愚か者たちの

育成計画軸
酔っ払いが嫌いな入間の元に、酔っ払った王馬が来る話

入間美兎にはこの世の中で嫌いなものが3つあった。ゆとり、運動、そして酔っ払い。彼女は酒を飲んで理性をなくす人間が嫌いだった。彼女曰く、自分以外の全ての人間は愚か者だが、その最たるものが酔っ払いなのだという。わざわざ自分自身を制御できない状態にしてしまう精神は愚か者のそれだと内心思っていた。
だからこそ王馬小吉という人間を尊敬していた。どんな状況であっても、全ての意識を自分の支配下に置く彼の頭脳が、理性が愛しかった。嘘をつき続けてもなお精神を侵されず、その嘘さえも巧みに操って場を支配する彼は彼女にとって生きる神話のような存在であった。王馬も嗜む程度に酒を飲む人間だったし、それに付き合ったこともあったが彼は1度も記憶を飛ばしたことなどなかった。
神話のような彼に恋をして何年も経つ。罰を恐れた者が神に触れるのをためらうように、入間も彼の心を暴こうとはしなかった。
しかしその王馬神話も今日をもって崩されることとなる。始まりは、深夜に鳴ったインターホンだった。

**
12時を回ろうかという夜更け、インターホンが鳴り玄関を開けると最原と抱きかかえられるようにして立っている王馬がいた。最原は驚いたような顔を見せて入間に尋ねる。
「あれっ。ここ入間さんの家なの?」
「ダサい原じゃねーか。どうしたんだよ」
「いや……王馬くんが酔っ払っちゃってさ。家どこって聞いたらここの住所を言ってたから、てっきり王馬くんの家かと」
「あ?そいつ酔ってんのかよ。帰れ帰れ。オレ様は酔っ払いの相手してる暇ねーんだよ」
嫌悪感をき出しにする入間に最原は困ったように謝罪をして、ぐったりとしている王馬を抱えて立ち去ろうとした。バツが悪そうな表情でわりーなと言う入間に最原は謝罪を重ね、歩き出そうとした時王馬が聞こえるか聞こえないかの大きさの声を漏らした。最原が耳を近づけ、具合悪いの?と尋ねたが見当違いの返答が入間の耳に飛び込んできた。
「やだ……」
「え?」
「かえんない」
「いや、入間さんに迷惑だから」
再び謝罪をして王馬を連れ帰ろうとする最原の腕の中で、王馬は手足をばたつかせながら子供のような声を上げる。その姿はおもちゃ売り場でてこでも動かんとして暴れる幼児を彷彿とさせた。
「やだやだやだみうちゃんち泊まる」
「ど、どうしたの?」
「どうもこうもみうちゃんちに泊まるって言ってんのー!さいはらちゃんは帰って!」
どこにそんな力があったのかふらつく体で最原を突き飛ばし、入間の家へ足を踏み入れた。入間は嫌悪感を出しながらもその勢いに押されるようにして一歩引きさがる。王馬は素早く扉を閉めて鍵をかけ、その向こうにいる最原に向かって叫んだ。
「はい、さよーならー!ばいばーい!」
最原は控えめに扉を叩きながら文句と謝罪を繰り返していたが、1分もしないうちにそれをやめ、じゃあ僕帰るからね。本当に帰るからねと言い残して立ち去ってしまった。扉越しにかすかに聞こえる足音が遠ざかっていき、それがはったりではないことに入間は肩を落とす。酒の匂いが充満して思わず顔をしかめた。深く息を吐き玄関にへたり込んでしまった王馬を見下ろしながら、入間はとげとげしい声を出す。
「帰れ。テメーみてーな脳ナシはオレ様に会う権利なんかねーんだよ。10秒以内に出てけ。でなきゃ捨てるぞ」
「なんでー」
「何へらへらしてんだ。立てよ。それとも立たせてやろうか?あ、言っとくけどオレ様は勃起不全改善のサービスはできねーからな!」
怒ってはいるものの冗談交じりに王馬に声をかける入間を見上げて王馬は微笑む。そして、自分を立ち上がらせようと屈んだ入間に飛びつく。太もものあたりにしがみつかれた入間はそのままバランスを崩して床に倒れ込み、肘を強打して大声を上げると王馬はケラケラと笑った。王馬は入間の上に乗り、両手を彼女の顔の横に置いて顔を近づけた。入間は顔をそむけ、視線だけを王馬に向ける。本来ならば嬉しいはずの状況は酒というアイテムによって最悪の状態になってしまっていた。
「う……酒くさい。冗談じゃねーぞ。サカってんなら外で犬とでもヤってろ!」
