眠るように気を失った姫を、白子は何度も呼び続ける。しかし、姫は目を覚まさない。何が起こったのかも分からずに、白子は小さな体を支えて、困惑することしか出来なかった。


二十八、月の傍へ


色とりどりの破片が散らばっているその真ん中に、渓は目を閉じて、背筋を伸ばして座っていた。カラカラと下駄の鳴る音がして、渓はゆっくりと目を開ける。現れたのは、自分の姿をした"姫"だった。金色の目は真っ直ぐに渓を射抜くと、口元に袖口を当てて、妖しく上品に微笑んだ。

「久しいな、渓」
「…」

渓は何も言わずに金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。漆黒の瞳は、怯えることも恐れることもなく、しっかりと姫を捉えている。

「どうだった?自我や記憶を全て奪われ、蛇の信者の重い記憶を延々と見せられた気分は」
「…苦しかった」
「そうだろうな」

姫はのんびりと歩いてくると、渓の隣りに立った。青い空も曇天も何もない、空虚な上部に視線を移す。

「もうお前も知っているだろうが、ここは蛇の信者の記憶の底。新たな姫を生むために、こうして歴史は次の姫を閉じ込める。孤独の中にな」
「…貴女も、そうだったんでしょ?」
「懐かしいものよ。三百年も浸されていれば、もはや故郷のようなものだ」
「―――嘘」

渓は凛とした声で姫の言葉を否定した。立ち上がろうともせず、渓はただ真っ直ぐに姫を見つめたままだ。

「三百年もこんなところに一人で閉じ込められて、貴女は全てを失った。そんな悲しい場所を故郷だなんて、思ってないはずよ」

見透かすようにそう言った渓を、姫は睨むように見つめた。冷ややかな金色の瞳は鋭く、あっさりと竦められそうなものだったのだが、渓はまったく動じない。それどころか、誰もが恐れるその金色の視線から目を逸らしもしない。姫はそんな渓を見て、呆れたようにふうっと息を吐いた。

「相変わらず生意気な娘」
「…貴女が、私を助けてくれたんでしょ?」
「何のことやら」
「私は確かに自我を失って、そして貴女と入れ替わるようにここに落とされた。記憶や感情を奪われて、少しずつ蛇の信者の歴史を見せられて…そんなとき、声がしたの。まだ生きている?って、私に問いかけてきてた」
「…」
「蛇の信者の歴史に飲まれそうになるたびに、そうやって貴女は私に声をかけてくれて、貴女の視界を私に見せてくれた。違う?」
「…随分平和な脳みそだ」

姫が馬鹿にしたようにそう言うと、渓はむっとした表情になった。姫はそんな渓に冷ややかな視線を送りながら続ける。

「忘れたのか?私お前の体が欲しかった。だからお前が自我を失うように仕向け、こうしてお前の体を奪ったのよ」
「だけどそれは、"姫"として背負った使命を果たすためでしょ?三百年も待ってようやく手に入れた体なんだもの、私のことなんて考えずに好き勝手やればよかったのに、貴女はそれをしなかった。私のこと、ずっと気にかけてくれた」

渓はようやく立ち上がると、姫の前に立った。同じ顔が二つ並ぶ。渓は自分と同じ顔の金色の目を真っ直ぐに見つめると、ふっと柔らかく笑った。

「ありがとう、守ってくれて」

思いもよらなかった言葉に、姫は驚いたように目を丸くする。姫自身は渓の自我を崩壊させた張本人だ。恨まれたり憎まれたりすることはあっても、礼を言われるようなことは一つもない。渓の言葉がまだ信じられなくて、すっかり何も言えなくなった姫に向かって、渓は穏やかに続けた。

「だけどね、もういいよ」

渓はそっと、姫の手を握る。人の温もりを感じないその手のひらは、蛇の信者の姫の証。

「貴女は三百年もここにいて、やっと体を手に入れた。私のことなんて気にせずに、もう自由に生きていいんだよ」

そう言って、渓は優しく笑う。姫はそんな渓の顔を、ただ呆然と見つめることしか出来ない。渓は、自分の体を姫に与えるから、新たに人生を歩んでくれと言っているのだ。何も知らずに自我を奪われ、こんなところに閉じ込められておきながら、そんな言葉を平気で放つ渓が、姫には理解出来なかった。

