八月のカオティック
ある夏祭りの夜、恋人である王馬が突然失踪した。
それから五年が経ち、王馬を待ち続けた入間が出した結論の話。


ベランダに出た途端、夏独特のむせかえるような空気が体を包んだ。入間は顔をしかめながらひんやりとした鉄柵に寄りかかり、タバコを咥える。甘いミルクティーのような香りが特徴のそれは彼の真似をして吸い始めて以来愛煙しているものだった。体に毒だとは知りつつもやめられないのは、入間がタバコを欲してやまない体になってしまったから。なんていうのは建前で、実際のところ彼のことを思い出せるからなのだった。例えば畳の匂いを嗅いだ時に、かつて通った祖父の家を思い出すように。甘い匂いが鼻腔をすり抜けた途端に、鮮烈なまでに彼を思い出すのだ。入間は手の中で弄んでいたライターでタバコに火をつけた。記憶を呼び覚ます、甘ったるい香りが空気中に離散していく。
腹立たしいほどの蒸し暑さの中唐突にキュゥンと何が飛ぶような鋭い音がして、燻る煙の向こう側、濃紺の空に大輪の花が咲いた。
入間の住むマンションから見える河川敷から、次々に花火が打ち上がっては火の粉を散らして消えていく。その美しさと、一瞬で消える儚さに目を奪われながら入間は息を吐いた。
「今年も、来ちまったなぁ」
ベランダの端に置いてあった灰皿を取り、灰を落としながら呟く。
五年前の八月。夏祭りの夜。彼――入間の恋人であった王馬小吉は入間を残して忽然と消えた。まるで、余韻だけを残して消滅する花火のように。


今でもはっきり思い出す。あの日、八月の十六日。マンションから見える河川敷は夜店と人がひしめき合う、普段の静けさが嘘のような非日常的な風景。空に鳴る花火は異国の明るい花みたいに綺麗で、周りのドブスとチャラついた男のカップルどもは幸せそうで。そして、アタシだけが別世界に連れてかれちゃったような孤独感。
夏祭りに行こうと言い出したのは王馬だった。正確にはアタシが行きたい素振りを見せたら、王馬の方から誘ってくれたんだけど。当時はこいつって妙に察しのいいところがあるよなって嬉しさ反面腹立たしさも抱えていた。アタシの心が見透かされているような気がしたから。
美しいものを見上げるしか能のない凡人どもで混み合った場所に行くのは、ガラじゃないって分かっていた。でもそれ以上に王馬といろんな景色を共有したかった。人ごみでなら、自然に手が繋げるかもって期待をしていた。浴衣を着たら、あの甘い声でかわいいねって言ってもらえるかもしれないと信じていた。
信じてしまった、あの嘘つきを。
そう。今思えば浮かれていたんだと思う。初めて恋人ができて、アタシのことをわかってくれて、見た目は決して好みじゃないけどアタシに釣り合うくらいの度量の男がそばにいるって事実に。

待ち合わせた時の第一声は「馬子にも衣装だね」だった。
白地に赤い花が散らされた浴衣、いつもより時間をかけた化粧、男は大体うなじが好きだろうからサービスしてアップにしてやった髪。どれを取っても超一級のド美人に向かって馬子にも衣装なんて言えるのは、きっとこの世であいつくらいしかいない。睨みつけたら、嘘だよ。かわいいよってへらへら笑い返して来て、そのあどけない笑顔にほだされてつい許してしまったことも覚えている。
そんな王馬の服装は普通のTシャツと地味なジーパンだった。そして夜にもかかわらず帽子を深くかぶっていて、追っ手をまけるからねなんて冗談も言っていた。そんなことまで記憶に残っているのは、人混みに紛れた瞬間にあっというまに見失ってしまったから。
王馬がアタシを置いていってしまうまでは心の底から幸せな時間で、きっと一生思い出に残るんだろうなって考えていたっけ。今では別の意味で思い出に残ってるけど。夏祭りは小さい頃以来で、高校生だっていうのに童心に返ったみたいに二人ではしゃぎまわった。王馬と一緒にいれば周りの喧騒は気の利いたBGMになったし、夜店の雑多な灯りの列だって美しいものを詰めこんだ万華鏡のように輝いていた。あいつは、そんな風に別世界を覗かせてくれるような人間だった。それはもしかしたら、あいつがアタシとは違う世界に住んでいたからなのかもしれないって今なら思える。