「やだー。生類憐みの令で殺されちゃうー」
「ケッ勝手に殺されてろ。このファッキン短小野郎」
「えへ。みうちゃんはかわいいなー」
王馬は子供のような笑みを浮かべうっとりとした口調で入間に愛を囁く。入間の心臓は意志と反して高鳴り始めていた。むしろ、こんな状況でさえも高鳴ってしまう自分の心臓をどうにかして止めたいと思っていた。
「酔っ払いが。そんな嘘に騙されねーからな。テメーが喋る度にオレ様の黄金の脳細胞が死滅してく気がするぜ」
「うん。嘘だよー」
大きく舌打ちをして王馬を退けようと腰の辺りを掴もうとすると王馬がその手を払いのけた。
「ほんとはねー、世界で一番かわいいって思ってる」
「は?だから嘘なんだろ」
「んー。嘘だよー。ほんとは宇宙一かわいいよー」
舌足らずな口調でそう言った王馬に入間はすっかり呆れていた。たった数分のやり取りで疲れ切ってしまった彼女は、もう帰らせることを諦めて彼を寝かしつけることへと思考を切り替える。
「……わかったよ。とりあえず寝ろ。ベッド貸してやるから」
「みうちゃんも一緒じゃなきゃやだー」
「はいはい、みうちゃんも一緒に寝ますからねー。いっそテメーは永遠の眠りにつけクソが
ほとんど床に倒れ込むようにして入間の体から離れた王馬の手を掴み入間は寝室へと向かう。おぼつかない足取りで廊下を歩きながらみうちゃんみうちゃんと名前を呼ぶのを、入間は複雑な気持ちで聞いていた。
寝室へ入った途端、きゃはー!という声を上げて王馬がベッドに飛び込んだ。柔らかな羽毛布団が彼の体重を受けて沈む。
「みうちゃんの匂いがする」
「オレ様は酒の匂いしか感じねーけどな」
布団に顔を埋めて足をバタつかせていた王馬だったが、入間が水を持ってキッチンから戻ってくると小さな寝息を立てていた。入間は王馬の尻ポケットから財布と携帯を出しサイドテーブルに置く。その瞬間携帯のボタンに手が触れてしまったのか画面が明るくなった。
「……バカ野郎が」
ロック画面の画像は、かつて王馬と共に撮った写真だった。入間はその画面を眺めながら先ほどの王馬の声を思い出す。
「なんだよ。みうちゃんって。なんでそんな風に呼ぶんだよ。こんな時ばっかり」
何年も友人という関係から変化がなかった2人はお互いに苗字で呼び合っていた。たとえ冗談でも王馬が自分の名前を呼ぶことなど1度もなかった。ずっとそう呼ばれたいと思っていたはずなのに酔っ払いという余計なものが付随された彼の言葉は、普段の彼の言葉よりもずっと信じがたかった。
「バカ。嫌い。テメーなんて嫌いだ」
そう呟いた途端に、王馬が飛び起きた。そして入間の方を向き、眠そうな目をこすりながら布団を叩く。ここに来いと言う意味なのだろうと察した入間はしぶしぶベッドへと上がり王馬と向かい合うように座った。いつもならばその距離の近さについ顔を赤らめてしまうのだが、今日は部屋に漂う酒のにおいがそんな乙女心を遮断していた。
「一緒に寝て」
「やだよ」
「なんで?酔っ払ってるから?」
「分かってんじゃねーか。なぁ、オレ様は酔っ払いが嫌いだって話したよな?今日ばかりは忘れてたなんて言い訳は通用しねーからな」
王馬は入間に抱き着いて胸のあたりに顔を埋める。入間の着ているふわふわとしたルームウェアが彼の鼻先をくすぐるらしく、顔を離してくすぐったいなぁと小さく笑った。入間は匂いがつくからと王馬を突き離そうとするが、嬉しさの方が勝ってしまい手を動かせないでいた。
「ちゃんと覚えてるよー。オレそこまでバカじゃないもん。でもダメだったの。みうちゃんに会いたくなっちゃった」
「それも嘘だろ」
「じゃあ嘘でいいよ」
ふにゃふにゃと笑う王馬の顔を見て入間は目を閉じる。入間にとって彼の笑顔は劇薬だった。一度それを飲んでしまえば死に至る薬のように、彼の笑顔は入間の懐疑心を打ち壊した。彼の笑顔に何度も騙された。
「お酒いっぱい飲んだら、みうちゃんのことで頭がいっぱいになっちゃった。えへへ。だからー嘘ついて最原ちゃんに連れてきてもらったんだー」
「ケッ。よくそこまで頭回るじゃねーか。いいから寝ろよ。オレ様はソファ使うから」
