Dive your life 紅鮭団の後 終業式の日に二人でカラオケに行く王馬と入間の話 お泊り編に続きます 以下雑談 場所は新宿のイメージ 歌詞の引用は 「くるり:ハイウェイ] 「ORESAMA:オオカミハート」より |
七月末の更衣室は地獄のように暑い。すりガラスがはめ込まれた大きな窓にカーテンを引くも、強烈な日差しの前では大して役に立っているようには見えなかった。この学校の資金は更衣室にまでエアコンをつけるほど潤沢ではないのだ。入間はため息をつきながらつなぎのファスナーを下ろした。 超高校級という肩書を背負いながらも、自分の研究室を持たない入間は主に学内にある工作棟を利用している。溶接機やマシニングセンターといった危険性の高い機械を扱う際はつなぎの着用が義務付けられており、たとえ超高校級だろうと決して免除はされない。入学式当日、購買に並んだ灰色のつなぎとそれを手にした同級生たちの群れにゾッとした入間はすぐさま特注のつなぎを用意した。薄いピンク色に、ネズミのキャラクターのアップリケがついたものだ。それをみたクラスメイトは目を剥いていたが、担任はそれも個性だろうと笑っていた。他人と同一化することは、入間にとってアイデンティティの欠如と同義だった。あれから一年と少し。ごわついた生地の感触もすっかり体に馴染んでいる。 真っ白なブラウスがまぶしい制服に着替え、鞄から取り出した制汗スプレーを体に吹きかけた。好みの柑橘系の香りも暑さが凝縮されたこの部屋では妙にきつく感じてしまう。カーテンを開けると校庭が見えた。全員同じユニフォームに身を包んだ野球部が練習に励んでいる。 「終業式だってのに、ご苦労なこった」 そう呟いて、人の事は言えないかと頭の中で付け加えた。 今日は終業式だった。試験、課題制作、校長の長い話という試練を乗り越えてようやく手にした夏休みが明日から待っている。しかし発明で彩られる人生を送っている入間にとって、嬉しさよりも不便さに対する不満の方が大きい。夏休み中は工作室は使用に制限がかかり週に二回になるのだ。今日を逃せば次に入れるのは四日後の火曜日になる。作りかけのものを放置して夏休みを迎えるのは居心地が悪く、工作棟で作業を済ませてきたのだ。畳んだつなぎと完成品を丁寧にしまい、スクールバッグの中身を確認していると携帯の通知画面に目を奪われた。 ――今から会える? わずか七文字が与える衝撃に入間はすぐさま通信アプリを開く。連絡が来た時間は十分ほど前だった。文章を打つ時間が惜しく、通話ボタンを押して耳に当てる。軽快な呼び出し音が鳴り響く中、入間は額から垂れる汗をタオルで拭った。 「はい、最原です」 「おい」 聞き慣れた声で別人の名を名乗る恋人についキツい声が出る。 「入間さん?どうしたの?」 「ふざけんなよ」 「もう、そんなに怒らないでよぉ。元気?」 「テメーのせいで気分は最悪だよ」 「ええー。オレは入間ちゃんの声が聞けて最高に幸せだけどね!嘘だけど!」 「死ね」 「ひどいなぁ。電話くれたってことはメッセージ読んだんだよね?今日、どうかな」 「ああ。えっと……今から会えるけど」 そう告げた声が自分で思った以上に弾んでいた。電話の向こうから聞こえる、よかったという声は会いたい気持ちを余計に募らせた。 学校を後にした時には三時を回っていた。少しでも会える時間を確保しようと足早に歩きながら、ふと振り返ると入間はうら寂しい気持ちになった。静まり返った廊下、がらんどうの教室、人の温度を感じさせない校舎。数時間までの喧騒が嘘のようで、まるで夏休みという妖怪が入間以外の人間を連れ去ってしまったようだった。待ち合わせ場所に果たして王馬がいるのか不安になったものの、カーンと金属音がしてすぐに現実に戻された。遠くから聞こえる野球部の声に安堵の意味も込めつつため息をつく。 「行くかぁ」 そう呟いて、再び歩き始めた。少しだけ歩幅を大きくして。 学校帰りに会うことは滅多にない。超高校級である二人は日々忙しく、放課後にも予定が詰まっているのだ。たとえ予定がなくとも、互いの学校がそれなりに離れているため時間のない放課後よりは、土日に会った方が良いというのが暗黙の了解になっていた。 待ち合わせ場所は入間と王馬それぞれが使う路線の交差駅だった。着いた時には四時を過ぎており、迷宮と称される広大な構内をどうにか脱出し階段をかけ上がると、既に到着していた王馬が手を振った。見慣れた光景に入間はほっとする。どこで待ち合わせをしてもいつも王馬の方が少しだけ早く着いて、必ず手を振るのだった。 「もう。オレ三時間も待っちゃったよ!お詫びに今日は入間ちゃんのおごりね!!」 「くだらねー嘘ついてんじゃねーよ。誰がおごるかバーカ」 バレたかーと笑いながら入間を見上げる王馬は以前会った時に比べて少し痩せたように見えた。半袖の制服から覗く腕はまるで棒のように細く、肌は不健康なまでに白い。集中するとあまり食事を取らなくなると言っていたことを思い出し、入間は不安げに表情を曇らせた。 王馬とは二週間ほど会っていなかった。王馬の通う帝都大帝都高校は国内でも有数の進学校であり、その試験は一夜漬けやヤマ勘では到底太刀打ちできない内容らしい。入間も課題制作に集中したかったこともありデートは控えていたのだ。メッセージでのやり取りや数十分の電話はしていたもののやはりそれだけでは物足りなく、会える日を待ち遠しく思っていた。本来ならば明後日までおあずけだったはずのデートが突然もたらされ、犬のように王馬に飛びつきたい気持ちに駆られたが、自尊心と羞恥心がそれを許さなかった。 