二人で買ったたこ焼きはたこが全然入ってなくて、ぼったくられたってケラケラ笑い合った。
夏に飲むラムネは妙に特別に思える不思議について話し合った。結局答えは出なかった。
いかつい風貌の(多分ヤのつく仕事だろうな!)男が作っていた焼きそばが美味しくて、王馬は本気で転職を勧めていた。
金魚すくいに何回も挑戦したのに結局すくえなかった。
慣れない下駄で足がもつれて上手く歩けずにはぐれそうになった時、振り向いたあいつが少しはにかんで手を差し出してくれた。重ねた自分の手が指先まで熱くて、どうしようもなく恥ずかしかったことだってはっきりとアタシの心の中に残っている。
欲しかったものが全部手に入ってしまって、馬鹿みたいに浮かれていたんだ。この世で信じられるのは自分だけで、他の誰も過信してはならないと誓っていたはずなのに。
あの時、予感めいたものは何もなかった。唐突にその厄災はアタシに降りかかってきてしまった。
打ち上げが始まって立ち止まる人々で道が混雑してきた頃のことだ。アタシは空を覆いつくす極彩色の花々に目を奪われながら、王馬の手をそっと握っていた。隣でこんなに綺麗なのにすぐに消えちゃうなんて残念だねと王馬がこぼす。写真ではきっと残せない、鮮やかな光景を目に焼き付けようと食い入るように見ていたその時、パッと手が離れた。水が流れていくように、するりとアタシの手の中から王馬の感触が消える。一瞬息を飲んで、慌てて隣を見たときにはもういなかった。逆の方向を探しても見当たらない、振り返ってもそこにはいない。携帯にかけてみても電源が入っていないようだった。アタシは有象無象をかき分けて王馬を探した。下駄の鼻緒が擦れて足が痛むのも忘れて、必死になって見つけようとした。その間にも花火は鳴り続け、人々の歓声と高らかな破裂音が打って変わって耳障りで。
結局、夏祭りが終わっても王馬は見つからなかった。頼みの綱の携帯もアタシの声に応えない。
道の端で立ちすくむアタシの目の前をカップルが、家族連れが、楽しそうに帰路についていく。その光景に腹立たしさを感じながらも、アタシは一人動けないでいた。
それまでに見えていた世界が途端に崩れ始めるのを感じていた。人々の声はうるさくて、灯りは目障りで、アタシはこの世に一人っきりになってしまったような孤独感さえ覚えていた。
マンションに戻っても出た時と変わらない部屋が待っているだけだった。王馬が訪れた形跡もない。
「こんなに綺麗なのにすぐ消えちゃうなんて残念だね」
それが、王馬が残した最後の言葉。
あれから五年。アタシは今でも、王馬のことを忘れられずにこの部屋で待ち続けていた。でも、それだってもうすぐ終わりを告げる。アタシの長い長い恋が燃え尽きる。美しいのに、跡形もなく消え失せる花火のように。

目の前では五年前と変わらぬ花火が咲き上がる。あの場所に戻れば、また王馬に会えるような気がして毎年一人で夏祭りに行っていたのだが今年は行かなかった。もう潮時なのだと彼女の脳細胞が告げているからだ。煙を吐いて、すっかり短くなったタバコを灰皿に押し付けた。もう一本吸おうと箱に手を伸ばすと空っぽなことに気が付く。
「……忘れろってことか」
部屋にもタバコは残っていないはずだ。買うつもりも毛頭ない。
最近はネットで物件を探している。ここを引っ越してしまえば、もうあの花火を見ることもない。王馬の痕跡が何一つない遠い場所へ行くことを入間は決意していたのだった。五年、それなりに長い時間を王馬への恋に費やしてきた。入間とて、探さなかったわけではない。王馬が消えた翌日に彼の自宅を訪ねた時にはもぬけの殻であり、まるで初めから存在していなかったとさえ錯覚するほどに一切の痕跡がなかった。それでも折れずに発明家として築いた人脈を使い、最原にも頼み込んで王馬を捜索してもらった。結局、手がかり一つ見つからなかった。
「信じた方が馬鹿だったんだろ。あんな嘘つきを、信じるんじゃなかった。本当に時間の無駄だったぜ」
そう呟き、再び上がった花火を見つめる。思い出す。覚えている。