「私ね、ここにいて、貴女と同じような経験をして思ったの。体が欲しいって思ってしまうのなんて、当たり前のことじゃないかって。だってそうでしょ?自分っていう存在を完全に忘れて、三百年もそのまま無意味に生きて、それからようやく新しい自我が生まれて…そしたら新しく人生を歩きたいって思うの、普通のことだと思う。私だって絶対に、同じように思うもの」

だから、と渓は笑う。

「もういいの!貴女は十分耐えたんだから、そっちの世界で幸せに生きて。私も大人しく三百年、待つことにするから」

姫はぎゅっと唇を噛んだ。三百年後、もしも蛇の信者の血筋が途絶えていたら、渓は確実にこちらには戻って来れない。そんなことは、渓自身だってもう分かっているはずだ。なのに渓は、姫があの世界で生きればいいのだと笑う。本当は渓だって帰りたいと思っているくせに、姫の為だけを思って、憎むべき存在であるはず彼女に向かって笑顔を向けるのだ。

すうっと息を吸って気持ちを落ち着けながら、姫は静かに俯いた。渓は心配そうにその顔を覗き込みながら、姫の肩をさする。大丈夫?という声までついてくるのだから、姫はもう耐えられなかった。ふっと小さな笑みを零すと、消え入りそうな声で言った。

「……馬鹿ね」
「え?どうしたの?何か云――」

渓が言い終えるよりも先に、姫は渓の体を乱暴に押す。突然の衝撃に耐え切れず、渓は思わず後ろに倒れて尻餅をついた。驚いたように見上げれば、表情もなく鋭い視線で渓を射抜く姫の姿がそこにある。

「本当に気に食わない娘。いいこと?私は自分の意思でこちらに戻って来たのだ。お前にどうこう云われる筋合いはないわ」

姫は渓の手を無理やり掴むと、引きずるようにして歩き始めた。渓も慌てて立ち上がり、なされるがままの状態で姫の後を追う。姫が向かったのは、深く暗い巨大な淀みが渦を巻く異様な場所だった。この世界にこんなものがあるだなんて、渓は当然知らない。人の体があっさりと埋もれるほどの大きさがある淀みはぐるぐると渦を巻いており、あまりに不気味だ。渓も思わず腰が引ける。

「な、何…?」
「この淀みの中からあちらの世界に行ける。さっさと去ね」
「ま、待ってよ!それじゃ貴女が…」
「私はあの世界が嫌いだ。もう少し愉快な場所かと思っていたが、人が多くて騒がしいだけのつまらない世界だったわ。ここで大人しく生きる方がずっと良い」

姫が無理やり淀みの中に渓を押し込もうとするが、渓も駄目だと必死に抵抗する。

「貴女、また三百年もこんなところで生きるつもり!?」
「長生きして何が悪い!」
「次はないかもしれないんだよ!」
「そんなこと、お前に云われなくても分かっているわ!」

まるで子どものような言い争いを繰り広げるが、どちらも一歩も引かない。本当に厄介な娘だ、と姫は心の底から思った。折角あの世界に戻れるというのに、渓は恨むべき存在の自分のために、自身の運命を受け入れようとしている。そんな馬鹿げた選択など、渓にさせるわけにはいかない。姫は言うことを聞かない渓に苛立ちながら、声を荒げた。

「あの男がお前を待っているんだ!さっさと行けこの馬鹿者!」

姫がそう言った瞬間、渓の瞳が僅かに揺れる。それはひどく寂しげで、悲しみに満ちた眼差しだった。その目を見た姫は、思わず力を入れるのを止めた。渓も力が抜けて、眉を寄せながら俯いた。そして少しの沈黙の後、渓は静かに口を開く。

