月は温もりだけを残して風のように去ってしまい、残されたのは一人の女だけ。


十六、安倍蒼世


白子を見送って、顔の熱が収まってから、渓はようやく家の中に入り何度か深呼吸をした。意識すればはっきりと額に甦る白子の熱を感じてしまうので、唐突すぎた彼の行為はなんとか頭の隅に追いやって、渓は一旦日記を片付ける。ひらひらと邪魔くさい袖をたすきで捲くり上げて、渓は祖父の部屋をもう一度くまなく探すことにした。

手がかりになるのは、祖父の日記に記されていた「へびのしんじゃ、ちかへ、すべてもって、みつけて」というたった一文だけだ。正直なところ、渓はこの家に地下があるということに関しては疑い半分だった。この二十年間、地下の存在など感じることもなく生きてきたのだ。それを今になって探そうというのだから、思い当たる節も心当たりも何もない。それでもなぜか、動き出さずにはいられなかった。

祖父の部屋の大きな箪笥を、まずは動かしてみることにした。小柄な渓が一人で動かそうとしたって、持ち上がるどころかびくともしない。仕方なく箪笥の中身を一旦全部取り出して、それから必死に動かそうと試みる。ようやく少しだけズレたくれた箪笥の下には、同じく畳が広がっているばかりだ。ハズレか、と落胆しながらも、渓はもう一度気合を入れて箪笥を元の位置に戻し、取り出した中身に手がかりらしきものはないかを一度確認してから箪笥の中にしまう。そんな地道な作業を一人でこなしながら、ようやく片付けまでを終えた頃、すっかり太陽は沈んでいた。どうりで暗いわけだ、と思いながら、渓はひとつ欠伸をこぼす。滅多にしない力仕事は随分な体力を消耗させた。今日はもうお風呂に入って休もう、そう思って風呂を沸かして体を温めた後、渓は疲労もあったため、深い眠りの底に落ちていった。



遠くから声が聞こえて、渓はゆっくりと目を開く。渓がいたのは暗闇の中で、自分のいる場所だけが照らされているらしく明るい。空気は妙に冷え切っていて肌寒く、全身に悪寒が駆け巡る。一体ここは何処なのだろうと思いながら起き上がろうとするものの、渓が動かせるのは指先と目線だけで、体は金縛りにあったかのようにピクリとも動かなかった。

そんな渓を目指して、のんびりとした足音が近付いて来る。不気味なほどに落ち着いたその音は、より一層渓を不安にさせた。本能的に逃げなければと思うのだが、どれだけ必死に足掻いても体は鉛のように重く、動いてくれる様子はまったくない。

足音がすぐ傍まで迫っていた。渓は目線だけで足音の方を見る。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がってきたのは、頭からすっぽりと外套を被った誰かだった。顔も体も、外套に覆われていて一体どんな人物なのかも分からない。渓は言い知れない恐怖に、唇が僅かに震えた。助けを呼ぼうにも、声も出せない。

その人物は渓のすぐ傍まで近付くと、怯えきった顔で身動きが取れないでいる渓の姿を見て、僅かにくすっと笑った。そして渓の頭の近くにしゃがみこむと、飄々とした口調で言った。

「ようこそ、大蛇様に選ばれし姫君の器」

それは、聞き覚えのある女性の声だった。その声を聞いた瞬間を、渓はすぐに思い出す。


―――これでいいのよ、お前が悲しむことはないわ。


天火が死刑になった日、頭の中に直接響いた声と同じ声だった。こんな声の女性に心当たりはないのだが、なぜか妙に馴染んだ声に、渓は喉の奥がスッと冷えていくのを感じた。相変わらず声は出なくて、あなたは誰、とも問えないまま、ただ外套の奥に隠れたままの顔らしきものをじっと見つめることしか出来ない。

「やっと私を探す気になってくれたのね、嬉しいわ。あの風魔の長も、うまくお前を利用したものだ」
「…?」

女の言っている意味が分からなくて、渓はただただ見えない顔を見つめるばかりだ。外套の下に広がる闇の中、女が僅かに微笑むのが見える。

「恐れることは何もない。お前は一族の最後の生き残りでありながら、大蛇様に選ばれたのだから。誇るがいいわ」

女はそっと手を伸ばし、渓の白い頬を細い指の背で撫でた。ひんやりと冷たいその指先からは、生きている気配をまるで感じない。そのくせ触れられた頬はじんわりと温もりを持っていて、ひどく心地良いのだ。渓はぞっとした。この女は危険だと、頭の中に警鐘が鳴り響く。