かわいいよと言った時の甘やかな声も。少年を思わせる屈託のない笑みも。ラムネを飲み干す瞬間に見えた、白い喉元も。思いがけず男性的だった大きな手も。最後に残した言葉だって。
「……忘れられるわけ、ないだろうが」
残酷なまでに深く刻み込まれた彼の姿が克明に蘇る。それでも忘れなくてはならない。捨てられた人間がいつまでも思い出に縋り付いても惨めなだけだと入間は理解していた。頭では。心がそれを拒否しても、頭に従わなければならない。何故なら彼女は優秀だから。賢明だから。合理的だから。そういう人間であれば、こんな泥沼のような恋にはまり込むことだって二度とないと思っているから。
眉間に皺を寄せ、苦い気持ちで花火を見る。これが最後だと言い聞かせながら。

「じゃあ忘れないでよ」
後ろから飛んできたその声に、入間は目を見開く。鼓動の高鳴りと共にゆっくりと振り向くと、必死で探し続けていた男の姿がそこにあった。
「……王馬」
「ただいま。なんて、都合がよすぎるか」
紫色の髪は少し伸びていて、顔立ちは精悍になったものの背は依然として低いままだ。服装は白いTシャツに濃紺のジーパン、手には黒い帽子を持っている。まるであの日から帰ってきたような格好の彼に入間の心臓は乱されてしまっていた。
「な、んで……つーか、どうやって入ってきたんだよ」
「帰ってきたんだよ。もしかしてオレの特技忘れちゃった?未だにアナログなシリンダー錠なんて、このマンションのセキュリティーは甘すぎるよ。不審者が入ってきたらどうするの?」
「不審者はオメーだろうが!!それに、帰ってきたって。今更だろ!!何年経ったと思ってんだよ!!五年だぞ」
「うん。そうだね。今更だよねぇ」
王馬はベランダに降り、入間の元へと歩み寄ってくる。入間は柵にぐっと体を押し付けるようにしてのけぞった。
「な、なんだよ」
「そう。今更だよ。五年も経てば赤ちゃんだって元気に走り回る子供に育つし、大学生だって社会人になるし、仲睦まじい恋人同士は結婚したりするし、独り身の女の子だってまぁそろそろ恋人でも作ろうかなとか考えちゃうでしょ?」
「はぁ?!」
「なのにどうしてキミは、ずっとここに一人でいるのかな」
そう言って笑む王馬の慧眼に入間は唇を噛む。今更、それも突然乗り込んできたくせに謝るそぶりも見せず入間の心を見抜かんとする王馬は昔とは変わっていないのだった。
「ひ、一人じゃねーよ。彼氏くらいいるに決まってんだろ!!今出かけてるだけで同棲だってしてるし!!だからさっさと帰れっつーの!!」
会いたかったはずなのに、待ち焦がれていたはずなのに、口を次いで出るのは彼を拒絶するような言葉ばかりだ。あの日、彼がいなくなったしまった時の孤独感をもう二度と味わいたくない。裏切られるのも恐ろしい。今日会えたことを最後の奇跡として決別してしまった方が、きっといい人生が歩める。入間は頭の中でそう言い聞かせる。
「へー。同棲してるんだー。じゃあなんで男物の靴が一足もないの?どうして洗面所にキミの分の歯ブラシしかないのかな?食器も明らかに一人分しか揃ってないよね?おかしいなー」
「そ、それは」
「まさかとは思いますが、この「彼氏」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか?」
「あー!!うるせーな!!それより何勝手に部屋漁ってんだ!通報すんぞ!!」
王馬はそれをあしらいながら入間に近づいて彼女の強張った顔を見上げた。ずっと求めていた大きな瞳に見つめられ、入間はつい頬を緩めそうになる。
「本当は彼氏なんていないんでしょ?相変わらず嘘が下手だねぇ」
「……ああ、いねーよ。でもいなかったら何なんだよ?!わざわざ馬鹿にしに来たのか?ケッ。やっぱ凡人の考えることはくだらねーな!」
本心とは裏腹な言葉を突き付けてみても王馬は変わらず微笑んでいる。そしてその形のいい唇が開かれ、入間の核心をついた。
「……オレのこと、待っててくれたの?」