王馬はベッドから降りようとした入間の腕を掴み引き戻す。舌打ちをする入間の顔を覗き込み、オレのこと嫌いなの?と尋ねた。
「だから酒くせーんだよ」
「ねー。オレのこと嫌い?」
「……なんでそんなこと言うんだよ」
「だってさっき嫌いって言ってたもん」
聞かれていたのかと思い、入間は再び舌打ちをした。そして顔をそむけながら小さな声で言った。
「嫌いなわけねーだろ。嫌いな人間はベッドに連れてきたりしねーしな。わかれよ、脳ナシの凡人が」
それを聞いて満足そうに頷いた王馬は入間の腕にすり寄り、甘い声で好きだよと呟いた。入間は眉間に皺を寄せて嘘だろと返す。王馬は何度も何度も好きだよと囁いた。そのたびに入間は嘘、嘘と返し続ける。
何度かそのやり取りを繰り返すと王馬はため息をついた。
「そーだよー。嘘だよー。なんでわかっちゃうかなー」
「酔っ払いの言ってる事なんて大概嘘に決まってんだろ」
「やだー偏見―。ほんとのことを言うとね、世界で一番好きだと思ってるよ」
入間は王馬を振り払い俯いた。彼が好きだと囁くたびに入間の心臓を刺すのだ。その、簡単な言葉で入間は幸福になってしまうのだ。たとえ嘘だと思っていても。酒も飲んでいないのに自分自身を制御できなくなりそうで、入間は恥ずかしかった。あれほど愚かだと思っていた人間になってしまう。恋愛は人を狂わせて、愚か者にしてしまうのだ。入間は顔を手で覆い、もうやめてよぉと言った。
「……信じてくれないんだ?」
「し、信じられるわけないだろぉ」
「じゃあどうしたら信じてくれるのー」
「シラフの時なら、かろうじて」
かろうじてという言葉に王馬は笑った。王馬は入間の手を引っ張り、顔を見せるようにねだる。手をよけた入間の頬は真っ赤に染まっていた。
「信じなくていいから、オレの言葉を聞いててよ」
「や、だ」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
その言葉を聞いた王馬が劇薬の微笑みをたたえて入間の耳元で囁く。好きだよ、と。入間は目を閉じて嘘でもいいからこの幸せを手放したくないと願った。酔っ払いでも、信じられなくても彼が降らせる愛の言葉をずっと受け止めていたいと思ってしまった。好きだよと言われるたびに入間は頷いた。さっきと真逆のことをするなんて、滑稽でしかないと思いながら彼女の鼓動は高鳴り続ける。
「みうちゃんは、オレのこと好き?」
突然そんな質問をされ、入間は一瞬言葉を詰まらせたが頷いてそれに答えた。
「好きだよ。ずっと、好きだったよ。大好きだよ」
入間の答えに王馬はよかったと呟いて、布団に倒れ込んだ。欠伸をして何度も瞬きを繰り返す。その姿を見て、入間は彼の頭をなでながら睡眠を促した。一瞬の夢は終わったのだ。一瞬だけでも神様に触れられて、十分幸せだった。たとえその幸せの代償に自分が愚か者になろうとも。
「あのさ、次はシラフの時に言うから、信じて、ね」
途切れ途切れにそう漏らすと、王馬は眠ってしまった。入間は王馬の子供のような寝顔を見ながら部屋に充満した酒の匂いにため息をつく。クローゼットから出した布団を王馬にかけ、自分はリビングへと向かった。夢を終わらせる夢を見るために。

**

何かを焼いているような小気味いい音と馴染みのパンの香りに、入間はソファから起き上がる。リビングに併設されたキッチンに王馬が立っているのが見えた。彼は振り返り、まだ寝てていいよーと笑う。人の家のキッチンを我が物顔で使うところが実に王馬らしいと思いながら、大きく伸びをした。
「テメー二日酔いとかねーのかよ」
「普通にあるよ。でもいっぱいお水飲んだから多少よくなった。あ、飲んじゃった分買い足しておいたから安心してね」
ゆっくりと立ち上がりペットボトル用のゴミ箱を覗くといくつものペットボトルが捨てられていた。王馬は何時から起きていたのだろうかと考えながら、寝顔を見られた可能性に思い当たりあわてて口元を拭く。
「あ、入間ちゃんの限界突破してる寝顔ならばっちり見たよ」
「はぁ?!」
「嘘だよー。さすがにオレも女の子の寝顔を見るのは気が引けちゃうなぁ」
