新しい朝
同棲している王入
眠れない王馬がココアを飲んだり、昔のことを思い出したりする


ふくらはぎに鈍痛が走り、王馬はゆっくりと目を開けた。痛みの原因は予想がついているものの、侵入者の可能性を考え目を凝らして暗闇を睨む。
右、左、右。横断歩道を渡るときのように注意深く視線を動かしながら目を慣らしていると、再びふくらはぎに軽い衝撃。今度はうぅん、という呻き声がおまけに付いてきた。
やっぱりと安堵と呆れが混じったため息をつき、上半身を起こして犯人を見下ろす。恋人である入間が、決して狭くはないベッドだというのに窮屈そうに王馬の足を蹴った。
「まったく……ホントに寝相悪いんだから」
安眠を妨げられ、不機嫌そうに呟いて欠伸をする。それに対して隣の入間は一向に起きる気配を見せない。枕元の時計を見ると、まもなく四時を回ろうとしているところだった。深夜とも早朝ともつかない中途半端な時刻に、悩ましげな声をあげた。このままベッドに入っていても、入間からの定期的な攻撃により眠りにつくのは難航しそうに思われた。
やれやれだぜとぼやきながら、ベッドを抜け出す。ひんやりとした空気が体にまとわりつき、王馬は身震いをした。季節はもう秋である。
自室へ行き、未だ終わりを迎えそうにない仕事の続きをするのもいいだろうと思ったが、その前に体を暖めたかった。
そっとドアを開け、軋む階段を下る。広々としたダイニングキッチンは寝室以上に寒々としていた。オレンジ色に近い灯りがほんの少しのぬくもりを与えてくれるのが、嬉しかった。一瞬の冷たさを我慢し、冷蔵庫を開け牛乳を手に取る。入間の要望で買い始めた低脂肪乳にももう慣れてしまった。棚の中からココアを取り出して開けると、これで使い切ってしまうくらいの量しかなかった。マグカップに牛乳を入れ、電子レンジで温める間、冷蔵庫に貼られた買い物メモにココアと書き足す。他には秋刀魚、大根、豆腐などが書いてあり、明日は秋刀魚かぁ と微笑んだ。学生時代は敬遠していた切り身ではない魚も、今ではよく食べるようになった。綺麗に食べられないとこぼすと、入間がにやにやしながら食べ方を教えてくれたのが懐かしい。
軽快な音を鳴らすレンジを開け、ココアを混ぜてまたマグカップを入れる。そういえばレンジで作るのは久しぶりだと気がつき、入間と暮らしてもう随分経つのだと何やら感慨深い気持ちになる。入間は鍋でココアを作る。甘い香りで満たされた部屋で、二人で飲むのがこの時期の習慣となっていた。

出来上がったココアを持って、寝室へと上がる。サイドテーブルの薄灯りをつけ、小さな椅子へと腰を下ろした。入間は先ほどとは違う体勢でベッドを占領している。
ココアを飲みながら、恋人が眠る姿を見る。これって、とてつもなく幸せなことなんだろうなぁとぼんやりと考えた。
「……そういえば、こうやって起きちゃうのも久しぶりだな」
ぽつりと呟いた言葉がしんとした空間にしみていく。入間は返事をしない代わりに規則正しい寝息を立てていた。
王馬は元々、眠りが浅い人間だった。自身の職業柄、他人に命を狙われる危険性があることも関係していたのかもしれない。一人で寝る時は勿論、部下や友人が同じ部屋にいようものなら気を抜くことなど許せるはずがなかった。自分の人生に巻き込まれた誰かを被害者にさせるわけにはいかない。恋人なら尚更だ。そのため、同棲を始めた当初は入間が寝返りを打つのにすら反応し飛び起きてはまた眠りに落ちるという、割合過酷な日々を過ごしていた。
そんな生活であるため、別々の部屋で眠ろうと提案をされるまでに時間はかからなかった。目の下に隈を作る自分が入間にはひどくかわいそうに見えたのかもしれない。王馬は不安ながらも承諾した。しかし、一人で寝ても状況は変わらなかった。リビングのソファで、自室に寝袋を持ち込んで、快眠を謳う枕を使用してみても王馬は夜中に目覚め、何も起きていないことを確認しまた眠るという生活を繰り返した。