「案ずるな、お前は私と共に歩むのだ。もう何も考えなくて良い、全てを私に委ねなさい」

そう言いながら、女は両手を渓に伸ばして、怯えた顔を両手で包もうとする。渓は、だめだ、と直感的に思う。動け、動け、と必死に己の体に言い聞かせて、精一杯抵抗しようと試みる。

「――――!」

渓は伸ばされた腕をパシンと勢い良く振り払うと、上体を持ち上げて女の体をドンッと押した。全身から嫌な汗が噴き出して、体中がガタガタと震えている。うまく呼吸も出来ないままだったが、それでも必死に女を睨みつけて抵抗した。ぺたんと尻餅をついた女は、そんな渓の様子を見て、なぜか楽しそうに笑った。

「あら、まだ抵抗する精神力が残っていたの?しぶとい娘」
「…」
「まぁ、いいわ」

女は外套をふわりと靡かせながら、妙に美しい所作で立ち上がると、渓をじっと見つめた。

「可哀想な渓、最後の生き残り。ここで私に全てを委ねてしまうのが、一番傷付かなくて済む道だというのに。まったく愚かなこと」
「…」
「けれど覚えておくがいい。目覚めてしまったあの日から、お前に抗う道はない。もはやお前は、私の一部でしかないのだから」

女はくるりと踵を返すと、再び暗闇に向かって歩き始める。遠ざかる足音を耳にしながら、渓は全身の力が抜けてしまって、再びバタリと倒れてしまった。緊張から解放されたのだろう。そんな渓を一度振り返ると、女はニヤリと意味深に笑った。

「探せ、真実を。全てを知ったとき、お前は―――」

遠ざかる意識の中で渓が最後に見たのは、外套の下で自分の姿を射抜く、金色の瞳だった。



ガバっと勢い良く起き上がった渓の目には、見慣れた部屋が映し出されていた。いつもの自分の部屋、畳の匂い、柔らかな布団、夜明け前。いつもと何ら変わりのない、見慣れた自宅の風景がそこにはあった。

渓の体は、汗でぐっしょりと濡れていた。布団から起き上がったことで急速に汗が冷えて、嫌に寒い。妙にリアルで苦しい夢をみたせいだろう。渓は自分の体をぎゅうっと強く抱きかかえた。自分という存在が、確かにここにいるのだということを確認するために。

しかし、心はざわざわとしていて、気持ちが落ち着く気配はない。抱きしめた自分の体は冷え切っていて、あの冷たい指先を思い出させた。脳内では夢の内容がぐるぐると巡り、最後に見た金色の瞳が忘れられない。

「……金色の、目?」

そこで渓は思い出す。いつだったか鏡に映し出された自分の目が、金色をしていたことを。

「…」

ぶるり、と全身が震えた。夢にしてはやけにはっきりとしていて、あの冷たさも恐怖もありありと思い出せるのに、何一つ確信に迫れていないのだ。自分は自分を知らない。それどころか、真実を全て隠し通されて今日まで生きてきたという現実が、渓の目の前に突きつけられてしまった。

私は、誰なんだろう。

やけに喉が渇いて、頭が重い。このままじゃいけない気がして、渓はくらくらとする頭をなんとか持ち上げて立ち上がった。はだけた寝間着もそのままに、台所にやって来て温かいお茶を入れる。それを一口、喉に流し込むと、ようやく気分が落ち着いてきた。汗まみれの寝間着にやっと嫌気が差してきて、渓はお茶を飲み干した後、風呂場に向かう。しゃんとしなければ、空丸に心配をかけてしまうからだ。

私は大丈夫。そう言い聞かせながら渓は深呼吸をする。白子のいない今、あの神社に大人は自分しかいない。しっかり胸を張っておかないと、年下の者は不安に思うだろう。

笑え、私。

まだ胸の中に残るもやもやと無理やり押し殺して、渓はパチンと頬を叩いた。



あの夢を見た日から、早くも一週間が経過していた。白子はまだ宙太郎を見つけていないようで、あれから一度も帰ってはいない。大怪我をしていた風魔の少女は錦といって、帰る場所もなかったため、今は曇神社に居候している。同性が曇神社にいるということが嬉しかった渓は、夢のこともすっかり忘れて、すぐに錦と仲良くなった。空丸は犲の隊長である蒼世に剣を教わりに、橋渡しの仕事の合間を見つけてはよく京都に出向いているので、渓はあまり常識のない錦の世話を良く焼いていた。そして夜は相変わらず地下を探しまわっているのだが、まったく手がかりは見つからなくて、渓は僅かに諦めてもいた。

そんなある日の朝、渓はいつものように神社に向かって歩いていた。最近はやけくそになって夜中まで地下を探し回っているせいで、あまり眠れていない。目の下に出来た不健康そうな隈を連れて、曇家への階段を上りきると、渓は目の前に立つ人物を見つけて固まってしまった。その人物も、背後の気配に気付いて振り返ると、固まる渓の姿を見つけてほんの少し目を丸くさせる。

