ルームナンバー303
悲恋
希望ヶ峰学園を卒業して数年後
酔っ払った入間と、あることを決意している王馬の話


PM11時。繁華街。ふらふらとした足取りで、でもオレの手をしっかりと握って入間ちゃんが先を行く。飲み足りないの?と聞けば言葉を濁して笑う。大通りを抜け、バーが立ち並ぶ路地を通り、辿り着いたのはホテル街。いくら酔っているとはいえお遊びがすぎるんじゃないのとオレは苦言を呈する。
「ちょっと入間ちゃん酔いすぎ。もう帰ろうよぉ。送ってくから」
「やだぁ、もう歩けない」
「嘘。今普通に歩いてたじゃん。ね、帰ろ。タクシー呼ぶからさぁ」
その言葉を無視して入間ちゃんは一番近くにあった、派手なピンク色の壁が目立つ安っぽいホテルへとオレを連れて入っていく。たとえ酔っていても普段は決してこんなことをしないのに。
「具合悪い?」
不安げなオレの顔を見て首を振り、躊躇いを含んだ口調で答えた。
「おもいでづくり」
そのやけにふわふわとした言葉を頭の中で反芻する間に、彼女は手早く空室のパネルを押す。金曜日の夜だからかその一室以外は埋まっていて、なんというか世間は浮かれてるよなぁとオレは考えたりしてしまった。
「ちょっと」
「いいだろ。金ならオレ様が出すからよぉ」
「わぁ。なんかいかがわしいセリフ
「いいから行くぞ」
エレベーターを呼び、無言で乗り込む。緊張感からかその稼働音が妙にうるさく聞こえた。彼女の意図を読み取ろうと顔を見上げたら、なんだか妙に強張っていて何も聞けなかった。そんな顔をして来る場所じゃないだろう、ここは。
部屋を開けると薄暗い照明に大きなベッドが照らされていた。普通のホテルとあまり変わらない内装だけれど、サイドテーブルにはピンク色のゴムが2つ。浴室を開ければカラフルな照明がつくギミックがついていて、そういう場所なんだと実感する。
「こんな怪しいところで作る思い出なんてあるのー?入間ちゃんは不良だなぁ」
なんてわざとらしく軽口を叩いていたらいきなり突き飛ばされて、抵抗する間も無くベッドに押し倒されてしまった。やけに切羽詰まった表情が目の前にある。マスカラを纏った長い睫毛、悩まし気に細められた眼、赤いグロスが光る唇。見慣れたはずのその顔がいやに扇情的でオレは思わず瞳を閉じた。
「お酒くさいよ。オレが言えたことじゃないけど」
「…王馬」
一呼吸おいて、唇に柔らかい感触が落とされた。鼻孔を酒気が抜けていく。何度も唇を押し付けられ、遠慮がちに舌を絡められて、つたない動きで口内を舐められる。ああ、きっと初めてなんだろうなと考えてしまう。初めてなんだろう、こんな場所に来るのも、男を押し倒すのも、キスをするのも。酔っ払っているとはいえ、それを全部オレにくれるなんてキミは本当に馬鹿な人だと𠮟りつけたかった。けれども、目をつむったまま、無抵抗なままそれを受け入れて、キミの気が済むまで好きにさせてあげようと思った。唇が離され、目を開けると入間ちゃんが泣きそうな顔で浅い呼吸を繰り返していた。
「……気は済んだ?」
「うるさい」
「どいて」
「嫌だ」
震える声でそう言う入間ちゃんの腰に手を這わせる。唇を真一文字に結んで期待と不安が混じったような表情をしている彼女を見つめて笑った。
「じゃあいっそ抱きしめてみる?」
彼女の背中に手を回してぐっと力を込めて引き寄せる。あっ、という困惑の声を漏らした彼女の体がオレに密着してその柔らかさに驚かされた。何年も一緒にいたのに初めて知った感覚。そしてもう、二度と知ることのない感覚。いっそめいっぱい優しくしてあげようとオレは彼女の背中を撫でる。
「入間ちゃんあったかいね」
「……うるさい」
耳元で聞こえる喧々とした声にオレはため息をつく。入間ちゃんの早い鼓動が伝わってきて、多分オレの心音も同じくらいうるさくキミに響いているのだと気が付いた。嘘がつけないこの体はとても不便で、今だけはキー坊が羨ましいと思ってしまった。
「――て」
「え?」
「抱いて」
「……抱いてるけど」
「そういう意味じゃねー」
オレは背中に回していた手を解き、入間ちゃんを無理やり退かせる。既設の冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出した。
「酔いすぎ。オレそういう冗談は好きじゃないんだよね」
「冗談じゃ――」
何も聞きたくなくて冷たいペットボトルを彼女の頬に当てるとぎゅっと目をつむって黙り込んでしまった。そう、それでいい。何も言わないでくれ。全部冗談ってことにしてしまいたいんだ。
「シャワー浴びてくる。あ、覗いちゃだめだよ?キミはそれ飲んで頭冷やしなさい」
てきとうなことを言って浴室に入ると、さっき言われた「思い出作り」という言葉が蘇ってきた。
「……気づいてるのかな。妙に勘がいいところあるし」