入間は息を呑み、瞳が潤むのを堪えるように何度も瞬きをする。否定も肯定もしないまま固まってしまった彼女に王馬は抱き着いた。柵に押し付けるようにもたれかかる入間の背に手が回される。その小さな体から発せられる体温や、眼下でしなやかに跳ねる髪の毛に入間の鼓動は速まってしまう。高鳴る音を王馬に聞かれやしないかと戸惑っていると、くぐもった声が聞こえた。
「違うの?」
入間はそれには答えず、ずっと聞きたかったことを口にする。あの日、王馬が消えた理由を。
「オレ様に質問する前に、テメーの話をしろよ」
「……オレの話」
「ああ。テメーがいなくなった日の話をな。なんで……なんでオレ様を捨てたんだよ」
王馬は入間から少し離れる。眉根を下げ、その瞳は迷子のように定まらなかったが入間に催促されてようやく彼女と目を合わせた。
「捨てたんじゃない」
「あ?」
「ああ、でも。似たようなものかな」
「煮え切らねーな。いい加減正直にオレ様に飽きて捨てたって白状しろよ」
「え?違うよ?」
「え?」
王馬は複雑そうな表情をして続きを語り始めた。
「……あの日、オレは追われてたんだよ。ほら、オレって悪の総統でしょ?だからそれなりに悪いこともしててさ。夏祭りの少し前にちょっとだけ、本当にちょっとだけなんだけど!!失敗しちゃって。その、現場に手がかりを残しちゃったんだよね。それをきっかけに追われることになって、逃げてる途中だったんだ」
「う、嘘だ。またそうやってオレ様をからかって笑うつもりだろ!」
「そりゃ嘘っぽく聞こえるかもしれないけど本当のことだよ。ていうかオレ言わなかったっけ。追手が来てもまけるような恰好してきたって」
「……あれ、本気だったのか?」
王馬は困ったような顔で笑って、たはーとため息をつく。その懐かしい言動に入間は今王馬が目の前にいることを再認識させられて泣きそうになるも、再び深く瞬きをして堪えるように努めた。
「そりゃ本気だったよ。で、人ごみの中に追手を見つけてさ。後で合流すればいっかと思ってとりあえず逃げようとしたんだ」
「な、なんで連絡くれなかったんだよ」
「……遠くから見た入間ちゃんがあんまり綺麗だったからさぁ」
「はぁ?」
王馬は相変わらず困ったような笑顔のまま、言葉を続けていく。
「本当に綺麗で、人ごみの中でもキラキラ輝いて見えて、あぁオレはあんなにかわいい人と付き合ってるんだなってドキドキしたんだよ。でも、急にそれが怖くなった。オレみたいな悪い奴と一緒にいて、人生めちゃくちゃになったらどうしようって。嫌な思いをするかもしれない、傷つけられるかもしれない、そうなったらオレは一生自分を許せなくなるって」
「王馬……」
「だからオレなんかと縁を切った方がいいだろうって考えたんだよね。連絡なんかしたら、そこからキミがオレと関係を持っていることがバレて捕まる可能性があったから電話もしなかったし。それに一回電話しちゃったら、きっとそれを手掛かりにキミはオレたちを見つけるはずだからね。……実際最原ちゃんにも居場所がバレそうになって焦ったし。さっすが元・超高校級の探偵だよねぇ。素晴らしいよ」
そうして語られる真実を入間は呆然と聞いていた。辻褄は合う。王馬の総統としての部分を深く探ろうとかしなかったものの、彼が危険なことをしているのはそれとなく理解していた。咎めなかったのは、王馬が楽しそうだったからだ。恐らくは多少の嘘を織り交ぜているのであろう組織の話を入間は話半分に聞いていたが、王馬はいつだってそれを楽し気に語った。咎めなかった。なんだってよかった。彼が選択したことならば。彼の人生が豊かになるのならば。そこに、自分が関わっているなんて思いもしなかったのだった。何度か発明品を作るように頼まれてはいたものの、その組織の活動が入間に及ぼすかもしれない影響なんて何一つ考えなかった。入間は王馬の言葉を、何かの物語のように聞いていた。予想もつかない、あの日の真実を。
「つまりさ。オレはキミから逃げたんだよねー。入間ちゃん風に言うと、捨てたってことになるけど」
入間は首を振る。逃げたのではない。捨てたのではない。それは、確かな愛ではないか。決して目には見えない、けれども入間がこうして安全に暮らす限り残り続ける愛。