そんな状況を一変させたのは、入間の一言だった。
「アタシ、死んでもいいよ」
ソファに体を預けてうつらうつらする王馬が一瞬で目覚めたことは言うまでもない。馬鹿なこと言わないでと泣き笑いのような表情を浮かべて叱りつけると、入間は王馬を抱き寄せながら言った。
「死ぬ時は何やっても死ぬんだから。王馬と一緒に死ねるならそれはそれで幸せだと思う。どんな形であっても、ね」
なんだその、アニメか漫画にでもありそうなセリフはと笑ってやろうとしたが上手く笑えなかった。入間の体温と柔らかい体に抱かれていると、それが本心であるようにしか思えなかったのだ。何よりも「アタシ」という一人称が彼女が本心を訴えている証拠だった。
「そういう覚悟がなかったら、王馬と付き合ってないから」
ただただ真剣な声色が王馬の心臓を揺さぶった。背中を撫でながら、もう頑張らなくて大丈夫だよ と耳元で囁かれる。それはまるで聖母の教えのような、全てを許してくれるような甘美な響きだった。
自分に関わる人間は皆、守らなくてはいけないと思っていた。だからこそ、恋人という存在は脅威に他ならなかった。家族である部下たちだけでも手一杯であり、もし愛する恋人を守れなかったらその罪の重さに耐えきれず自らの命を絶つかもしれない。恋人なんていらない、負担になるような存在なんて必要ない。総統であり続けるためには、安心できる場所なんてない方がいい。
そうやって自分を縛り、律し、戦ってきた。
しかし、入間はいとも簡単に王馬の武装をすり抜けて心を掴んでしまった。数年前、紅鮭弾という奇妙なバラエティ番組で、わずか十日という日数で、王馬は陥落したのである。
まるで予想ができない突飛な発明。
からかうと泣きそうな顔をして反論してくるいじらしさ。
そして、他人よりもずっと優れた頭脳を持つというのに、上手く嘘をつけない不器用な姿。
そういった自分にはないものを持つ彼女を前にして王馬は為す術もなく、恋に落ちたのだ。
だからこそ、守りたいと思った。守りたいからこそ彼女から離れようとしたことさえあるが、不可能だった。時折見せてくれる、素直な部分を、自分以外の誰かが見る未来を想像すると烈火のような怒りに駆られるほど、彼女を愛していた。つまり、手遅れだったのだ。
一緒に居続けるならと決めた後は、それまで以上に気を張った。総統として、恋人として、入間を守るのだと誓ったのだ。
それなのに、死んでもいいなんて本当に馬鹿な話だ。そんな風に他人に命を預けるような、愚かな人間じゃなかっただろうと言いたかった。オレが今まで頑張ってきたのを無駄にするのかよと叱りたかった。頭の中には次々にそういったことが浮かぶのに、言葉にならない。
「ごめんね。いっぱい頑張らせちゃって」
慈愛に満ちた謝罪が降り注ぎ、王馬の武装を完膚無きまでに壊していく。そんなこと言わないでよと言いたいはずなのに、漏れたのは悲鳴にも近い嗚咽。背中を撫でる手の優しさと暖かな体に包まれ、王馬はひっそりと泣いた。
付き合うということは、自分の人生を預けると誓ってくれることは、こんなにも楽で、幸福なことなのか。
子供のようにぽろぽろと涙をこぼしながらそんなことを思うと、途端に体の力が抜けて猛烈な眠気が襲ってきた。
いいよ、このまま寝ちゃおうね と母のような言葉を聞きながらまどろみ、深い深い眠りに落ちた。目覚めたのは次の日の昼間だった。いつの間にかベッドに寝かされていたことにも、一度も起きなかったことにも驚いたが、それよりも疲労感が一切ないことがただ嬉しかったのを覚えている。総統という道を選んだ時から背負ったものを下ろし、何の肩書きも義務もない「王馬小吉」になった瞬間だった。

