「にしきちゃん、ぼたんせんせい、てんか、そらまる、ちゅうたろう、そうちゃん、きーちゃん、おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん」 まるでパズルのピースのように、たった一つ嵌ったのがきっかけになって、次々と分からなかったものが埋まっていく。からっぽで何も考えられなかった頭の中で、何かが組み立てられていくような音がずっと響き続けていた。 しかし、その音は不意に止んだ。 彼女は白髪の男の名前を必死に思い出そうとするのだが、なぜか彼の名前と自分の名前が思い出せない。苦しかったのは、自分の名前を思い出せないことよりも、彼の名前が思い出せないことだ。 いつもすぐ傍にいたことも、自分の視線がいつも彼を探していたことも知っているのに、どうしても男の名前が出てこない。それだけは思い出させまいと、強大な何かが一生懸命邪魔をしている。それでも男の優しい笑顔は、ずっと脳裏に焼きついたままだ。 彼は一体誰なのだろう。 考えれば考えるほど、胸の奥がぎゅうっと締めつけられてひどく痛い。彼女の中で縛り付けられている感情は、早く彼を思い出して解放されたいと願っている。彼女自身にもそれは分かっているのに、彼に対する想いも、名前も、まだ浮かび上がらないままだ。ただ、これだけは言える。 「……あいたい」 遠くで何かがひび割れる音が聞こえて、彼女はそっと目を閉じた。彼に会いたい、そして傍で笑って欲しい。ぼんやりと涙を流す彼女の黒髪が、少しだけ揺れた。 二十六、与えられた選択 二人の弟が泣きついているのを抱きしめて、少しの間そうしていた天火だったが、いつまでもこの温かな空間に浸っているわけにもいかない。無事に器と大蛇は切り離された。完全に大蛇だけが残された今ならば、大蛇を殺すことが出来るのだ。天火は二人から体を離すと、弟達の涙をそっと拭ってやってから、真っ直ぐに涙で濡れる二人の目を見つめた。そして真面目な声色で告げる。 「空丸、宙太郎、あと一仕事だ。何百年と続いた負の輪廻を止めるぞ」 天火の言葉に、空丸と宙太郎はまだ溢れ出ようとする涙をぐっと堪えて、天火の目を見つめ返す。曇家は、この滋賀を守るためにあるのだ。 比良裏と武田は三兄弟に近付く。口を開いたのは比良裏だった。 「ああ、大蛇を殺す」 「奴は不死だって聞いたぞ、封印するしか方法がないんじゃ…」 「空丸なら出来る」 武田の疑問を耳にしながら、天火はしっかりと空丸を見据えて言った。 「俺?」 「あぁ。"自分"を斬れるか」 天火の言葉を空丸は受け止める。自身が器として大蛇に捕らわれ、そして分離した。分離した大蛇は、もはや空丸自身であり、器となった空丸は大蛇の一部でもあるのだ。その自分ならば、大蛇を殺す事が出来る。何よりこれは、自分にしか出来ない事なのだ。 空丸は砕けた曇の宝刀の欠片を握り締めて、少し息を吸ってから、天火に力強い笑顔を見せた。長年守られ続けたからこそ、胸を張って守っていけるものがある。 「ああ、今度こそ、何だって斬ってやる」 絶対に負けない、という意志が言葉の節々から溢れ出ていた。自分の居ない間にも確かに成長した弟の姿に目を細めながら、天火はまだ小さなその肩に自身の羽織を掛けてやる。"曇"と大きく描かれた羽織が、守らなければならないものの大きさを伝えていた。 そんな二人の様子を見ていた蒼世だったが、全てを受け入れて立ち向かう決意を固めた空丸近付いた。帯刀していた安倍の宝刀を手に取ると、それを空丸に差し出す。空丸はその宝刀を受け取って、驚いたように蒼世を見上げた。 「古くより大蛇討伐に関わってきた安倍の宝刀だ、特別に貸してやろう。私の弟子として恥ずかしくない働きをして来い」 「はい!」 空丸は頷くと、宙太郎と武田と共に駆け出した。そのときに振り返って、天火に向かって声を張り上げる。 「見てろ!兄貴なんてすぐ越えてやるからな!」 次世代を担う三人の背中が完全に見えなくなるまで見送っていると、比良裏がのんびりとその後を追う。天火の隣りをすれ違う際、比良裏は天火の肩をポンと軽く叩いた。お疲れさん、とでも言っているつもりだろう。 