「好きだから、大切だから、オレじゃなくて他の誰かと普通の幸せを掴んでほしいって思っちゃったの」
「……馬鹿かよ。テメーは」
「にしし。ひどいなぁ。でもね、走ってるときに、入間ちゃんが他の誰かと付き合ってもオレのこと忘れないでくれたらいいなぁって呪いをかけたんだ。そういうの信じてないけど……結構、本気で」
そう言った王馬は目を細めて勝ち誇るような笑みを見せた。
「呪い、かかっちゃったみたいだね」
王馬は柵の上に置いてあったタバコの空き箱を手に取る。
「これだって、オレが吸ってたものでしょ。自分のことが大好きで、それなりに健康に気を遣っていたキミがタバコを吸い続ける理由なんて一つしかないじゃん」
「……思い上がるなよ。銘柄がかぶるのなんてよくある話じゃねーか。それに吸ってんのは、その、あれだ。口寂しいっつーか」
「えー。じゃあキスしてあげようか?」
「馬鹿。死ね」
「あはは。本当ひどい」
軽快なやり取りに、入間もつい口角を上げる。それは懐かしくて、心地よい、五年前と変わらない会話。王馬は入間が微笑んだのを見て安堵したような優しい視線を送る。
「それにさっき言ってたじゃん。忘れられるわけないって」
「あれは」
「ね、オレのこと待っててくれたんでしょ?オレは質問に答えたんだから、入間ちゃんも答えてよ」
その視線を受けて、入間はしばらくの間黙り込んでいたが小さく頷いた。
「……待ってたよ。ずっと」
「そっか」
その答えに満足したように王馬も頷く。入間は期待していた。復縁しよう、一緒に行こう、なんでもいい。また彼と一緒にいられるならそれでいいと思ってしまった。信じるのは怖いけれど、信じたいと思う心の方がずっと強いのだ。しかし王馬が紡いだ言葉は期待に反するものだった。
「でも、それも今日で終わり」
「え?」
「もう忘れていいよ。オレのこと。今日はそれを言いに来たんだ。もしかしたら引っ越してるかもって思ってたんだけど。まぁ、それならそれでって感じだったし。……ずっと、ここに縛り付けちゃってごめん」
「何言ってんだ」
「オレなんか忘れろよ。それでさー、なんかもっといい奴と付き合いなよ。正直で、正しくて、勝手にいなくなったりしないような人とさぁ。別に男じゃなくてもいいし、女の子でもいいんだよ。入間ちゃんが選んだ人ならそれでいいから。だからさ」
王馬はひどく真剣な顔で入間を見つめた。そこには一切の嘘がない、ただ真実だけを告げる姿がある。入間はまた自分が孤独な世界に落とされてしまいそうな心地だった。だから?だからなんだ?その先を促すように王馬を見る。彼は真剣な表情のまま、こう言った。
「幸せになってね」
そんなものは、望んだ言葉じゃない。五年待ち続けた人間にそんな仕打ちをするなんて本当に残酷な男だ。確かに、それは愛だ。何物にも代えがたい純粋な王馬の本心だ。でもそこに入間は形容詞をつけ加えなければならなかった。『自分勝手な』愛と。
「そんでもって、バイバイ!五年越しになっちゃったけど、入間ちゃんといた時間はつまらなくなかったよ」
王馬はとびきりの笑顔を見せて、振り返る。入間は再度絶望的な孤独に突き落とされかける。堪えていた涙が零れ落ち、頬を伝った。しかし、彼女はそれで折れるような人間ではない。部屋まで上がった王馬のTシャツの裾を掴み、彼を引き留める。
「待て」
「何?」
王馬が振り返って、入間の方を向く。その瞳はもうこれで最後にしようと主張していた。
「行かせてたまるか!!」
「え、何、ちょっと……」
そのまま王馬に掴みかかり、押し倒す。不意打ちだったためか王馬はあっさりと床に倒され、肘をしたたかに打ったのか妙な呻き声を上げた。しかし入間はお構いなしに王馬の肩を強く掴む。
「ふざけんなよ!こっちは五年も待ってたんだ。探しても見つからなくて、何回も諦めようとして、忘れようとして、それでも忘れられなくて……。やっと会えたと思ったら幸せになれだ?!自分勝手なんだよテメーは!!」
「だ、だって」
「だってもクソもあるか!!」
入間に強く肩を掴まれ、王馬は顔を歪ませる。あたたかい涙が王馬の頬に落ちていった。入間はその長い睫毛を涙で濡らし、嗚咽を漏らしながら王馬に本心を告げる。