「思い、出せないの」

ポツリと呟かれた言葉に、姫は渋い顔をした。

「あの男って、彼のことだよね?白髪の、月みたいな綺麗な人。私、どうしても彼のことだけ思い出せないの」

渓から零れた言葉は苦しみに満ちていて、思い出せないことがひどくもどかしいのだと伝えている。渓は自身の胸に手を当て、硬く拳を握った。月のような男のことを思う度に、もやもやとしたものが胸の奥底に広がっていくのだ。切なく胸は痛みを増して、息をするのもつらくなる。この痛みは何なのか、彼は一体誰なのか、それをまだ、渓は思い出せていない。

「…彼が待っててくれてるんだとしたら、思い出せもしないのに私が戻ったって無駄だよ。きっと私、彼のこと傷付ける。だから私がここに残るのが一番いいの」

何とかそう吐き出しながら、渓は姫に向かって下手くそに笑ってみせた。月のような男の笑顔が、渓の頭にどんどん浮かぶ。困ったように笑う顔、優しい眼差しを携えた微笑み、たまに見せる悪戯っ子の様な笑み、そういった顔ははっきりと思い浮かぶというのに、なぜ彼に関することが何一つ思い出せないのか、渓にも分からなかった。自分の名前を思い出しても、彼のことだけはまだ記憶の底だ。

そんな渓の様子を見ていた姫は、はあっと深い溜め息を零すと、俯く渓の頬をつねる。渓は思わず顔を上げて、じと目で自分を見つめる姫を見返した。

「そんなことで悩んでいるの?馬鹿らしい」
「ば、馬鹿って…」
「―――大丈夫よ、怖がらなくて」

思いもよらぬ姫の優しい言葉に、渓はきょとんとする。姫は渓の頬を解放した。

「会えば嫌でも思い出す。お前もあいつも、二人でなければもう生きてはいけないのだから」
「で、でも…私は残るよ、貴女が彼のことを幸せに…」
「つまりお前は、あの男の幸せを願っているということね」

言われて、渓は固まった。姫の言葉を聞いて、ようやく渓は彼の幸せを願っていることを思い出したのだ。

「その男の隣りで幸せに笑っているのが、自分でなくてもいいんだな?」
「それは…」

もしも白髪の男の隣りで笑い合うのが、自分ではない誰かだったら。そう考えた途端に、渓の胸が苦しいくらいに詰まった。嫌だ、と純粋にそう思う。ここまで彼に対する気持ちがあるのに、この気持ちが一体何なのかが、渓にはまだ分からない。苦しそうな表情を見せる渓の顎を掴むと、姫は渓と視線を合わせ、相変わらずの冷ややかな視線を向ける。

「そこまで答えが出ているのなら、さっさと会いに行けばいい」
「だって、こんな中途半端な気持ちで会えるわけないし、それじゃ貴女が…」
「うるさい」

姫は乱暴に渓の顎から手を放すと、油断していた渓の体を強く押した。よろけた渓の体は、淀みの中に捕まってしまう。渓はハッとしてそこから抜け出そうとするが、その淀みは沼のように、ゆっくりと渓を飲み込んでいく。

「この空間の支配者は、選ばれた姫である私だ。お前に指図する権利などないわ」
「ねぇ、待って、駄目よこんなの…!貴女の幸せはどうするの!」

自分を飲み込む淀みに必死に抵抗しながら、渓は姫に訴える。ずっと無表情だった姫だが、渓が淀みに身を埋めたことを確認して、ようやく笑った。その笑い顔はいつものように妖しげなものではなく、穏やかで、愛情に満ちた笑顔だった。姫は渓の白い頬に、そっと手を当てる。人の温もりを感じないひんやりとした手のひらは、痛いくらいに優しかった。