するとまるでその合図を待っていたかのように、天火の体がぐらりと傾いた。崩れ落ちる自身の体をを支える力もなかったため、背中から倒れていった天火の体だったが、その背中が地面に叩きつけられることはなかった。天火は思わず目を見開く。 「倒れるには、まだ早いと思うが」 蒼世が倒れかけた天火の体を、しっかりと支えていたのだ。蒼世の言葉を聞いて、天火は困ったように笑ってみせた。 「まじか…俺結構限界なんだよ、休ませてそーせークン」 「何故処刑されたはずのお前が此処にいるのかは知らないが、一人だけ楽するのは却下だ」 「大蛇細胞っつー人体実験に付き合ってたら処刑されかけたんだよ。まあ、まだ使えるって判断されたみたいだけど、もうクタクタよ」 天火はあの日、確かに処刑されるはずだった。しかし、天火の体がまだ実験に使えると判断されたため、まさにギリギリのところで処刑の取り止めが言い渡された。名目上処刑されたということにはなったが、比良裏も所属している政府の一部で匿われながら、内密に生かされることとなった天火は、その後も被検体となって実験を続けられていた。そのせいで大蛇の毒は天火の体をより一層蝕んでいたため、彼の体はこのときすでにボロボロだったのだ。本当は動くのもままならないというのに、空丸が器となってしまったことと白子の裏切り、そして渓が風魔に連れ去られてしまったということを知ってしまった以上、動かずにはいられなかった。 蒼世は天火が人体実験を受けていたと聞いて眉を寄せた。珍しいほど感情を露にした蒼世は、腹が立ったのだろう、天火を支えていた腕を放す。突然支えがなくなってしまった天火は、見事に尻餅をついてその場に座り込んだ。じんじんと痛む尻をさすりながら不機嫌そうに蒼世を見上げるが、蒼世も十分に不機嫌そうな顔をしている。 「何故云わなかった」 真面目な声色で発せられた蒼世の言葉に、天火は少しだけ間をあけて答える。 「お前等に云ってどうするんだよ」 「何だと」 「背中の傷で左半身が動かなかったんだ、そんな頭なんざ犲にいらねえだろ」 「それでも云うべきだった、そうすれば実験なんて…」 「今更だろ」 天火の声は、蒼世でさえ聞いた事がないくらいに寂しげだ。 「怖かったんだよ、お前等の重荷になる事が。俺だってお前等と国を護りたかったさ、けど、この体じゃ国どころか自分一人で立つ事も出来ねえ。役に立たない自分が怖かった。きっと俺は、必要とされたかったんだ。だから大蛇の実験を聞いた時はすぐ飛びついたよ、だって寿命を削る代わりに力が手に入るんだって!凄えだろ」 ごろんと寝転がりながら、天火は明るくそう言った。しかし蒼世の顔は、悲しいとも辛いとも言いがたいような表情で歪んでいる。そんな顔を見て、天火は下手くそに微笑んでみせた。 「…そんな眼で見んなって、少しは後悔してるんだ。泣かせるつもりなんてなかった、お前等を裏切ったつもりもなかった。俺は間違ったのか…もう分かんねえよ」 どうすりゃ良かったんだ、と最後に小さく吐き出された言葉は、長年の天火の苦しみ全てを物語っていた。天火自身、傷付き、苦しみ、たった一人で知られざる孤独と戦っていたのだ。十年以上も拗れ続けながら、ようやく天火の事情を知った蒼世は、一つ息を吐いてから寝転がる天火に向けて言った。 「立て」 凛としたその声は力強かった。目を丸くして蒼世を見つめる天火だったが、蒼世は目を合わすことない。 「俺の前には何時もうっとおしいカニ頭がいた。奴のやる事は無茶苦茶で正しくはない。けれど、間違ってもいない。其処にいるだけで道標のような男だった」 懐かしむように振り返る蒼世の言葉は、温もりに満ちていた。蒼世は続ける。 「"犲"と云う夢はその男から貰ったものだが、お前には特別にその夢の続きを見せてやろう。立てないと云うのなら、引きずってでも連れて行ってやる。見てるだけで良い、今は俺が犲の頭だからな」 天火は両手で顔を覆った。目の奥がじんじんとして、胸の底にしまい込んだはずの痛みが緩やかに解き放たれていく。 「どうした、曇神社十四代目当主」 「その云い方はズルいぞ…」 「…まだ終わりではないだろう。立て、天火」 珍しく穏やかで優しい蒼世の言葉が、苦しみ続けた天火の心にそっと寄り添った。