「…渓か」
「…蒼ちゃん…」

渓の目の前にいたのは犲の隊長である安倍蒼世だった。十一年前の記憶が甦って、渓は反射的に目を逸らす。

「…どうして、ここに?」
「いつも犲の鍛錬所での稽古だからな。たまにはいいだろうと思ってな」
「そう…空丸も、喜ぶよ」

渓はなんとか蒼世を見て笑うと、再び目を逸らしてしまう。そんな渓を見て、蒼世は鋭い目を優しく細めると、渓の細い手首を取った。渓は驚いて蒼世を見上げる。

「腕の傷は、もう良いのか」
「腕の傷…?」

一瞬何のことか分からなかった渓だったが、すぐに嘉神によって負わされた傷のことを思い出した。

「あぁ、あれならもう平気よ。まだ跡は残ってるけど、時間がたてば綺麗に消えるって、先生が」
「そうか、ならいい」

蒼世は安心したようにそう言うと、渓の小さな頭に優しく手を乗せた。渓は驚いて蒼世を見上げるばかりだ。渓の視線を受けて、蒼世も首をかしげる。

「どうかしたか」
「あ、ううん…なんでもない。心配してくれて、ありがとう」

渓は戸惑っていた。まさか蒼世がこんな風に自分に声をかけてくるなんて、思ってもいなかったからだ。

十一年前、天火の両親が殺された日、渓もその場にいた。怯えるばかりでガタガタと震えて、逃げ出すことも助けを呼ぶことも出来なかった幼い自分を思い出す。あの時、その惨劇の場に蒼世が駆けつけなければ、もしかしたら天火だって生きてはいなかったかもしれない。危うく自分は、天火を殺しかけたのだ。

あの日以来、蒼世の視線は渓の知るそれとはまるで違うものになった。以前は鋭くも柔らかな視線で、無愛想ながらも確かに愛情を感じるものだったのだが、まるで人形のようにぽっかりと何かを失ってしまった蒼世の瞳が、渓は怖かったのだ。その目で射抜かれる度にあの日の自分を責められているような気がして、渓は自ら蒼世を避けるようになってしまった。その後、天火が犲を抜け、それっきり蒼世に会うことも、文を寄越すようなこともなかった。

渓にとって、蒼世はある意味戒めのような存在だ。十一年前の痛みと後悔を、忘れないための。

「渓、最近ちゃんと眠っているか?」
「…え?」
「疲れた顔をしている。無理せず少しは休め」
「…」

蒼世が、労わるように渓の頬を撫でた。どこか遠慮がちで、壊れ物を扱うかのような手つきに、渓は思わずぽかんとしてしまう。無理もない、あの日以来、蒼世は自分のことを見限ったのか、もしくは嫌ってしまったのだろうと、渓はずっとそう思い続けてきたのだから。

「…蒼、ちゃん」
「…済まない、気安く触れたな」

蒼世は渓から手を退けると、小さな体に背を向けて曇家の引き戸を開けた。渓も慌ててその後を追う。玄関先では空丸と錦が朝からなにやら話をしているらしかった。引き戸が開いたことにも気付く様子はなかったので、蒼世はコンコンと引き戸を叩いた。その音にようやく玄関先を見た空丸と錦は、蒼世とその後ろにちょこんと佇む小さな渓の姿を見つけて、驚いたように目を丸くした。

「師匠!どうしたんです!?こんな朝早くに…それに渓さんと一緒なんて」
「渓とは先程そこで会っただけだ。いつも犲の鍛錬所での稽古だからな、抜き打ちで出向いてやろうと思ってな」

蒼世の言葉に空丸はひどく感動している。空丸が蒼世を師匠と呼んで慕っているのは渓も知っていたが、ここまでとは思ってもいなくて驚いた。ちらりと目の前の蒼世に視線をやるが、後姿なので当然どんな顔をしているかは分からない。しかし、以前鎮守の森で再会したときよりも、ずっと雰囲気が柔らかくなっている気がした。視線を空丸に移せば、侵入者と勘違いしたのか苦無を取り出す錦を必死に押さえる、逞しくなった弟の姿が映る。

空丸の真っ直ぐさが、頑なだった蒼世の心を溶かしたのかも知れない。渓は蒼世とは向き合うことが出来なかった自分の姿を空丸と比べて、ちくりと心が痛むのを感じた。もう少し空丸のように蒼世と真っ直ぐに向き合っておけば、ここまで蒼世との距離は離れなかったかもしれない。今さら悔やんでも遅いというのは分かっていたが、そう思わずにはいられなかった。