「今更帰ってきて、五年も無駄にしちまったじゃねーか。何人の男に告白されたと思ってんだ?中には女だっていた。金持ちで、顔がよくて、それなりに頭もいい奴らだったけど全員振ったんだよ。どんなにいい奴だって、テメーに敵うような人間はいなかった」
「い、入間ちゃん」
「今更だろ。忘れろとか、幸せになれとか、それはあの時に言うべき言葉だろ!!自分に酔ってんじゃねーぞ!!人の人生を何だと思ってんだ!!」
「だから、それは謝るって」
「謝ったって戻らねーんだよ!!」
王馬は、入間のその姿と言葉におののきながらもどうにか入間を離そうと抵抗する。しかし、入間はその抵抗を許さないかのようにぐっと体重をかけた。
「オレ様がテメーのことを忘れてないなんて、よく言えたな。自惚れんな。そんなに自分に自信があるのか?」
「は、離してよ」
「離すか!!このクソ野郎!!……テメーがオレ様のことを忘れられなかったんだろうが!!」
「…それは」
「だからここに来たんだろ?」
入間は崩れるようにして王馬に抱き着く。彼の胸元から伝わってくる鼓動が、速くなるのが分かった。体温も、鼓動も、呼吸も、この細い体も全て懐かしい。二度と離したくない。未来永劫、自分だけのものにしてしまいたいと入間は思ってしまうのだった。
「……そう、だね」
王馬が小さくそう言うのが聞こえる。それは、張り詰めた糸が切れてしまったかのような穏やかな声だった。
「オレも忘れられなかったよ。この五年間、キミのことを忘れた日は一日もなかった。来る日も来る日もどうしてるかなって考えてた」
「うん」
「ごめん。ごめんね。本当は、他の誰にだってキミを譲りたくない。オレのことを選んでほしい。今更だけど、都合がいいかもしれないけど、また一緒に生きたい。でも……やっぱりダメだよ。だってオレといたら……」
「本当今更だな」
「はは……。そう、だよね」
「でも、アタシの気持ちを勝手に決めんな」
「え?」
入間は王馬を強く抱きしめる。もう二度と離さないと告げるように。王馬の鼓動が聞こえる。自分自身の鼓動も、分かってしまう。二人の鼓動が混ざり合い、一つの生き物になってしまったかのような気がした。一つになりかたった。同じ人生を歩み、同じ景色を見たかった。
だから入間は決意する。もしかしたら、ずっと決めていたのかもしれない。彼に自分の人生を預けることを。
「もう一回、やり直そう。怖いけど、傷つくかもしれないけど。王馬と一緒ならどこまでも行く。五年もほっぽっといて、その上忘れんなって呪いかけた責任くらい取れよ」
「入間ちゃん」
「つーか、総統なら守れよな!!それもできねーような弱い奴なのかよテメーは!!」
「それは、まぁ、頑張るけど」
「だーっ!!煮え切らねーな!!」
そう言うと、王馬は苦笑した。その声を聞いて入間も笑う。未来がかすかに光ったような気がした。
「だから、ちゃんと言って。好きだって」
「……好きだよ。大好き。入間ちゃんは?」
「……やや好き」
「ややって何さ」
「テメーがうだうだやってるから好き度が下がった」
「ええ〜。パラメーターがあるの?やだなぁ。ゲームじゃないんだから」
「でも」
「ん?」
「お前とじゃなきゃ、幸せになれない」
入間は体を起こして、王馬の唇を撫でる。その動作に王馬はそっと瞳を閉じた。
彼の唇に自分の唇を重ねる。五年の間に築き上げた思いを全て注ぎ込むかのような、熱烈なキスを彼に贈った。ずっとずっと探していた。求めていた。諦められなかった。それを、ようやく手に入れたのだ。もしまた裏切られるとしても、もう一度彼を信じたい。そんな気持ちで入間はキスをする。何度も、何度も。
ようやく唇を離したとき、二人は息も絶え絶えだった。必死に酸素を取り込むように深呼吸をする。王馬はとろんとした瞳で入間を見つめながら言った。
「タバコくさい」
「あぁ?」
「もうタバコやめてよね。体にも悪いし」
「……分かった」
「でも代わりに、口寂しい時にはキスしてあげる」
「ん」