「元気?」 「まぁな」 「ふぅん」 「テメーはどうなんだよ」 「こう見えて不治の病にかかってる。うっ、持病の嘘をつきたくなる発作が……」 「はぁ?ま、確かにテメーの虚言癖は病的だけどな!!」 王馬は見た目の割に元気らしく、いつもと変わらぬ調子で軽口を叩いた。その姿に入間は安堵する。 「今日、用事あるんじゃなかったのかよ」 「うん。でも抜けてきちゃった。だってもう夏休みなんだぜ?自由を謳歌する権利を存分に使わないと」 にしし、という妙な笑い方につられて入間も笑い返す。帝都大帝都高校も今日が終業式だったが、王馬は用事があると言うので約束は取り付けていなかった。 「お腹すいてる?どっか入ろうか?」 王馬は手を伸ばして、入間の右手に下げていたドラムバッグを取る。つなぎやら自分で持ち込んだ工具が入っているそれはそれなりに重いはずだというのに、王馬は顔色一つ変えない。 「あ、ありがと」 「へへ。お嬢ちゃん、お礼は体で払ってもらおうか」 そう言って空いた左手で入間の手を握る。そういった、自分にはないスマートさがたまらなく好きだと思った。王馬の手はほんのりとあたたかく、そして子供のように小さかった。 「急に呼び出しちゃったし、入間ちゃんの好きなところでいいよ」 「童貞にしては気の利いたこと言うじゃねーか。……じゃあ、カラオケ行こうぜ」 「へー、珍しいね!!入間ちゃんの事だからラブホとか言い出すのかと思ったのに」 もしそう言っていたら連れて行ってくれたのだろうかと入間は一瞬後悔したものの、行こうよと手を引っ張られてすぐにその思考を頭の隅へ追いやった。 ** 薄暗い部屋でどこか古臭いMVが流れる画面だけが眩しい。ストーリー性が不明なそのMVに首を傾げつつ、入間は王馬を見つめた。彼が選ぶにしては珍しいスローペースのロック。初めて聞く歌だったが、入間の耳にとても馴染んだ。百もあるという旅に出る理由のひとつめに、ここじゃどうも息もつまりそうになったと挙げる歌詞は王馬によく似合っていると思った 入間は王馬の声が好きだ。声変わりをしているにしては少し高めで普段喋る時には子供のように思える時さえあるというのに、歌う時にはそれが妙に色っぽい。入間は烏龍茶を飲みながら、アルトとテノールの中間ほどのこの甘い歌声を独占してしまえる立場にいることを噛み締めていた。 「そんな風に見つめないでよお」 まるでそんな歌詞であるかのように、歌うような口調で王馬が言った。マイクを通した声が拡散されて入間の鼓膜に収束していく。 「み、見てねーよ」 「えー。穴が空くほど見つめられてドキドキしちゃった。オレ知ってるんだからね、入間ちゃんが見つめるだけで人に穴を開けられる能力の使い手だってこと」 「ははーん。なるほど、暗にオメーはオレ様の発明品の実験台になりてーって言ってんだな?いいぜ。嫌って言うほどテメーの下の口を開発してやるよ」 「なにそのAVみたいなセリフ」 もう歌う気がなくなったのか王馬は停止ボタンを押してグラスに入っていた炭酸を飲みほした。 「飲み物取ってくるね」 そう言った王馬が分厚いドアの向こうに消えていくのを見て、入間はソファに体を横たえた。うぅ、と呻き声を上げていつ切り出そうかと考えあぐねる。カラオケという絶好の密室で、本当にしたいことなど一つだけだ。あの真っ白な肌に触れたい。キスをしたい。もう帰りがけに人目を憚って路地裏に逃げ込むのはうんざりだった。 「寝てんの?」 ギィ、とドアが空く音と共に飛んできた王馬の声が入間を思考世界から引き戻す。慌てて起き上がると王馬は少しだけ眉根を下げて柔らかい微笑みを浮かべていた。入間はこれが少し困っている時の顔なのだと知っている。 「眠い?……もう帰ろうか?」 首を横に振ると王馬はほっとしたようにその笑顔を崩した。それは簡単に本心を口にしない王馬が、まだ一緒にいたいと望んでいる証拠なのだった。 「入間ちゃんはもう歌わないの」 「もういい」 「えー。オレはもっと聞きたいけどな」 デンモクを押しやられたものの入間は押し返す。口を尖らせて不満げな声を上げる王馬ももう歌う気はないらしく、歌手のインタビューのようなものが延々と流れる画面を眩しそうに眺めている。 「キミって歌詞に感情移入するタイプ?」 「なんだよ急に」 王馬は画面の方を向いたまま左手を入間の手の甲に重ねた。半袖から伸びた真っ白なその手はやはり暖かく、きっと彼の体も同じくらいの温度なのだろうと想像する。そのまま体を預けてしまいたいと思いながらも、実際にはその身を固くすることしかできなかった。 「だってー。会いたいとか、好きとか、そんな歌ばっかだったし」 丸い瞳が急に三日月のような弧を描き、思考を見透かされてしまいそうな鋭さを宿している。入間は思わず目を逸らした。 「そんなに会いたかったのかなーって」 「気持ちわり―な!!偶然だっての。このオレ様があんな浮かれた歌詞に共感するわけねーだろ!!恋愛脳のバカ女どもじゃあるまいし」 やはり核心を突かれ、入間は誤魔化すように手を払いのけた。ジャンルや年代を固定せずに音楽を聴く王馬はカラオケで歌う時もあまり統一性がない。それに対して入間は最近よく聴いている曲を歌うことが多い。つまり、会いたいとか好きとか、実際口に出すのも恥ずかしい言葉が散りばめられた恋愛ソングを好んで聞いているということだ。歌詞に感情移入しているのかという疑問も的外れなわけではなかった。恋人に対する率直な欲求をぶつける曲は好きだ。自分の言えないことを代弁してくれるようで、聞いていると気が楽になる。