両親、犲、夢、幼馴染み、自身の半身――あの頃の天火は、大切なものを多く失った。それは深い傷として天火の心に残ったが、まだ幼い弟達や渓の前で、兄である自分が悲しい顔をしていてはならない、不安にさせてはならないのだと、自分自身に必死に言い聞かせてきた。 そして実験の痛みや苦しみを、誰にも共有できないまま十余年。きっともう和解など出来ないと思っていたはずの幼馴染みが、天火の心の痛みに触れたのだ。天火は堪えていた熱を我慢しきれず、顔を覆った手のひらの下で静かに涙を零した。何度か深呼吸をして溢れる涙をどうにか治めると、覆っていた手のひらで涙を拭い、蒼世を見上げた。 蒼世はふっと笑うと、真っ直ぐ天火に腕を差し出す。天火は顔を歪めて笑いながら、差し出された腕を掴んだ。 ● ● 「…曇天火は生きていた」 姫は白子に掴まったまま、静かに告げる。これには白子も驚いたようで、腕の中の姫の顔を見た。俯く姫の表情は読めない。 「処刑の日、政府からの指示で生かされて今まで実験体として利用されていたらしい」 「そうですか。ならば早めに消せばいい、奴は厄介だ」 「…なぁ風魔の長よ」 姫は白子の忍装束を握る手に、少しだけ力を込めた。 「覚えているか?我々が大蛇様の血を飲み力を得たという話」 「もちろん。その血のお陰で蛇の目の力を得て、他者を操れるようになったと」 「そう、そして私達は大蛇様の為に、目となり、餌となる」 淡々と放たれていた言葉が、僅かに震えた。白子もようやくハッとなる。餌となる、ということは、つまり―――。 「…姫、まさか」 「そう、私は今から大蛇様に喰われに行く」 告げられた言葉に、白子は思わず足を止めた。そこで姫はようやく顔を上げて白子と視線を合わせる。白子に向けられた姫の顔はひどく悲しげで、金色の瞳は寂しげに細められていた。 白子は何も言えずに、そんな姫の顔を見返すばかりだ。喰われるのは姫だというのに、まるで自身が死刑宣告を受けたかのような気持ちになった。喰われる、ということは、姫だけではなく、守ると決めた渓の体さえも失われるということだ。 固まったままの白子の顔を見て、姫は困ったように眉を下げて微笑む。その顔は、渓が困ったときに零す笑い顔と同じものだった。そんな姫の顔など、白子は一度も見たことがない。 「そんな顔をするな、これも運命だ」 「何故…」 「我々は大蛇様の血を頂いた。しかし、大蛇様が何の見返りもなく自身の力を分け与えるわけがないでしょう?我々に強力な力を付けさせ、力をつけた我々を喰らって自身に力を取り込むことで、大蛇様の力はより強大なものとなる。あの方は、我々を駒として使い、最終的に取り込む為だけに私達一族を受け入れたに過ぎないのよ」 語られた真実は、あまりにも重い。 蛇の信者は、同胞だった安倍や芦屋の一族に捨てられ大蛇に身を寄せたものの、結局その大蛇に喰われるためだけに存在しているようなものだ。 「あの方は、初めから私を喰らうつもりでいた。けれど私は受け入れず、それを先延ばしにした……いつか喰われる事を知っていて恐れたんだ、この身が消える事を」 姫は少しだけまぶたを伏せた。長い睫毛が揺れて、今にも消えてしまいそうな儚さを感じさせる。大蛇が空丸に宿り目を覚ましたとき、大蛇は真っ先に姫に手を伸ばした。あれは、喰わせろという意味だったのだ。 「大蛇様の血を宿す私には聞こえるの、大蛇様の声が。今も私が喰われに行くのを待っておられる…もう、待てないって」 姫の声ははっきりとしていたが、悲しみに満ちているのが嫌でも伝わってきた。どうしようもない現実が白子の目の前に突きつけられて、白子もどうすればいいか分からない。体だけでもこの世に存在していた渓が、本当に失われてしまうのだ。せめて傍にと、自分自身に誓った約束さえ、こんなにもあっさりと散っていく。 無意識のうちに、白子は顔を歪めていた。押し殺したはずの渓への気持ちが一気に膨れ上がってきてしまって、それをなんとか押さえ込むのに必死だ。姫はそんな白子の顔を見てクスッと笑うと、険しい顔をする白子の頬をやんわりとつねる。いきなりの姫の行動に、白子も思わず目を丸くした。 