挑発的なその言葉に入間の体が疼き始める。その先に行きたい。もっと王馬を感じたいという思いが沸き上がった瞬間、王馬が入間を突き飛ばすようにして起き上がった。
「いってぇ!!」
「やっべー!いちゃついてる場合じゃなかった!!」
「な、なんだよぉ!!」
「というわけで入間ちゃん、貴重品持って。通帳、印鑑、お財布、保険証!早く!!」
「だからなんなんだよ!!」
「逃げるんだよ。オレ、今日も絶賛逃走中だもん。いつ警察が来るかわかんないし!」
「はぁぁ?!」
王馬に催促され、慌てて起き上がった入間は指示されるままに貴重品をまとめ始める。王道ではない。この後ベッドになだれこんで、なんとなくいい朝を迎えてドラマよろしく終わるはずの一夜がとんだ展開になってしまった。入間はやはり煮え切らない気持ちで、しかし同時に好奇心が首をもたげるもの感じながら次々に鞄に荷物を放り込んでいく。
「逃走中って何したんだよ」
「ほら、最近ニュースでやってるでしょ?違法なオークションに出品された盗品を盗んで持ち主に返す奴らがいる。って。あれだって、オレたちがやってることなんだよね」
「あーそうかよ」
予想外のことばかり起こりすぎて、入間はもはや驚くことさえ放棄してしまっていた。簡単に貴重品をまとめた入間は王馬と共に外へと向かう。もしかしたらこのマンションにはもう帰ってこられないかもしれない。そうなったら、キーボあたりに頼んでどうにかしてもらおうと心の中で考えた。エレベーターに乗り、下へと降りる。その閉ざされた空間の中で、王馬が呟いた。
「オレと一緒ならどこまでも行くって言った責任、取ってよね」
先ほどの入間の言葉の意趣返しのような言葉に入間は舌打ちをして答えた。
「当たり前だろ。オレ様はテメーと違って、正直だからな」

一階まで降り、エントランスを抜けた時白い車がマンションの前に止まった。怯んだ入間に王馬が首を振る。窓が開き、仮面をつけた茶髪の男が顔を出した。どうやら王馬の部下らしい。
「あー!!いたいた、総統。もうあっち包囲網敷かれてますよ」
「マジかー。分かった。一回分散しよう。……あ、お前らが囮になればいいんじゃない?そのまま包囲網ぶっちぎっちゃってよ」
王馬の提案に中に乗っている部下たちが口々に文句を言い始める。
「出たよ無茶ぶり」
「姐さん聞きました?敵陣に飛び込めって馬鹿じゃないすか?」
「浮かれてるんだって。この馬鹿」
「馬鹿だから仕方ないですよ」
「浮かれてないよ!!あと馬鹿じゃない!!」
運転席に座っていた、金髪の女性が気だるげに答える。
「いいわ。やってあげる」
「やった!!」
「その代わり、ちゃんと逃げ切ってよね。捕まったりしたら総統の口座から全額引き出して逃走するから」
「なにその脅し文句。怖いよ!!大丈夫だって!!」
女性は軽く手を上げ、入間を見た。
「入間さん」
「な、なんだよ」
「その馬鹿のこと頼んだわよ」
半ば呆れたようにそう言った彼女は、他の部下たちに声をかける。
「シートベルト締めなさい。いいわね?……じゃ、後で合流しましょ」
そう言ってUターンをして来た方角へと猛スピードで走っていく。遠くから、サイレンが鳴り響く音が聞こえ始めた。
「……いいのか?」
「大丈夫。あいつ、昔豆腐屋と競って勝ったくらいのドライビングテクニックの持ち主だから」
「はぁ?」
「まぁいいや。オレたちも行こう」
王馬がそう言った時、花火が上がった。もう終わりに近い、それまで以上に大きな花が空を照らしていた。それを見て、王馬は河川敷を指さす。
「あっちに行こう」
「えっ」
「人ごみの中に入ればそう簡単に見つからないし」
「そうかもしれねーけど」
戸惑う入間に王馬は手を差し出す。五年前と同じように少しはにかんで。
「五年前の続き、しようよ」
「……仕方ねーな!!」
入間は自分の手を重ね、力強く握った。もう二度と離さないように、強く、強く。
喧騒が心地いいBGMに代わる。遠くに見える灯りが美しい世界へと誘うように光っている。ほら、王馬はいつだって別世界に連れて行ってくれるんだ。そう思いながら二人はもう一度、あの夏祭りへと足を踏み出した。今度は花火のように消えない、確かな愛を抱いて。