑音混じりの声だけれど彼女の話は聴き取れた。曲の紹介をしているようだった。まったく知らない、男性歌手の歌のようだった。それではお聞きくださいという声の後に曲が流れ出す。無骨な、ギターをかき鳴らし歌い上げる、いわゆるロックという僕が滅多に聴かないジャンルだった。別の局に変えようかと思ったが、その歌詞があまりに印象的で僕は集中して聞くことにした。
「このままどこか遠く 連れてってくれないか 君は君こそは日曜日よりの使者」
日曜日よりの使者。それは先ほど紹介されていたタイトルと同じだった。頭の中でその歌詞を反芻し、意味を考える。曲が進むに連れて日曜日よりの使者に救われているのだということが分かってきた。抽象的な、漠然とした言葉なのに僕はそれを愛しく感じていて、ぼんやりとした頭で考え、それは僕にも日曜日よりの使者がいたからなのだと気がついた。あった と言った方が良いだろう。
中学・高校と出席日数の関係でどうしても学校に行かなければならなくなった時、僕は憂鬱で仕方なかった。月曜日はことさら憂鬱で、朝には世界の滅亡を願ったものだった。
それを和らげてくれたのはやっぱりアニメだった。日曜日、食事すら忘れたった1人で朝と晩に画面にかじりついた。魔法少女ものから日常もの、少年漫画が原作のヒーローアニメ。灰色の月曜に少しだけ色を流し込むほどに僕の心は踊った。
そして、見終われば紙に向き合った。食い入るようにアニメを見た後に僕の中から湧き上がる衝動を紙面へ落とし込んだ。幾枚もの絵を繋ぎ登場人物や風景が動き、色づいていく様子は僕の背中を押すようだった。こんなことができる僕はすごい。だから明日も大丈夫だと自分に言い聞かせ、朝を迎えた。
日曜日よりの使者は確かにいた。ずっとそばにあった。横たわった僕の瞳からはつぅと涙が零れ落ち、ここまで生きてきたことに対する喜びとなにか全能感のようなものが身体中に沸き起こるのが分かった。曲は終盤に差し掛かったようで、シャラララというコーラスが続いている。今にも歌い出しそうになった時、突然ノック音が聞こえた。
僕が飛び起きて返事をすると扉の向こうから、入るぞという声がした。扉が開き、体型以外は僕そっくりの彼ー超高校級の詐欺師が入ってきた。
「なんだ。寝てたのか。悪いな」
「ううん」
「…泣いてるのか?」
先ほど流れた涙を慌ててシャツの袖で拭き、なんでもないと返した。しかし彼は心配そうな表情でこう言った。
「嫌な夢でも見たのか」
嫌な夢。さっき見た悪夢が頭をよぎり、つい小さく頷いた。恥ずかしい話ではあるけれど彼に対してはつい甘えてしまう。彼の包容力がそうさせるのだろうか。彼はベッドに近づいてきて言った。
「そうか…。何か食うか?食えば多少気分も良くなるかもしれん」
彼なりの気遣いに僕は微笑んで、首を振った。
「…ラジオなんて珍しいな」
「たまにはね。そういえば、どうしたの?」
「もうすぐ始まるぞ。今日は日曜日だ」
「あ」
そういえば今日は日曜日だったっけ。時計を見ると6時5分前を指していた。ある時から毎週日曜日のこの時間に僕たちは一緒にアニメを見るようになっていて、もう月曜日に学校に行く必要はないけれど一緒に見ることでどこか気合が入るというか、明日も頑張ろうとか、そういう気持ちになる。いつしか昔とは違う月曜日の朝を迎えられるようになっていたことの喜びを感じられるようになっていた。僕はラジオを止めて言った。
「うん。一緒に見よう」
「ああ」
「見たらきっと元気が出る」
「そうだといいな」
彼の優しい微笑みを見て、僕ははたと気がついた。悪夢に支配された頭はラジオと彼の到来によってすっかり浄化されたようで、先ほどまで空白だった生命線になりうる何かをはっきりと思い出した。

ああ。君は、君こそは。