王馬は払われた手をさすり、大袈裟に痛がってみせた。 「そんなに怒ることないじゃん。もしそうだったら可愛いとこあるなーって思っただけだよ」 「かわ……。そうやってからかおうとしても無駄だぜ」 「入間ちゃんはオレと付き合ってから随分ひねくれちゃったねぇ。その内オレみたいな嘘つきになっちゃうんじゃない?ま、人の嘘は嫌いなんだけどね」 王馬は入間の顔を見上げて頬に触れた。 「でもそんなキミが好き。大好き」 「え……」 「って歌があってね!」 パッと手を離されて上昇していた期待値がぐんと下がる。大好きなんて甘い言葉を王馬が簡単に口にするわけがないことは分かっていたはずなのに、言われた途端に鼓動が速まった。健康そうな歯を見せながら笑う王馬を見下ろし入間の視線は、襟元のボタンを外しているせいで露になった首元に視線は寄せられていく。王馬はそれを敏感に察知して生娘のように腕でガードをして身をよじった。 「もうっ!!入間くんのエッチ!!そんな飢えた獣みたいな目で見て、童貞オーラがだだ漏れだよ!そんなんじゃ女の子にモテないぞ!!」 「その言葉をそっくりそのままテメーに返してやるよ、このクソ童貞が!!」 「まったくーノリが悪いなぁ。そこはお前さえいれば他の女はいらないって言うところでしょ?入間ちゃんは男だったら永遠に童貞だっただろうね。きっと夢野ちゃんを凌ぐような凄腕の魔法使いになってたはずだよ」 映画の中の外人よろしく両手を上げてやれやれと首を振る。そんなに飢えたような目つきをしていたのかと眉間に皺を寄せると王馬が怪しげに口端を持ち上げた。 「ねぇ、触っていいよ」 暖かな手が入間の手首を掴み、胸元に引き寄せる。震える指先で首筋を撫でてくっきりと浮き出た鎖骨をなぞる。薄い胸板に手を当てると、当たり前のことだがぺたんと平らな、男の胸だった。 「ケケッ。オメーは女だったら春川を凌ぐようなド貧乳だったな」 「はぁー?もっと喜びなよ!!漫画だったらこのままなだれ込むところだぞ!!」 ぶつぶつ文句を垂れながら左胸の、心臓のある場所に手をスライドさせる。入間の掌に王馬の心臓の動きがはっきりと伝わってくる。今目の前にいる男がきちんと生きていて、自分はその生命に触れていて、そしてこれからもこんなことが続くのだろうと思うと体の奥底が何かあたたかい気持ちで満たされていった。それは今までとこれからの人生すべてに意味を見出せるような、まだ見ぬ未来が素晴らしいものであると確信できるような、なんとも説明がつかないけれども明るい気持ちだった。入間はこの気持ちを、辞書の幸福の欄に書き加えておきたいと思った。そしてあの奇妙な番組で出会い、結ばれたことは一つの奇跡だと改めて頭に刻み込んだ。 掌に伝わる鼓動が少しずつ速くなっていく。王馬は目を伏せて薄く笑った。 「ドキドキしてるのバレちゃうね」 その素直さに、入間の鼓動もまた速くなった。どうしてか掌を通してバレてしまうような気がして入間は声を張る。 「体は正直ってやつだな!!」 「だからなんなのそのAVみたいなセリフは。雰囲気台無しだよ」 それは別段呆れているようでもなく、ただただ柔らかかった。そしてこの戯れを楽しんでいるかのように笑いながら王馬は入間の腕の中に飛び込んだ。 「オレは会いたかったんだけど、入間ちゃんはホントに違うの?」 入間を見上げながら小首を傾げるその姿はあどけない少年のようでもある。しかしこれまでの経験上、王馬が自分の素直さを対価に入間の本心を引き出そうとしていることを入間は察していた。きっと答えを知っているのであろうそのあどけない微笑みに、入間は心の中で負けを宣言する。他人と同一化することは、入間にとってアイデンティティの欠如と同義だった。しかし恋をするということは、きっと世の中の恋する人々と同一化するということだ。それでも、こんなに幸福になれるのならば構わないと思えた。 小さな体は手と同じようにあたたかく、入間を包み込むように体温を分け与えてくれる。これまで築き上げてきた自尊心の強さゆえに素直になり切れない入間を、まるで魔法のように変えてしまう体温。氷を溶かすように入間の頑なな心を解いてしまう、唯一無二の存在。 「……本当は、会いたかった」 消え入るような声。一度口に出してしまえばくすぶっていた羞恥心が燃え上がりまともに王馬の顔を見ることすらできない。そっと目を逸らすと、テレビの画面に先ほど歌った曲を紹介するアーティストの姿があった。天邪鬼な男への恋心を描いた彼女の歌を数えきれないほど聞き、痛いほどに募る気持ちを和らげていた。 「あの歌だってずっと聞いてたし……。だから、さっきのはその、嘘だから」 王馬はそう、という静かな相槌の後に知ってたけどねと続けた。 「じゃあ入間ちゃんも恋愛脳のお馬鹿さんってことだよね?」 「はぁ?!」 「だってさっき言ってたじゃん。もしかしてもう忘れちゃったの? たった五分前のことなのに?大天才を自称してる割に入間ちゃんの頭って案外お粗末なんだね」 明確に、いじめてやろうという意思を持った口調で追及されて背筋のあたりがちりちりと熱くなる。 「馬鹿にすんな!!……覚えてるに決まってんだろ」 「じゃあ言って」 「な、なにを?」 それはまさに悪魔と言っても過言ではないような微笑み。主導権を握り、優位的な立場から相手を辱めることを好む王馬の性格が滲み出ている。そして最悪なことに、入間はその笑みすらも愛してしまっているのだった。 「浮かれた歌詞に共感するような恋愛脳の馬鹿です、ってちゃんと言って」 「うぅ……」 「ほら、早く」 その甘く責め立てるような声が、蔑むような視線が、入間の心を捉えて離さない。