01:それはまるで夢のような


別に恋人だった訳じゃない。十年前両想いだった、ただそれだけだ。お互いがお互いにそれを自覚していて、お互いの気持ちも知っていた。本当に、ただそれだけ。
鮮明に覚えている感情だけれど、それを初恋と表すには少し違う。私達はただ、自分の気持ちと相手の気持ちが同じものであると確かめなくても分かり合えていた。それ以上も、以下もない。

彼が犲を抜けると言った日、あの日が私達の別れの日。あれ以来、一度も彼には会っていないし、会おうと思ったこともない。彼は私達を裏切った。犲という夢を丸投げして、国を守るという選択を破棄して、幼い弟達を守って生きていくことを選んだ。それは我々犲に対する侮辱だ。彼の父で私達の師でもある曇大湖への侮辱だ。そんなこと、許せるわけがなかった。

何よりも、あの時私を拒絶した彼を、許してはいけなかった。

いつだったか、もうずっと昔のこと。彼に恋人が出来たと聞いたとき、胸がちくりと痛んだのは、私の中であの頃の記憶が綺麗なままで残っていたからだ。記憶というのは不思議なもので、忘れていくものと美化されるものがある。あの頃の記憶は後者だっただけ。ただ、それだけ。
だから表情には出なかった。悲しいとも寂しいとも思わなかった。私に向かって良かったのかと尋ねてきた妃子に、良かったじゃない、と笑って言えた。

そしてその日、彼が好きだと言っていた赤茶色の長い髪を、ばっさりと切り落とした。
彼に恋人が出来たことが理由じゃない。なんとなく、好きだというその言葉に縛られている気がして、私だけが進めていないのだと自分で言っているだけのものに見えて、それが嫌になっただけだ。長年手入れしてきた自慢の長髪は少年のように短くなって、当時犲の面々は随分驚いていたけれど、それも今では少し伸びて肩にかかる程度にはなった。
だけどもう、あの頃のように髪を伸ばすことは二度とないのだろう。彼が好きだと言ったあの頃の私に、戻ることはないのだろう。

自由で破天荒でちょっと頼りなかったけれど、優しい人だったとは思う。彼の優しさを否定したりはしない。だけど、その優しさが私達の築き上げたものを傷付けた。彼がいなくなってから、犲というまとまりを改めて立て直すのに蒼世は誰よりも苦労したし、妃子はいつも悲しんでいた。他の隊員達だって、それぞれ色んなものを抱えてた。だから私は、彼を許さないと決めた。そうしなければいけなかった。

あれから十年以上の月日が流れ、ふと気付いたときには私も二十四になっていた。
恋人を作ったこともあるけれど、犲である以上まともな恋愛は出来なくて、結局すぐにダメになった。以降、一度も恋愛はしていない。誰かを好きになることなんて、きっともう、ずっとない。私が犲である限り、ずっと。

「―――って、話聞いてる?」
「ん?あぁごめん、聞いてなかった」
「もう」

妃子の膨れっ面が、やけにくっきりと見えた。ぽってりとした色っぽい唇を尖らせて拗ねたような顔をする妃子を見て、思わず苦笑する。

「ごめんごめん、もう一回云って」
「もう嫌よ、面倒」
「お願い、じゃないと私が隊長に怒られる」
「聞いてなかった渓が悪い」
「だからごめんってば」
「……何考えてたの?」

妃子は頬杖をつきながらじと目で私を睨みつける。見透かしたようなその目は嫌いだ。私はあえて意味深に、わざとらしく肩を竦めてみることにした。

「別に、何も」
「…ふうん?」
「ただぼーっとしてただけ」

どうして今さら彼の事なんて思い出したのか、そんなの私にだって分からない。妃子からの質問をはぐらかして、で、と声を上げる。

「もう一回教えて」
「はいはい…だからね、新人が来るのよ、犲に」
「へえ、器候補?」
「いいえ、ただの入隊希望者。まぁ今は人数も間に合ってはいるけど、天火の穴埋めには丁度いいかってことになったの」

―――天火。
曇神社十四代目当主、曇天火。

そうだ、その名前が出てきたから、こうして彼を思い出してしまう羽目になったのだ。
もう随分長い間その名前を口にした記憶はないけれど、名前を聞いただけで彼との思い出が嫌になるほど鮮明に甦るから不思議なものだ。私はまだ、あの頃をうまく昇華出来ていないのだろうか。いや、そんなはずはない。だってもう、彼の事を考えたって、涙の一つも出やしない。