「そうだ師匠、ついでに朝飯食べて行きませんか?」

空丸がそう言うものの、蒼世は難しい顔をして空丸を見つめるばかりだ。不思議に思った空丸は首を傾げてみせる。

「師匠?」
「――…ああ、貰おう」
「あ、じゃあ私準備するから、三人はゆっくりしてて」

渓は出来るだけ蒼世と空間を共有するのを避けたかった。というのも、まだ距離感を計りかねているからだ。十年以上もぎくしゃくとしたままだったというのに、突然一緒に朝食を囲む、だなんて、渓にはなかなか難しい。しかし、準備を始めようと台所に足を踏み出しかけた渓を引き止めたのは、意外にも蒼世だった。

「空丸、渓と少し話がある。朝飯は頼んでもいいか?」
「あ、はい、もちろんです、ゆっくりしててください。錦、ちょっと手伝って」
「はい、空丸様」

思いもよらない展開に渓は唖然とするばかりだが、そんな渓の様子に気付く事もなく、空丸と錦は台所に立ってしまった。渓はおずおずと蒼世を見上げる。蒼世はそんな渓の顔をじっと見つめ返すと、小さな手を引いて家の中に足を踏み入れた。結局渓も仕方なく、手を引かれたまま俯いて、蒼世の後に続くしかなかった。

部屋に入り、二人は向かい合う形で座る。渓は目線を合わせられず沈黙することしか出来ない。蒼世はそんな渓の姿を見て、随分と萎縮されるようになってしまったものだと、知らぬ間に出来上がってしまった距離に気が重くなる。それも自分の責任ではあるのだろう、というのは蒼世も感じていた。

十一年前、両親を失った天火が弟たちのために犲をやめるといったあの時、その弟たちの中に、渓という妹の存在が含まれているとうこともきちんと蒼世は理解していた。争いからは程遠い彼女だ、人が殺されるところを目の当たりにしてしまったのだから、精神的に支えてやらねばと思ったのだろう。それでも、蒼世は天火を許せなかった。一緒に国を守ろうと言って犲に誘い、散々人を引き付けておきながら、天火はあっさりと犲を抜けたのだ。見限るのも無理はない。

しかし、蒼世は渓を見限ったつもりはなかった。あの血まみれの部屋の隅で、顔を青白くして頭を抱えながらガタガタと震えていた渓の姿を、蒼世は忘れもしない。幼少時から小柄で、まだ赤子だった宙太郎の次に非力だったであろう渓は、真っ先に殺されてもおかしくない状況だった。だからこそ、渓が無事で良かったと心の底から蒼世は思ったのだ。嫌ったことも、見限ったことも今まで一度だってない。ただ、蒼世にとって悲しかったのは、渓が犲を抜けた天火についたことだった。自分の中で裏切り者のレッテルを貼り付けた親友の肩を持った妹分に、やるせない思いは確かにあった。その感情が不器用な行動になって、渓を傷つけてしまったのだろうことは、心の奥底では分かっていたのに。

「…悪かった」

突然の蒼世からの謝罪に、渓は思わず顔を上げた。ぽかんとした表情で、すっかり男らしくなった蒼世の顔を眺めるばかりだ。蒼世はそんな渓の目を真っ直ぐに見つめ返す。渓にとって最後の拠り所でもあった天火を失ってしまった今、渓が一人で背負い込むものは大きすぎる。その上、自分との関係を拗らせ続けるのは、蒼世にとっても喜ばしいことではない。今日此処へ来たのは他の目的もあったからなのだが、いい機会だろう、と蒼世は思った。自分が大人になってやらなければ、一生渓との関係もこのままだ。

それに、現状渓が頼れるのは居候の風魔、金城白子だけだということも蒼世は理解していた。空丸から嘉神直人の脱走や宙太郎がいなくなったこと、それを追って白子が家を留守にしていることも聞いていたので、渓にとって唯一頼れる相手が傍にいないことが、蒼世にとって心配の種だ。渓は強くはない。そのくせすぐに無理をする。よもや自分を頼るようになるのでは、などとは思ってもいないが、少しでも渓の負担が軽くなるのなら、蒼世にとっては何よりである。

「あの日から、随分つらく当たったな。お前を悲しませるつもりはなかったが、結果的に悲しませることになってしまった」
「…」
「今さら何を、とは思うだろう。それならそれで構わん、だが俺は―――」

言いかけて、蒼世は固まった。渓が突然ぽろぽろと泣き出してしまったのだ。次は蒼世がぽかんとする番で、その間に渓は両手で顔を覆ってぐずぐずと鼻まですすり始めてしまった。幼い頃から泣き出した渓の対応はいつも天火がしていたので、蒼世はどうすればいいか分からず、珍しくうろたえるばかりだった。


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