きっと一生この男には勝てないのだろうと思いながら入間は口を開いた。 「ア、アタシは……浮かれた歌詞に共感するような恋愛脳のバカです……」 「ふふ。いい子だね」 背筋に宿っていたちりちりとした熱さがもっと確かなものに変わる。冷房の効いた部屋だというのに入間の体は汗ばんでいた。 「でもオレはそんなどうしようもないお馬鹿さんが好きだよ」 「また嘘なんだろ」 「嘘じゃないよ。だって、オレのことで頭いっぱいだったってことでしょ?違うの?」 自惚れにもほどがあると反論できるほど入間は口達者な人間ではなかった。実際、会えない時の方が王馬の生活を意識し、思うように連絡が出来ない歯がゆさに悶えるばかりだった。素直に違わないと答えると王馬はその素直さを褒めながらまるで飼い犬にでも接するかのように頭を撫でた。 「素直になれたご褒美に入間ちゃんのお願いを聞いてあげる。どう?オレって結構いい飼い主だと思わない?」 「テメーのペットになった覚えはねーよ」 「まぁまぁ、そう怒らないでよ。……ねぇ、何して欲しいの?」 王馬は催促をするように唇を指先でなぞる。もう気丈に振舞うことは不可能だった。 「……いっぱい、ぎゅってして」 「よくできました」 床にローファーが落ちる硬い音が響く。王馬は入間の太ももを跨ぎ、向かいようにして座った。いつもは見下ろすばかりの王馬と同じ目線でいる新鮮さに、心臓が跳ね上がる。恥ずかしさのあまり目をつむると、すぐに王馬の体温が入間を包んだ。隔たりなど許さないように、強く抱きしめられ入間もおそるおそる彼の背中に手を回す。 体温も、鼓動も、汗の匂いも、はっきりと分かる。等速で聞こえる息遣いさえ。きっと王馬にも同じように分かってしまうのだと気づけば恥ずかしさが募る。しかし、それ以上にこうして抱き合えた喜びで心は満たされていた。入間はただ黙って王馬がくれる幸福に身を委ねる。耳元で王馬が、寂しかった?と囁く。頷くと、一緒だねという言葉が返って来た。ただそれだけで心拍数が上昇する。一生の内の鼓動回数は決まっているという。王馬の一挙一動に心臓は反応し、どんどん死が早まっていくのかもしれない。それでも、王馬のせいで死ねるのは幸せなような気がした。 「ねぇ。ぎゅってするだけでいいの?」 「え?」 突然、王馬に投げかけられた問いかけに間抜けな声が出る。 「だからぁ、欲しがりガールな入間ちゃんは抱きしめるだけで満足できるのって聞いてるの」 「欲しがりガールて」 「欲求不満ガールの方が良かった?はっ……もしかしてオレが知らないだけでボーイだったりする?」 「れっきとした女だよ!!つーか今触ってんだろ!!」 「だって入間ちゃんの天才的な発明品で女の子に擬態しているのかもしれないじゃん。まぁオレはキミが男でも女でもいいけどね!!」 それまでのロマンチックな雰囲気も王馬の軽快なトークによって台無しだ。自分こそ人のことを言えないだろうと小さく舌打ちすると、怒った?という笑ったような声で耳元をくすぐられ入間は身をよじった。わずかに緩んだ手の中から抜け出して、入間の顔を眺めながら王馬は微笑む。 「というわけで質問に答えてよ」 「な、何がというわけでだよ。つーか、なんでオレ様ばっかり言わなきゃいけねーんだ。欲求不満はテメーの方だろうが!!テメーこそ言ったらどうだ?まぁどうせこんなところでできねーようなエロいことばっかりだろうけどな!!ひゃっひゃっひゃ!!」 ふざけた態度の王馬を前にして、主導権を握られていることが途端に悔しくなる。飼い主ならば飼い主らしく、ちゃんとリードしてほしいというのに。高笑いをする入間をめんどくさそうに見つめながら、王馬はため息をついた。 「ホント失礼だよねー。そうだなぁ。じゃあ、キスさせてよ。これならここでもできるでしょ?」 「お、おう。そんな常人ぶっても無駄だからな!!テメーがカラオケAVに興奮する変態だってことは分かってんだからな!!オレ様の喘ぎ声を生音配信してほしいとか思ってんだろ?!それとも手コキカラオケがしてーのか?!」 「うるさいな」 王馬は静かに入間の暴言をはねのけ唇を塞いだ。乱暴なものではなく、唇を優しく押し当てるだけのキス。軽いリップ音を立てながら王馬は何度も角度を変えて優しいキスを繰り返し、時折唇を柔く噛み、濡れた舌で舐めて入間の劣情を煽った。もっと激しく求めてほしいというのに、王馬は延々と子供のようなキスを繰り返す。もどかしさに駆られた入間が背中をぎゅっと抱きしめると、王馬はそれを受け入れるかのように薄く開いた唇に舌をねじ込んだ。 こういったキスをするのは初めてではなかったが、片手で数えられる程度だ。優しく舌を吸われ、口の中を丹念にかき回される。延々と続くキスに入間の頭はぼんやりとし、圧倒的な幸福感に包まれていた。 粘液質な唾液の音。喉の奥から漏れる声。ままならない呼吸。カラオケボックスが一瞬にして淫靡な密室に変わる。未だこういったキスに慣れない入間は何度も背中をのけぞらせて反応する。王馬はそれを面白がっているのか、背中を撫でながら甘いキスを与えた。 「……気持ちいい?」 唇を離した王馬が肩で息をしている。ちらちらと見える舌の赤さを、卑怯だと思った。肯定するように、もっととねだると指先で唇をなぞられる。 「オレから主導権を奪おうなんて思わないでね。……こういう風にちゃんとおねだりできたら、好きなだけご褒美あげるからさ」 ああ、やっぱり勝てないなと入間は頭の片隅で思う。しかしそれよりも快感に身も心も投じたい入間は頷きながら王馬の制服を掴んで催促をする。 