そう、オレは今日で入間ちゃんとさよならをする。一時的なものではなくてもう二度と会わないと決心をした。希望ヶ峰学園で出会ってから4年。つかず離れずの関係を築いていたけれど、それももう今日で終わりだ。彼女のことが好きだと気が付いたのは学園を卒業する少し前で、きっと告白をすれば応えてくれたのだろうけど、しなかった。できなかった。恋人になってしまったらもう戻れなくなるんだろうと思っていたから。オレはそれなりに悪い人で、彼女は世界がその才能を渇望するような発明家で、オレと関係を持ってしまえば嫌でも警察から追われることになる。幸せにしたいと考えていた時期もあったけれど、特定の誰かとずっと一緒にいる未来は思い描けなかった。生憎一時的な、いわゆる遊びの関係で済ませるような器用さも持ち合わせていないから、好きだという気持ちをひた隠しにしていた。仲のいいお友達でいましょうという心づもりでいたのに、最近になって彼女はオレにはっきりと好意を向けるようになってきた。もしかしたら昔からそうだったのかもしれない。ただ、気づこうとしなかっただけで。
だからオレは逃げることにした。好意から、責任から、人間関係から、入間美兎という愛する人から。 最低だ、なんて情けない男だと百田ちゃんあたりは言うだろうか。情けなくてもいいさ。頼むから、勝手に幸せになってくれ。でも、オレのことは決して忘れないで。なんて都合のいい事ばかり考えてしまう。
熱いシャワーを浴びながらぼんやりと考える。そういえば、オレたちは一度も「未来」の話をしたことがなかったなぁって。話すのはいつも、最近見た映画の話とか好きな食べ物のこととか、思い出話とか、そんな他愛もない事だった。そんなことが楽しかったんだ。
ついでに歯磨きも済ませて浴室から出ると、入間ちゃんはベッドに腰かけてうなだれていた。今までにないくらいの悲壮感を纏っている彼女はなんだか漫画から出てきたみたいで、オレは思わず笑ってしまった。
「大丈夫?」
小さく頷く入間ちゃんは子供のようで、オレは頭を撫でながら言う。
「顔洗って、歯磨いてもう寝ちゃおうよ。眠いでしょ?」
その言葉を受けて彼女は洗面所へと向かい、オレは備え付けの浴衣に着替えてベッドに腰かける。入間ちゃんとこんな場所に来られるなんて、まぁ、夢のようではあるのだけれど手を出すつもりなんて毛頭ないのだから。それでも決意が揺らいでくるから、必死に他のことを考えながら彼女が来るのを待った。
着替えを済ませた入間ちゃんが電気を消し、二人でベッドに潜り込めばその近さとか体温がさっきよりも明確にオレの心を刺激するから慌てて背を向けた。
「変なことしないでよね」
「……王馬」
「ん?」
入間ちゃんがオレの名を呼んで、くっついてきた。柔らかい胸が背中に当たって、それから逃げようとすると彼女の細い腕に包まれた。首筋に吐息がかかり、その艶めかしさに声を漏らしそうになる。
「オレ様を抱けよ」
「えぇー。またそれー?それつまんないからもう言わないでよ」
「冗談でこんなこと言うわけねーだろ」
そう言う入間ちゃんの声は今にも泣き出しそうな真剣さがあって、そんな強い思いでオレを好きでいてくれたのかと思うと正直嬉しくなってしまう。でもオレは最低だから、卑怯だから、それには応えてあげられない。
「そういうことは、好きな人としなきゃだめでしょ?」
「……だから」
俺と一緒にいる内に少しずつ器用になっていたキミならきっと分かってくれると思って、オレは言葉を放つ。
「これから、好きになる人としなきゃだめだよ」
「これから……」
「そう。これから。キミが歩む輝かしい未来のどこかで出会う誰かのために取っておかなきゃ」
「王馬」
「……わかって」
数秒の沈黙の後に君が小さな声でうん、と言うのが聞こえた。
「でも、今はこのままでいさせて」
「いいよ」
オレを抱きしめる力が少しだけ強くなり、オレはその腕をそっと撫でる。初めてした未来の話は、あっけなくて、オレが知ることはきっとない、遠い遠い世界のことだった。
「テメーの身長は伸びなかったな」
「はは。そうだね」
「オレ様は、自分より背が高い奴の方が好きなんだよ」
「へぇ。じゃあオレじゃダメだね」
「ああ。テメーみてーなショタがオレ様に釣り合うわけねーだろ」
「言わせてもらうけど、オレだってキミみたいな傲慢な人はタイプじゃないから」
「は?!誰が傲慢だよ」
「本当昔から変わらないね」
「そっちこそ」
「ずっとオレみたいな奴に付き合ってくれる、変わり者だよ。キミはさ」
「はぁ?付き合ってやってたわけじゃねーから。むしろテメーがオレ様について回ってたんだろうが。このストーカー野郎」
「うん。まあ、そういうことにしておいてあげよう。……キミみたいな友達がいて、オレは幸せ者だよ」「ケッ。当たり前だろ。オレ様といて不幸なわけねーからな」