「…渓、私の光」

柔らかな声で姫は言う。

「私の幸せは、お前が幸せになることだ」

姫は渓の額に自分のそれをそっと合わせて目を閉じると、願うように続けた。

「つらい思いをさせたな。お前はもう、ここにいなくて良い。愛のある場所へ帰ればいい」
「そんなの…そんなのいいから…今更そんなに優しい顔しないで…!」
「大丈夫だ、あいつの記憶はこの空間に閉じ込められて思い出せないだけ。向こう側に行けば、いやでもすぐに思い出す、不安になることはない」

渓から額を離した姫は、温かな笑顔を向けながら渓の頭を優しく撫でる。反対に、渓は今にも泣きそうな顔で姫を見つめるばかりだ。

「そんな顔をするな。私の為を思うなら、お前は笑って生きなさい」
「…貴女、ズルい」
「ふふふっ」

珍しく声を上げて笑った姫は、渓と少しだけ距離を取った。初めは淀みに抵抗していた渓だが、もはや抵抗することもなく、淀みに身を任せたままじっと姫を見る。姫は穏やかな微笑みを絶やすことなく、そんな渓を優しく見つめている。

「恨むべき私のことを思うなんて、本当に馬鹿な娘だったわ」
「…貴女に云われたくない」
「私なんかのこと、心配してくれてありがとうね、渓」
「…それは私のセリフ」
「一番欲しかった愛情は、お前がくれたよ」

渓の体は、どんどん淀みに沈んでいく。渓の思考も徐々に薄れていき、目を開けているのもつらくなっていたのだが、それでも必死に渓は姫を見続ける。自分のことを懸命にこの世界に繋ぎ止めていてくれた、もう一人の愛すべき自分を。

「…またね、渓」

また、がやってくることは、もう二度とないかもしれないのに、姫は優しくそう告げる。薄れゆく意識の中、渓は最後の最後に、姫の一番眩しい、陽だまりのような笑顔を見た。


「大好きよ」


ずっと泣くのを堪えていた渓は、とうとう一筋の涙を零した。渓は姫のその笑顔を、決して忘れることはない。

「……ばか、」

私もよ。
渓が姫に向けた最後の言葉は、薄れゆく意識の中に消えて、一番大切なところだけが声にはならなかった。しかし姫は嬉しそうに笑って、渓の姿が孤独な世界から消えるのをを見送った。再び三百年の地獄を味わうと知っていて、それでも渓を救ったのは、渓という存在が何よりも大切になっていたからだ。

「…さて」

渓は淀みの中に消えていった。もうここに、渓の気配は残っていない。姫は少しだけ寂しく思ったが、それでも構わなかった。カラカラと下駄を鳴らしながら、色とりどりの破片が散りばめられている場所に戻ると、そこにそっと寝転がって、目を閉じる。

「…あと五十年くらいは生きて、貴女の世界を見せてね、渓」

誰にも聞こえることのない、姫の穏やかで優しい呟きは、孤独な世界に音もなく溶けた。



 ● ●



白子の腕で抱えられていた姫が、突然何の前触れもなくばちっと目を開いた。白子と姫の視線がぶつかる。白子はその姫を見て、完全に動きを止めた。どくん、と自分の心臓が大きく跳ねたのを確かに感じ取る。

目を覚ました姫の目は金色ではなく、見慣れた漆黒だった。そして表情も、姫よりもずっと柔らかい。これが姫ではないことは、白子にはもう分かっていた。思考も完全に停止してしまって、腕の中にいる娘の存在を信じられずにいるばかりだ。恐る恐る、白子は思いついた名前を口にすることしか出来なかった。

「……渓?」

白子がその名前を口にした瞬間、腕の中の娘は――渓は、ぽろっと一つだけ涙を流した。名前を呼ばれただけだというのに、渓の胸の奥底に押し込められていた白子との記憶が、弾けるように溢れ出す。

「――白子」

思い出した名前を口にした途端、ずっと思い出せなかった白子への想いが胸の中に甦る。誰よりも愛しくて、誰よりも恋しかった。だから会いたかったのだと、渓はようやく思い出したのだ。渓は堪えきれずにくしゃりを顔を歪めると、ずっと求めていた彼の胸に、迷うことなく飛び込んだ。


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