「お返事は?」 「は、い」 満足げに頷いた王馬は再び入間の唇を奪う。優しく握ってきた彼の手が汗ばんでいるのが分かった。酸素が足りない頭に浮かぶのは、もっと先に行きたいという願望だった。先ってなんだ、とか、ここがどこか、とか、そういうことを考える余裕もなくただ心が疼くのに合わせて王馬に擦り寄る。押し付けるように胸を突き出して、彼の指をゆっくりと擦る。王馬は笑うようにくっくと喉を鳴らした。 必死だ、と思う。かろうじてそれは理解できる。理解できるのに止められない。魔法にかかるようにキミに染まっていくというテレビから流れる耳馴染みの歌詞が、入間の背中を押した。誘うような濃厚なキスを繰り返す内に唾液が溢れ顎を伝う。それでも王馬はキスより先に進もうとはしなかった。 突然電子音が鳴り、このいかがわしい空間に終止符が打たれた。王馬は慌ただしく靴を履き備え付けの受話器を取りに行く。延長はいいですと言う王馬をぼんやりと眺めながら、入間はソファに横たわった。 「入間ちゃん。出ようか」 「……なんで?」 「帰らないと。もうすぐ六時だよ。キミの家、結構遠いでしょ。心配されちゃうよ」 「心配されない」 「こら」 起き上がらせようと手を取った王馬を軽く引っぱる。 「何?」 「延長しろよ」 「ダメ」 もう一度、言い聞かせるようにダメだよと言う。入間は気だるげに起き上がり、王馬の腰に抱き着いた。額をぐりぐりと擦りつけながらうぅーと唸る。 「にしし。本当に犬みたい」 「うるさい」 「我慢できなくなっちゃったの?」 くしゃくしゃと髪をかき乱しながら頭を撫でられ、入間は額をつけたまま再びうるさいと言った。 「……オレは我慢できなくなりそうだったけど」 バッと顔を上げると王馬が嘘なのか本当なのか、どうともつかない笑顔で入間を見ている。 「嘘?」 「どっちだと思う?」 「じゃあ、嘘ってことにしておく」 「オレってばホントに信用ないなぁ。ていうかさ、それ、直して。はしたないよ」 王馬の視線の先にはスカートがはだけ、露になった太ももがあった。入間はスカートを摘まみ、静かに持ち上げる。もっとドキドキして欲しい。興奮して欲しい。自分のことを思い出して、欲望を満たしてほしい。下着がギリギリ見えないところまで引っ張りあげて、王馬を見つめる。王馬の喉仏が上下するのに、お腹の辺りがキュンとした。 「見たい?」 「うわぁ。痴女だ」 「見たいかって聞いてんだよ。さっさと答えやがれ。遅漏も嫌われる原因なんだからな!!」 少しだけ、からかう気持ちもあったのだ。見たいと答える王馬を目に焼き付けたかった。恋人の体に興味を持つ王馬を、見せて欲しかっただけだ。 とん、という軽い音は王馬が壁に手を突いた音だった。両手を壁について、入間を追い詰めるように顔を近づける。こんな風に迫られたことはなく、入間は驚きのあまり瞬きを繰り返した。興奮と、ほんの少しの緊張が入間の胸をざわつかせる。 「見たいって言ったら、見せてくれるの?」 「あ、う」 「そうやってからかうのやめてくれない?オレだって男なんだからさ。言ってる意味、分かるよね?」 我慢できなくなりそうだったけど、という言葉が蘇る。いつになく真剣な眼差しと声色に入間は頷くことすらできなかった。 「延長しよっか」 「あ……」 「大丈夫、優しくしてあげるから」 怖い。一瞬にして体が恐怖感で支配される。入間はそれから逃れようとぎゅっと目をつむった。あまりに強くつむったので、目の奥で緑色の光がちかちかと光る。性的な行為をするのが怖いのではない。ずっと望んでいたはずだったのだから。ただ、王馬の有無を言わさないような迫力が怖かった。分かるよね?と強められた語気が入間の鼓膜を波のように揺らす。ごめんなさいと言っても許してもらえるのか、入間は想像もつかない。目をつむっていればどうにかなるような気がして、ただただ暗闇の中でじっと待った。 「……なーんてね!!」 嘘みたいな明るい声に入間はゆっくりと目を開ける。そこにはいつものような食えない笑顔の王馬が立っていた。 「もう、こんな時ばっかり信じないでよ!!嘘に決まってんじゃん!!大体オレ、入間ちゃんの貧相なパンツなんか見たくないしねー」 「なっ、なんだよぉ……」 「慣れないことしたらなんか疲れちゃった。いつも怒ってる人って大変なんだねー。尊敬しちゃう」 顔をむにむにと揉む姿は先ほどまでとはまるで別人だ。安心感からかため息を漏らして、すっかりぬるくなった烏龍茶に手を伸ばす。「優しくしてあげるから」という、どこか棘のある声が頭にこびりついて離れない。王馬も紫色の炭酸が入ったコップに口をつけたが、もう炭酸は抜けてしまったらしく顔をしかめていた。 「怖かった?」 「え?」 「さっきオレ、怖かったよね?だって入間ちゃん子犬みたいに震えてたしさぁ!!」 「こ、怖かねーよ!!オレ様は「ごめんね」 震える入間の言葉を遮り、王馬は小さく呟いた。嘘ばかりの彼の本音は入間の心を鋭く抉る。元はといえば入間の言動がきっかけだったこともあり、罪悪感が一気に湧き上がる。どうしてか王馬が遠ざかっていってしまうような気がした。 「もうしないから」 王馬はソファの端に置いてあった鞄を肩にかけ、伝票を取る。もう二度と、自分に触れてくれないような予感が脳裏によぎった。王馬はそういう男だ。明確な悪意を持って入間を傷つけようとしたことは一度もない。いつだって入間が本当に嫌がるラインを見極めてきた。だからこそこうして入間の恐怖を鋭敏に感じ取る。そうして、行き過ぎた自分の行動を戒める。賢く、人の機微に敏感な、器用な男だからできることだ。 