お互いに嘘をつきあって、何もかもなかったことにしてしまう。オレの嘘に付き合ってくれてありがとう。嘘が下手だったはずなのに、本当に器用になったんだね。キミの表情は見えないけれど、やっぱり泣きそうな顔をしているんだろうか。そこからはずっと、つらつらと思い出話をして、いつも通りの二人になって、いつの間にか君の声が消えて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。腕の力が緩んで、オレは起こさないようにそっと仰向けに寝かせてあげる。そういえば寝顔を見たのも初めてだ。オレもどっと疲れが来てしまって、彼女に背を向けてそっと目を閉じた。もし夢で逢えたなら、もっと勇気のあるオレでありますようにと願った。

はた、と目を開けた時にはまだ外は暗くて時刻は4時を過ぎたところだった。未だ目覚める気配のない入間ちゃんを見てそっとため息をつき出ていく準備をする。音を立てないように着替えを済ませて、サイドテーブルにお金を置いた。最後に一目、と思って寝顔を覗き込む。柔らかな頬にキスを落として、オレは微笑んだ。
「入間ちゃん。大好きだったよ。幸せになってね」
かつて、永遠とは何かなんて哲学じみた話をしたことがある。オレは「いつか離れても、死ぬまで忘れないこと」だと言った。今でもそれは変わっていない。あの時入間ちゃんはオレとは全然違うことを言っていて、やっぱり今でも変わっていないんだろう。その、キミが望む永遠を叶えてあげられる人に出会えることを祈ってるよ。ずっと、ずっと。
ドアを閉めるとルームナンバーが目に入った。思い出作りなんてキミは言っていたけど、303と書かれたその部屋での夜を、オレはずっと忘れられないんだろう。キミもどうかそうであってほしい。そうして、オレのことを忘れないまま、幸せになって。

**
薄ぼんやりとした意識の中で王馬がベッドから出ていくのを感知した。眠る前に話したことを思い出して、泣きそうになるのを必死でこらえる。
予感があった。今日で王馬と会えなくなるという、予感が。だからそれに従って、あいつが欲しくて、ホテルにまで連れ込んだのに結局何もできなかった。しなかった。大事なところで勇気が出ないのは昔から変わらなくて、自分のことが嫌いになりそうになる。いつか離れてしまうというのは理解していた。特定の恋人みたいな、煩わしい足枷なんて作らずに世界中をき乱すのがあいつの幸せなんだろうと思っていたから。それでも、一瞬でもいいから、遊びでもいいからアタシと付き合ってほしいと言えばよかったと今更になって後悔をする。
昔のアタシだったらすがりついて、行かないでなんて泣くことができたのだろう。でも随分と大人になってしまった。器用になるということはいろんなものを見て見ぬふりをすることなんだと思う。頭の中でいろんなことを考えていると、王馬が近づいてくるのがわかった。頬に優しいキスをされて、カッと胸が熱くなる。
「入間ちゃん。大好きだったよ。幸せになってね」
その言葉がアタシの中で反響する。ずっと欲しかったのに、ずっと待っていたのに、別れの言葉になるなんて人生はあまりにも残酷だ。扉が閉まる音を聞いてアタシはゆっくりと起き上がった。王馬が眠っていた場所に触れると、まだぬくもりがあって、ちゃんとそこにいたんだなという事実がアタシの胸を締め付けてくる。冷蔵庫から水を取り出して一気に喉に流し込む。冷たい感覚が胃の中に入ってきて、もう王馬に会えないのだろうという現実も鮮明になってきた。
「アタシは王馬と幸せになりたかったよ」
もういないその人を思って、そんなことを言うのはどれだけ愚かだろうか。でも王馬はアタシの幸せをかなえてくれないんだろう。アタシが本当に欲しいのは、ずっと一緒にいられる人なのだから。
かつて、永遠とは何かという話をしたことがある。アタシが「ずっと一緒にいること」だと答えると、王馬は驚いたような顔をしてまったく理解できないような答えを返してきた。アタシたちはずっと一緒にいたけど、いつだってみ合ったことはなかった。好きな映画も、好きな食べ物も、同じ学校で過ごしたはずなのに覚えてることだって全然違って、ああでもそういうところが楽しかったんだなって今なら分かる。
「……これからアタシは別の誰かを好きになって、あんたのことなんか忘れてやる」
言い聞かせるようにそう呟いてみるけれど、多分そんなことはきっとできない。初めて好きになって、ずっと一緒にいて、無理やりにだけどキスもした。アタシの中に巣食う鮮明な、王馬小吉という衝撃。悔しいけれど、あんたが望む永遠をアタシは与えてあげられることになりそうだから、どうかあんたもアタシのことを忘れないで。そうしてどうか、幸せに生きて。

もうすぐ朝が来る。望んでいないけれど、行かなくてはいけない明日が。