楽しそうに笑う王馬を見て、入間ちゃんという呼び方を聞いて、もういつも通りだと入間は思った。全て元通りになって、神様は神様がいるべき位置に帰っていく。天才だった自分は愚か者へと堕ち、それを恥じながら生きるのだろうと思った。窓を開けると少し肌寒いものの爽やかな風が吹き込んで、昨夜の空気ごとさらっていくような気がした。
しばらくそうしていると王馬がテーブルに皿を置き、入間は窓を閉じて椅子に座った。皿にはスクランブルエッグ、ベーコン、厚切りのパンが載せられている。入間はいただきますと手を合わせてそれを頬張った。王馬は正面に座り水を飲みながら食べるのを眺めている。
「入間ちゃんさぁ。ちゃんといただきますって言えるようになったね。オレのおかげだね」
「あ?あー、会ってすぐにテメーに怒られたんだっけなー」
「そうそう。懐かしいなぁ。何年前だっけ」
ぽつぽつと語る王馬は昨日の酒がまだ残っているようで心なしか具合が悪そうに見えた。朝食のお礼を言うと、一宿のお礼にねと王馬は返した。
空腹が満たされると、人は幸せになる。それをこの目の前にいる男とずっと続けられたらいいのにと入間はふと思った。しかし慌ててその考えを打ち消すように首を振る。
「ねぇ、昨日さ、オレひどかった?」
「最悪だった。オレ様の黄金の脳細胞を死滅させかけた上に、時間まで奪いやがって…。次やったら本当に許さねーからな」
「あはは。ごめんね。お詫びと言ってはなんだけどさ、来週の土曜日空いてないかな。どこでも好きなところに連れてくよ」
「あ?そんなもんで埋め合わせしようってのか?まぁ天才美人発明家のオレ様は性格も最高だからな、それで許してやるよ」
「ありがと。どこに行きたい?」
「……テメーとならどこに行っても楽しいだろ。ずっとそうやってきたしな。勝手に決めろ。オレ様をイカせられるようなプランじゃねーと承知しねーぞ!」
王馬は入間の言葉に微笑み、勿論だよと返した。入間はその微笑みに胸が小さく痛んだが無視を決め込んだ。ただ共にいられるだけで十分だと言い聞かせる。友人関係を続けられれば御の字だ。
「……昨日さ、記憶があるところとないところがあるんだ」
「は?記憶?」
「うん。いつからかなー。ベッドにいて、入間ちゃんがそばにいてくれて、それで――」
「わーーーっ!!!それ以上は!!なし!!」
突然大声を出した入間に王馬は目を丸くしたものの、すぐににやにやと笑い始める。入間は顔を赤くして昨日のことを思い出していた。もし記憶があったのなら、あれは本心なのか嘘だったのか明確に判別することができなくなってしまう。
「……ま、実際はどうだろうね。そこは入間ちゃんの判断に任せるよ」
そう言って水を飲み干した王馬は椅子から立ち上がった。
「行くのか?」
「うん。ありがとね。土曜日楽しみにしてるから。あ、ちゃんと可愛い恰好してきてよね
当たり前だろと頬を膨らます入間を見た王馬はペットボトルを捨て、玄関へと向かう扉を開いた。そして一度振り返りあの劇薬のような笑みを浮かべて言った。
「今度は、シラフだからさ。ちゃんと信じてよね」
その言葉に入間は持っていたパンを落としかける。唖然とする入間の顔を見てケラケラと笑いながら王馬は出て行った。果たしてそれが嘘なのか、本当なのか入間には見当もつかなかった。しかし土曜日に全てわかるのだろう。
入間が信じていた王馬神話は打ち崩された。彼もまた普通の人間のように酔っ払い、わけのわからないことをし、人を困らせる。それでも再び自分のペースに持ち込めることは尊敬に値するが、今までのようなほとんど盲目ともいえる信仰心のような気持ちはなくなっていた。
入間には彼がバカで不器用な人間に見えた。神の名を騙る愚かな人間に。同じ人間ならば、同じ愚か者ならば触れることができる。恋ができる。愛を囁き、受け止めることもできる。しかしそう思えるようになったのも入間が嫌っていた酔っ払いという付属アイテムのおかげなのだ。
入間は小さく舌打ちをして呟いた。
「ま、酔っ払いも悪いもんじゃねーかもな」
深く息を吸い込むと彼の残り香が匂って、嬉しいような悔しいような気持ちで入間は笑った。