しかし入間は、そんな器用さなど捨ててほしかった。自分の前では、もっと不器用になってほしいのに。あらゆることを間違ってほしいのに。そういう間違いを許せるのが恋人なのだと入間は信じている。だから入間は許したかった。王馬の行動を。同時に、浅はかな自分の行動も許してほしかった。 「ほら、帰ろ」 ドアに向かう王馬の手を入間は掴む。振り向いた王馬の丸く、大きな目が入間を捉える。 「し、していいよ」 「え?」 「あ、いや、その。嫌じゃねーから」 「いいよ、無理しないで。ていうか入間ちゃんが経験ないとか知ってるし。処女ビッチちゃんにはまだ早かったよねー」 「処女ビッチってなんだよ!!さっきのはびっくりしただけで、本当に嫌じゃなかったんだって……。大体オレ様のヴィーナスボディーを前に手を出さない男なんていねーんだからよ」 王馬は困ったように眉根を下げる。入間はより強く手を握りしめた。 「本当に、見てほしかったから」 「王馬とそういうことしたいのも、本当だよ」 「ただ、こういうこと初めてで。怖かったんだ……」 「だからその、えっと、ごめんなさい……」 分かってほしいという気持ちが先走り、入間は自分の言葉が支離滅裂なことを知りながらもまくしたてた。王馬とすることで嫌な事なんてきっと何一つない。そう思っていることを伝えたいのに、頭の中で生まれた言葉はどこかで零れ落ちてしまっているように、口にした時には違うものになっているような気がした。 王馬がパッと手を離す。縋るように余計に手を伸ばすと、今度は入間の方を向いた王馬が抱き寄せてくれた。再び腰の辺りに抱きつくと、頭を撫でられる。デジャヴだ。 「入間ちゃんってさぁ、ホントに馬鹿だよねぇ」 「は、はぁ?!」 「だって嘘つけないんだもん。オレに酷いことされたって泣いたって、傷ついたってオレをなじってくれても良かったのに。どうして正直に言っちゃうかな」 顔を上げて睨みつけても王馬はまるで怯まない。それどころか安堵しているような穏やかな顔つきをしていた。 「な、なんだよぉ。悪いかよぉ」 「……オレはそういう馬鹿な人が好きだよ。嘘がつけなくて、信じてほしいことがあったら必死に主張ししちゃうような、正直なキミが」 入間は王馬の制服をぎゅっと握り、何度もその言葉を反芻する。素直になるといい子だと褒めてくれた王馬の声の柔らかさ、髪を撫でる穏やかな手つき、そして今降り注いでくる告白。この言葉を信じたいと思った。 「もう出ないとね」 「う、うん」 鞄を持って分厚いドアを開けて二人は出ていく。廊下は音楽と人の声で溢れていて、現実世界に戻ってきたような気分だった。 ** 会計を終えて外に出ると、夕焼けが街中を照らしていた。少し先に見える高層ビル群の窓がだいだい色に染め上げられている。金曜日の六時過ぎという時間帯だけに辺りは人でごった返していた。王馬は荷物を抱えながら入間の左手を握り、駅から繁華街へと向かう人々の間を縫うように歩く。ざわめきの中では満足に会話することもできない。二人は黙って歩き続けた。 「ねぇ。オレとしたいっての、ホントなんだよね?」 王馬が寄り添うようにしてそう言ったのがかろうじて聞き取れた。 「……本当だよ」 「そう」 「そう、じゃねーよ!!何涼しい顔してんだ!!もうしないとか言ってたけど、オレ様そばにいるのに手出さねーとか据え膳を投げ捨ててるようなもんだぞ?!」 王馬は前を向きながらはい、はいと言って歩く。その頬の赤さは夕焼けに照らされているからなのか、照れているからなのかは入間には判別できなかった。続けざまに王馬に批判の言葉を投げつけようとした時、東口と書かれた看板が目に入った。ここでもう別れなければならない。王馬が使う地下鉄の乗り場に行くには西口に回らなければならないのだ。 「少しだけいい?」 頷くと王馬は人の流れから外れるように入間の手を引いた。交番の隣、待ち合わせの人々がたむろしている間に入る。会話や、携帯の小さな画面に夢中になっていた周囲の人々は、割って入った二人を一瞥して再び自分の世界へと戻っていった。 「お願いがあるんだけどさ」 「お、お願い?なんだよ。今すぐここでオレ様に手を出したいってのか?!さ、流石に初めてでそれはちょっと大胆っていうかぁ……。ま、土下座したら考えてやらなくもないけどな!!」 一人で騒ぎ立てる入間の目をじっと見つめ、王馬ははっきりと言った。 「オレ以外の前でああいうことしないで」 「ああいうことって」 「だから、パンツ見せたりとか。入間ちゃんは露出狂の気があるから知らない人の前でやって通報されたりしないかなって、心配なんだよ!!」 「馬鹿かテメーは!!オレ様が凡人共の前に体を晒すなんてそうそう……あ、でも、意外といいかもぉっ!!」 「ほらぁ。そうやって新しい興奮材料見つけ出すのやめてよね!!」 互いにするすると言葉を紡ぎ出す様子は、まるで息の合った漫才のようだ。 「大丈夫だって。テメーの言いたいことは分かってるぜ。つまりオレ様のことを独占したいってことだろ?最初からそう言えよ、回りくどい野郎だな!!このツルショタが!!脳みそもツルショタなのかよ!!」 「あのさぁ。ホントに分かってるの?さっき自分で体感したでしょ。男がどういう生き物かって」 眉間に皺を寄せて呆れ半分、イラつき半分といった雰囲気を纏う王馬の言葉に入間は戸惑うように目をキョロキョロとさせた後、恥ずかしげに微笑みかけた。今が夕方で、ここがひどくざわついた場所で本当に良かったと思う。そうでなければ自分の顔の赤さや、これから口にする言葉の恥ずかしさが、誰かに知られてしまっていたかもしれないから。