それ以来、王馬は再び入間と寝るようになり、夜中に目覚めるということも今では皆無に近い。
寝相が悪い入間に蹴られようが、布団を奪われようが、起きることもなかったはずなのに、はて今日はどうしてだろう と首をかしげる。そういえばと、昼間だった近所で強盗があったというニュースを見て、随分と緊張していたことを思い出した。携帯を取り出して検索すると、ちょうど二人がベッドに入る頃に捕まったという記事が上がっていた。安堵して、ココアを飲む。体がぽやぽやと暖かくなり、このままなら眠れるかもしれないと微笑んだが、歯磨きをしなければならないのだなぁとその微笑みも取り払われた。
ふと、目の前の入間はどんな顔で寝ているのか知りたいという欲求に襲われ、立ち上がって覗き込む。顔を見る前に、まずその寝相の悪さに王馬は吹き出しそうになった。手足を四方に投げ出し、上から見ると「卍」という文字にも似ている体勢はもはや芸術にも近い。一人で「まんじ」と体勢に似た文字を呟いてみると、しんとした部屋でそんなことを言っているのがたまらなく面白く、声を殺して笑う。肩を震わせながら彼女の顔を見ると、体勢の割に穏やかな顔で眠っていて、それはどこか死を思い起こさせるような静けさがあった。不安になって顔を近づけると確かに呼吸をしていて、生きている と一人で頷く。
無防備な寝顔。化粧をしていない入間は、意外と童顔なのだ。綺麗ではあるのだが、どこか少女のような雰囲気を漂わせており、無垢 といった言葉が似合う。無論、口を開けば暴言と下品な言葉のオンパレードには違いないのだが。
出会った時から、いつもキツい印象を与える化粧をしていた。相手寄せ付けまいとする、威圧感を与える目。血のように赤い口紅で彩られた唇。人々は彼女を美しいと褒め称えたが、王馬にはまるで武装をしているように見えた。
今は王馬の前ではほとんど化粧をしない。何もしなくても綺麗だよ、と言ったことがあるからかもしれないが、武装を解いているように思えた。ただ、そう信じていたかった。
自分が彼女の前ではそうあるように、何も頑張らなくていいのだと思っていてほしい。今、王馬が願うただ一つのことである。

ココアをすっかり飲み干し、階下で洗い物と歯磨きを済ませた王馬が寝室へ戻ると入間が起きていた。寝ぼけ眼を擦りながら、王馬の名前を呼ぶ。
「どうしたの、また、眠れなくなっちゃったの」
子供のようにたどたどしい声。しかし不安がにじみ出ている。半分はキミのせいなんだけど、と言いたいのを堪えて大丈夫だよと答えると、ほんと?と首をかしげた。こんな風に無防備な姿を見られるのが自分だけだと思うと、幸福感が充満する。ほんとだよぉと笑うと、入間も笑い返してきた。両手を広げて、来てと誘われる。ベッドに入ると心地の良い温度がそこにあった。
入間は王馬を優しく抱きしめながら、ねんねしようねぇと子供をあやすように囁く。王馬は応えるように、入間に擦り寄った。
「勝手にどっか行ったらダメ。心配するでしょー」
「えー。じゃあ、トイレもダメなの?」
「ダメー」
「そんなご無体な。我慢できなくてベッドがびしょびしょになっちゃうかもよ」
「いいもん別に」
「馬鹿じゃないの」
「んふふふ。馬鹿でいいもん」
「あらら。入間ちゃん眠いと随分可愛くなっちゃうんだねぇ」
まどろんでいきながら、そんなやり取りをしていると、嘘のような気がしてくる。こんな生活は嘘で、長い長い夢で、都合のいい妄想で…… しかしこれは真実なのだ。まぎれもない真実で、何物にも代え難い幸福だ。
徐々に言葉少なになっていく入間を見ながら、王馬はずっとこんな風に生きていきたい、とはっきりと思った。おとぎ話の終わりのようにいつまでも、いつまでも、幸せに暮らしたい。
そう思ったら、ほとんど無意識の内に口にしてしまっていた。
「ね、結婚しようか」
入間はほとんど夢の中のようで、えへへと笑いながらなぁに と答えた。明日きちんと言おう、指輪も、ロマンチックなディナーも用意してないけど、と心の中で決意を固める。どうしてもこの気持ちを伝えたかった。秋刀魚を前にプロポーズ、というのもなんだか思い出深くなりそうな気がして、そっと微笑む。
「おやすみ」
そう呟いて目を閉じると、返事の代わりにまた規則正しい寝息が聞こえた。