「穴埋めってのも随分今さらね」
「そこは私に云われても困るわ」
「で、そんなに強いの?その新人クン」
「まあ、正直荒っぽいし腕はまだまだだけど、筋はいいわ」
「へえ」
「…自分で聞いておいて、どうでもよさそうな返事返すのやめてくれない?」
「だって実際どうでもいいもの」

私の返答を聞いた妃子は、長い髪を揺らしながら呆れたように息を吐いた。

「そんなだから"犲の山摘は氷のような女だ"って云われるのよ」
「なにそれ?」
「赤髪の犲女隊士山摘は、強くて見目麗しいけれど他人に興味を持たない上に笑わない、氷のような冷たい女だ、ってみんな云ってるわよ」
「誰よ、みんなって」

妃子の言葉を鼻で笑う。

「いいんじゃないの、云いたい奴には云わせておけば。別に減るもんじゃないし」
「またそんなこと云って」
「だってほんとに、どうでもいいから」

そう言い切った私の顔を見て、妃子はなんとも言えない表情を浮かべる。向けられる視線が様々な思いを語っていて、私はそっと視線を逸らした。

妃子が言いたいことは大体分かる。十年以上、犲として、同じ女として、そして幼馴染みとしてこうして一緒に生きてきた。だからこそ、言葉にしなくても分かることはたくさんある。でも、妃子はあえて言葉にしない。だから私も、答えはしない。そういう問答をくり返したところで、結果はいつも同じだ。どうせ平行線を辿るだけの無駄な言い争いだと妃子は理解しているし、私だってそれは同じ。視線を逸らせば、答えるつもりがないという合図。分かっているから、妃子はいつも諦めたように溜め息を吐く。

「とにかく、そういうわけだから、いろいろと面倒みてやってね」
「なんで私が?」
「もちろん私達だって面倒みるわよ。でも同じ犲なんだから、渓だって無関係じゃないでしょう。あんまり邪険にしてやらないでってことよ」
「はいはい」

仕方なさげに息を吐いた私を見て、妃子は困ったように笑うと、資料を私に突きつけて立ち上がった。

「それがその新人君の履歴と資料」
「いらないわよこんなの」
「一応目を通しておくように、っていう隊長からの命令よ」
「……はぁ、了解」
「じゃあね」

妃子はひらひらと手を振って去って行った。その背中を見送ってから、残された資料をしぶしぶ手に取る。手元の資料に視線を落としてはいるものの、なぜかまったく内容は頭に入ってこない。

曇天火

名前を聞いただけで、こんなにも容易く思い出すなんて。
強くて優しい手のひらも、大きな背中も、無邪気な笑顔も、あの日の拒絶も。私はずっと、とっくの昔に忘れてしまったものだと思っていたのに。今さらだ、本当に。
だからといって、彼を想うことはもう二度とない。あの日、私の太陽は消えたのだ。太陽は私を必要としなかったのだ。

―――お前の居場所はここじゃない。

俯いたまま、私の顔も見ずに、彼は私を突っぱねた。それでもまだすがりつく私を、いらないと、彼ははっきりそう言った。あの日の言葉の節々なんて記憶の底に沈みきって、一生見つけられないものだと思っていたのに、それはこうも簡単に浮かび上がる。まるで私だけがあの日から進めていないのだと言い聞かせているみたいで、やけに腹が立った。

ほんと、今さら。

思い出しながら、やけに苛々した。心の中でひとり呟いて、その苛立ちをぶつけるように乱暴に前髪をかき上げる。
愛がなんたるかも知らないような子供が、大人の真似事をして恋愛ごっこをしていただけ。別にあれは、恋なんかじゃない。初恋も、愛も、男も、私は何一つ知らない。知らないまま今日に至るし、知らないまま大人になった。それを恥じてはいないし、悔いてもいない。

大丈夫、大丈夫だ。今まで通り、なにも変わらない。

言い聞かせて、目を閉じて、深呼吸をして。
そうしてようやく静まってきた苛立ちと共に、浮かび上がった感情ごとまとめて閉じ込める。そうすればほら、綺麗さっぱり消えてなくなる。何もない、私の中には、何も。

目を開いたら広がっていたのは新人に関する資料で、すっかり気分はげんなりとしてしまったけれど、もう頭の中に彼はいない。
興味のない人間の履歴を目で追いかけながら、太陽の傾きかけた部屋で私の一日が終わっていった。


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