そんなことを知っているのは王馬だけでいいのだ。 「本当に、大丈夫だから。だって見てほしいって思うのは王馬だけだもん」 一瞬目を丸くした王馬は、小さく頷いた後に空いた右手で入間の頬をつねった。 「いひゃいっ!!にゃにすんだよぉ!!」 「ムカついたから」 「はぁ?!」 王馬はバツが悪そうに頭をかく。 「それ、無自覚?わざと?」 「な、何が?」 ため息をついて今度は自分の頬をつねる。不可思議な行動に入間は怪訝な顔をするも、王馬の突拍子もない行動はいつものことなのだから深く考えないようにしようと思考を改めた。王馬の行動全てを理解しようとすれば神経がすり減るのは目に見えていて、そうなれば発明にまで手は回らないだろう。しかし、王馬は入間を睨みつけるように見つめながら言ったのだ。 「これは、今のバカップル御用達のセリフみたいなやつにときめいた自分への戒め」 「と、とき……」 「キミといるとどんどんダメになっていく気がする」 怒気を込めたような表情からふっと力が抜ける。幼い子供のようなあどけない彼に、それでいいよと言いたかった。戻れないくらいダメになって、自分に溺れてほしい。自分の命で、体で、苦しいくらいに満たされたまま生きてほしい。 「……ダメになれよ」 「ええー。ダメになったらかっこ悪くない?オレは悪の総統なんだよ?」 「かっこ悪くても、好きだよ」 「またそういうこと言う」 へへ、と照れくさそうに目を伏せた王馬がたまらなく愛おしいと思った。この男の心を片時も離したくない。不安になんかさせてたまるかと、何か決意のようなものが入間の内側にほとばしる。 「あ、ごめん。電話だ」 慌てて鞄から携帯を取り出し、随分とフランクな調子で話し始める。組織の部下だろうか。しかし入間は画面を見た瞬間、王馬の表情が強張ったのを見逃さなかった。 「うん。じゃあ何か適当に食べるから。え?行ったよ。嘘じゃないって。うん。じゃあ、気を付けてね」 電話を切った王馬は、親だったと笑った。王馬から両親の話を聞いたことは一度もない。王馬が家族と過ごしている姿が上手く思い描けずに、へぇと相槌を打った。自分も電話の一本くらい入れないと心配されているかもしれないと不安がよぎる。入間の両親はいわゆる過保護に分類される人々だ。 「なんか、急に出かけることになったからって。ご飯買って帰らないと」 「そうか」 「……まぁ、いつものことだし」 「え?」 「なんでもない。……あのさ、明日暇?」 「暇だけど」 「もし良かったら、明日泊まりに来ない?明後日の夜まで帰ってこないみたいだから」 あまりにも突然すぎる提案に入間は目を白黒させる。ずっと憧れていた、泊りがけのデート。それも恋人の自宅で。ずっと欲しかったものが一気に手に入ってしまい、まるで壮大なドッキリでも仕掛けられているようだ。王馬が嘘だよと言いださないかとひやひやしたが、彼はダメかなと目を伏せて返事を待っていた。両親は入間が件の番組で恋人を作ったことを承知してはいるものの、泊りがけでのデートなど許してくれるかは分からない。しかし、どうにかして言いくるめてしまえばいいと入間は決心した。王馬と付き合うということはきっと、少しずつずるくなっていくことと一緒なのだろう。 「い、行く」 上ずった声で答えると王馬はパッと顔を上げて笑った。紫色の瞳が宇宙の彼方のようにキラキラと光って、入間の視線を奪う。 「にしし。おうちデートだね。ゲームもDVDもいっぱいあるし、きっと退屈しないと思うよ」 「うん……」 「それに家だったら時間制限もないし、ね?」 カラオケでの行為を思い出し入間は王馬の肩を軽く殴った。大袈裟に痛がり、折れたかもと見え透いた嘘をつくのに腹が立ちもう一度殴る。 「へへ……きいたぜ、お前のパンチ。もうボクサーになったら?今から頑張ればプロになれるかもよ?」 「なるか!!」 「冗談だよぉ。入間ちゃんさぁ、どうせオレとイチャイチャしたくてカラオケに誘ったんでしょ。やらしー」 にやにやと意地の悪い笑みにうるさいと言いたいところだが、図星だったために入間は黙り込む。王馬は内緒話でもするように背伸びをして、声を落とした。 「明日は好きなだけ甘えていいからね」 ひっそりと入間の鼓膜を打つその言葉が、好きなだけ王馬に甘えられるという事実により現実味を持たせた。それでも、明日が随分遠く感じた。このままずっと一緒にいたいという衝動にその体を抱きしめると、余計にそれが強くなった。 「周りの人に見られちゃうよ?」 「……いいよ」 「ほら、そういうところだよ!!見られるのが好きだなんて入間ちゃんはホントに変態なんだねー。やっぱり露出狂の素質があるんだよ!!」 「そんなこと言ってねーだろ!!つーかそんなこと言い出すテメーの方が変態だろうが!!」 王馬はするりと入間の腕の中から抜けて、荷物を手渡してきた。スクールバッグを肩にかけ、その荷物をもらうとやはりずっしりと重かった。 「もう行かなきゃね。親御さんに心配かけちゃうもん。時間とかはまた連絡するから」 名残惜しさが募るものの渋々頷く。早く明日が来ればいいのにと切望しながら、入間はふと違和感に気がつく。いつもならば帰りがけにキスをしてくれるのに、王馬はもう帰るつもりらしい。 「お、王馬」 「ん?」 「キス、しねーのかよ」 勇気を振り絞って伝えた願望さえ、ざわめきの中に消えていく。うぅん、と声を上げ悩まし気な表情をする王馬を見下ろしながら唇を噛んだ。 「明日ね」 喉元を駆け上がってきた、嘘だろという言葉の後に間髪入れずに声を張り上げる。 