「そんな顔をするなと云っているだろう」 明るくそう言うと、姫は白子の頬から手を放して、紫の瞳を真っ直ぐに見つめる。 「なぁ風魔の長…いや、金城白子に問いたい」 「姫、その名はもう、」 「渓を、どうしたい?」 思いもよらない姫の言葉に、白子は息を呑んだ。真っ直ぐに自分を見つめる金色の瞳から目をそらすことも出来ず、姫の質問を何度も頭の中でくり返す。 「…どういうことですか」 「このまま私が大蛇様に喰われれば、体をなくした渓は三百年の孤独という地獄の中に沈み、三百年後にしかここへ戻っては来れない――いや、蛇の信者の血筋はもう残されていないも同然だ、三百年後に戻ってこれるという保証もない。だが、喰われる直前に私と渓が入れ替われば、渓は三百年の苦しみに捕らわれることなく、自身の体と共にそのまま死んでいける」 抑揚のない言葉が姫の口から発せられる。 「…渓は今、蛇の信者の記憶の底に捕らわれ、記憶を奪われている。しかしあの娘は自我を失ってもなお頑固でな、奪われた記憶を取り戻そうともがいているの。たった一人で、めげもせずに」 ふうっと息を吐いて、だから、と姫は続ける。 「お前が決めるのだ」 「え…」 「お前が決めればいい。私を大蛇様に喰わせるか、渓を大蛇様に喰わせるか」 あまりに唐突な言葉に、白子は固まることしか出来ない。姫は、どういう犠牲の方法を取るのかを選べといっているのだ。そして与えられた選択肢のどちらをとっても、渓の体は失われる。白子の中に溢れてくるのは、渓を消したくないという思いばかりだった。その思いが自身の起こしてきた行動と矛盾していることは分かっていたが、それでも膨れ上がってしまった感情はそう簡単に消せはしない。 あぁ、一体いつから、自分はこんなにも人間らしくなってしまったのか。 考えずとも分かる。曇家に身を置き、渓の傍にいた十年の間に、白子の心は彼等の温もりにあっさりと溶かされてしまったのだ。次々に思い浮かぶのは、温かくて優しい日々と、そこにいた愛しい人の笑顔。与えられた偽りの名前を、特別な想いを込めて彼女は呼び続けた。だからこそ、"金城白子"としての自分をいつしか愛せるようになっていたのだ。 「選べ、白子」 姫は言う。優しくて、それでいて拒絶を許さない強い言葉で。仮に渓の死を選んだとして、そうすれば三百年の闇の中に再び姫は落ちることになるのだ。その孤独な日々を彼女が愛していたとは到底思えないし、今までの話や真実を聞いていれば、むしろその三百年が苦痛でしかなかったことくらいは想像に難くない。 姫は再び三百年間捕らわれることも、死ぬことも望んでいない。そして、やけに渓を気にかけている。きっと彼女は、大蛇に喰われることが怖いわけではない。渓の体が失われることに怯えているのだ。白子はその気持ちをようやく読み取ると、小さなその肩を支える腕に、ぎゅっと力を込めた。 姫がこの選択を自分に託したのは、恐らく渓の為。三百年間捕らわれるにしても、このまま死ぬにしても、せめて最期の瞬間くらい、渓が愛してやまなかったお前が選んでやれ、ということなのなのだろう。例えそれで、姫自身が死よりもつらい三百年の孤独を再び味わうことになったとしても、彼女はきっと後悔しない。 そんな気持ちなど、分かりたくもなかったな、と白子は思う。結局姫は、こうして自らを犠牲にして痛みを負う事で、渓を守っている。自我を失った者が記憶を取り戻そうともがくなど、普通ならありえない話だ。姫がどうにかして操作しているに違いない。全てを理解してしまえば、もう選択肢など一つしか残されては居なかった。白子は軽く溜め息をついて姫を見た。 「では姫、参りましょう」 「結局どうするのだ?私が再びあちらに――」 「俺は、どちらも選ばない」 「…え?」 どういうことだ、と言いかけた姫だったが、白子が再び足を進めたので、慌ててその首にしがみつく。 「お、おい風魔…!」 「急ぎます、しっかり掴まっておくように」 「わ…!」 一気に速度を上げて大蛇の元へ向かう白子は、驚く程に無表情だ。姫は振り落とされないように必死で、口も開けないまま体を硬くして白子にしがみつくのだった。 △ back ▽ |