「明日明日ってさてはテメー宿題を三十一日までやらねータイプだな?!オレ様の気が変わらない内にさっさとしやがれ!!」 「オレはちゃんと計画的にできる人だもん。ていうかさー、なんでもかんでもあげてたらワガママな犬になっちゃうでしょ?躾も計画性が大切だからね!!」 「だから犬じゃねーっつーの!!」 喧々とした入間の声をかわすように王馬はあの妙な笑い声を上げる。更に怒りをぶつけるため口を開こうとした時、王馬がそっと入間の唇に人差し指をあてがった。もう笑ってはいない。瞬きをする度に揺れるまつ毛が夕日を受けて輝くのがよく分かった。 「だって今したらきっと帰したくなくなっちゃうもん」 好きだ、と、ズルいが一緒になって心臓を締め付ける。そっと制服を掴んできた手を空いた手で触ると、やっぱり離れたくないと思ってしまった。 「それに、入間ちゃんの可愛いところ誰にも見せたくないし」 「ま、待って」 「今すぐに時間を止めてキスしたい」 「キミの全てが欲しいんだ……」 「おい」 「ああ、明日我慢できなくて襲っちゃうかも!!」 「さてはオメーふざけてんな?」 「あは、バレた?」 さすが天才だねと神経逆なでするような褒め言葉を吐き出して、小さく舌を出す。 「殺すぞ」 「何さ!!オレがせっかくサービスしてあげたのに!!まぁ嘘だけどね。っていうのが嘘なんだけど」 王馬が言ったことは本当だったのか、ただのリップサービスだったのかはきっと教えてくれないのだろう。しかし握った手が少しだけ震えていたことが、彼の本心を物語っているのだと思った。それでも、入間だってこのまま翻弄され続けるのは癪だ。王馬の方こそ嘘か本当か分からない言葉に踊らされればいい。王馬の手を強く引き、彼の耳元に顔を寄せた。 「明日は、本当に我慢しなくてもいいから」 王馬が言葉を発する前に手を離す。目を見開いて、嘘でしょと尋ねた声に期待する気持ちが滲んでいるような気がした。 「どうだろうな。じゃあ、明日楽しみにしてるから。ちゃんとオレ様の事楽しませろよ!!」 返事を待たず、振り向いて駅の構内へと駆けていく。我慢なんてしなくていい。自分のことを全て王馬のものにしてほしい。ベッドの上でならきっと、優しくしてあげるという言葉を怖がらずに受け止められる。早く明日になれと歌うように呟きながら入間は走り、後ろを振り向いて王馬の姿が見えなくなったところで立ち止まった。鞄の中で携帯が震えている。出ると母親の心配そうな声が聞こえ、やはり王馬の家に泊まることは隠しておいた方がいいと苦笑した。 ** 駆けていく入間の後姿を見送って王馬はゆっくりとため息をついた。心臓がバクバクと音を立てている。ふと、生涯で心臓が鳴る回数は決まっているらしいと部下に言われたことが蘇ってきた。つまりそれは、こうして入間にときめかされる度に寿命が縮まるということだ。それはなんだかロマンチックな気がするが、恐怖体験をしても寿命が縮まるとも思うとロマンチックどころではない。心臓を落ち着かせるように西口へと向かって歩く。明日のことを考えなくてはならない。 今日はほとんどできなかったために、入間と話がしたかった。聞きたいことは山ほどあるのだ。そして、幸いにも王馬の自宅はゲーム、DVD、漫画と娯楽には欠かさない。自宅デートの定番といえば映画鑑賞らしいが、入間とならゲームで対戦するのも楽しいだろう。ぼんやりと、家の近くに新しく氷菓店ができたことを思い出した。甘いものを好む入間に買って行けば喜ぶだろうかと思案する。パタパタと足早に歩き続け、ガード下のトンネルに差し掛かった。足音やすれ違うカップルたちの下世話な声が響く。 途端に入間のあの真っ白な太ももが脳裏をよぎる。見たい?と王馬を見上げたあのからかうような目つき。目が合った瞬間に、王馬は自分で自分のことが上手く制御できなくなった。こうして時間を置けば、ああいう恋人としての性らしい部分が自分にもあったのだと客観視することができる。しかし、震えた体と深くつむった目のことを思うとやはり罪悪感を抱かざるを得ない。それでも自分を受け入れようとしてくれる彼女の強さがありがたく、心強かった。 (入間ちゃんって、すごい) あんな風に自分自身でも知らなかった一面を引き出してくれること。見たいと、触りたいと、思わせてくれること。魔法にかかったように、自分の中にそういう気持ちが溢れ出す。そしてそんな気持ちで満たされていることが、幸福なのだった。 頭の中に我慢しなくていいからという声が響いて仕方ない。見てほしいと、したいよと言ったことを信じるならあれだってきっと嘘ではないのだろう。部下ではない女性に、それも性的な意味を含めて触るのは入間が初めてだ。上手くできるかな、と自分にしか聞こえないほどの声で呟く。 歩きながら頭の中でどういう手順か思い浮かべようとしても、靄がかかったように脳の中のビジョンが働かない。ただ入間とそういう、決して健全とは言えない関係に至ることを考えるとまた心臓が鳴りだす。トンネルを抜けると、空が白んでいた。今日という日は一瞬だったように思える。幸福な時間はすぐに過ぎるという言説は確かなような気がした。明日のことを思うと、やはり心臓の高鳴りはやまない。きっと、今夜も、明日も、明後日も、その先も。二人でいる限り心臓は高鳴り続ける。何故ならそれが愛しているということだから。 苦笑して、王馬は言った。 「オレ、入間ちゃんになら殺されてもいいや。こんなこと絶対言ってあげないけど!!」 溢れ出さんばかりの愛しさを胸に抱き、王馬は駆け出す。明日が、彼女が自分を待っているから。 |